世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

スメルサー『社会科学における比較の方法』 全体の内容と意義

 先の記事では、スメルサー『社会科学における比較の方法』3章の内容をまとめました。
 以下では、3章の内容と絡めながら、本書全体の議論の再記述を試み、本書の意義について検討します。



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 本章は、デュルケムとウェーバーが、その明示的な方法論において大きく異なった方針を掲げていたにもかかわらず、2つの点で似通っていたことを指摘している。第一に、単位の創出 (分類) や説明の次元、変数の扱い方、統制など、共通の事柄に気を配っていたということ。第二に、諸事例の説明において、「その他知識」(心理学的仮定) に度合いの差はあるにせよ依存したということである。大まかにわけると、6章では前者、7章では後者が取り上げられている。以下、その内容を簡単に見ておこう。


 研究を成立させるにあたり、科学者は〈操作変数/パラメーター〉を区別し、考慮するものと考慮しないものを統制する (:180)。こうした操作は科学的知識を獲得するどんな場面においても (データの形成時から、数学的処理、説明においてまで) 行われる (:181-8)。比較分析における方法論的諸問題も、この観点から説明することができる (:188)。

 比較分析を行う上で研究者が直面する問題は、次の3つである。(1) その社会単位は比較可能か、(2) 抽象的変数はどちらの対象にも用いうるものか、(3) 標識は互いの社会の文脈を超えて利用しうるものか (:192-3)。それぞれ見ていこう。

(1) 単位の創出は、特定の単位に諸事例を分類していくことでもある。分類という操作においては、分類されたものは共通の特徴を持っていると想定されることになる。その想定によって多くの事柄はパラメーター化され (すなわち、考慮しなくても良い変数であるとされ)、その操作を経ることでその他の分類との比較が可能となる (:195-6)。この操作は研究者によって為されるものであるため、分類が恣意的である可能性は常に付きまとう。その恣意性を排除するために様々な試みが為されてきた (大きく注意すべき点は、p.198-200の通りである)。

(2) 比較においては変数の抽象化と特定化の間でジレンマが生まれるのだが (:201-4)、その際に文化被拘束的な概念を、異なる文脈のなかに測度として導入してしまうことが多々ある (:204-6)。これは変数と比較次元に関する一般的な問題であるが、この問題は「特定の理論的目的と望んでいる比較の視野のレベルとの関わり」において (つまり研究者自身の視野に応じて) 解決されなければならない (:211)。そして、ここでは研究する社会単位のなかに、選択した変数の標識 (例証) を見つけ出すことができるということが重要であり (:270)、もし不可能な場合それが誤差の原因となる (:223)。

(3) 標識の選択は、標識が異なった社会単位を横断して同じ意味をもつか、あるいは比較可能であるという仮定、すなわち比較単位において標識の位置づく文脈が類似しているという仮定を含む (:270)。標識の選択に関して重要なのは、研究者による標識の選択が結果自体に大きな影響を与えてしまうということである (:214)。これは研究者が消極的に関わるデータであっても、積極的に関わるデータであっても同様であり、どちらの場合でも標識が位置づく文脈をどのように考慮するかという問いから研究者は逃れられない (:215-8)。

 これらの問題とそれへの対処法から導き出せる事柄が二つある。(a) 研究者は、分類や変数の同定、標識の選択という作業を通じて、「体系的な比較分析が確定しようと努めている最終的な相関性と因果関係に影響を与える変動の重要な原因をなしている」(:193) ということ。(b) 統制すること (すべての事例において共通なものを決定すること) と説明すること (独立変数を参照しながら変化を説明すること) は同じ手続きであり (:200)、上記の操作と説明という操作の間には本質的な対応が存するということ (:220)。簡単な言葉でまとめておくと、相関性や因果関係を明らかにする試み、またそれを説明する試みにおいて、研究者が与える影響はかなり大きく、それを取り除いて研究という試みを成立させることは不可能だということだ。



 7章においては、因果的推論の不確定性と、それを補強するための種々の方法がまとめられている (:237)。例えば、変化の原因を統制する標本抽出 (:241)、類似した対象を選択したり (:242)、あるいは単位内変動を見たりすること (:243)、変数を統制する多変量解析 (:247)、時間の導入によるパターン化 (:252)。レベルを横断せずに因果的推論を行うことも重要であろう (:256)。このようにしていくつかの可能性を排除することにより、因果的推論が深められるのである。

 また、因果的推論は「その他知識」によるパラメーター的諸仮定にも支えられている (:259)。諸変数間で相関関係が確認されたときに、さらに踏み込んでその変数間の関係が因果関係であるということの確信を深めるためには、実証は困難だが論理的に妥当であるような (例えば、ある事柄は個人に対してこのような意味を持つはずだ、といったような)「その他知識」による「説明」が必要とされてしまうのだ。

 以上の2つとも、つまるところパラメーター化の諸作業 (研究においてどのような対象やどのような関係を重視し、どのようなものは逆に重視しないかを決める作業) として理解することができよう (この点でも、変数を統制することと変数間の関係を説明することは、同等の手続きであるといえる)。諸研究を区別し整序する際にも、各研究がこうした作業を通じて何をパラメーターとして選択しているかが目印となるだろう。諸事例が位置づく文脈を従属変数とすることで説明されるべき変動を同定したり (:263)、逆に文脈を独立変数とすることである側面を強調したり (:264)、あるいは「その他知識」への依存の度合いにおいても種々の理論は異なっている (:264)。いずれにせよ重要なのは、因果関係だけではなく、それを支える種々の仮定 (何がパラメーターとして凍結されているのか) を明らかにすることなのだ (:265)。

 そして、これらは結局のところ、因果的推論において研究者が大きな役割を果たしているということを示唆している。重要なのは、研究者が何をパラメーターとし、そうすることでどのように研究を成立させたのかということなのである。「研究者の種々の理論的仮定は、彼が何を変数として、定数として、原因として、結果として、選択するかに大きな影響を与えている。さらに、こうした選択は、彼が適切な標識を経験的世界のどこにさがし求めるかを決定する」(:271)。



 さて、以上が本書で提示された議論のまとめである。本書を通じて、スメルサーは何を行ったのだろうか。まず、彼は因果的研究を「比較方法(統制法)」と「説明」の合わせ技として定式化しなおした。そのうえで、その過程のいずれにおいても (単位の創出から説明においてまで) 研究者が研究を成立させるための様々な操作を行っているということ、研究の成立に研究者は不可欠であり、それゆえに研究と研究者は切り離せないものであるということを明確にした。特に、因果関係は深められうる推論でしかなく、それを成り立たせているのは研究者が導入した様々な仮定であるという指摘は重要だといえるだろう。このような整理を通じて、彼は諸研究を評価・検討するための視座を定めたのである。

 今日の社会学においても、行為者と観察者の役割をどう定めるかは盛んに議論の的となっている。観察者の役割を研究の成立に不可欠なものとして特定した本書は、こうした議論に対して大きな意義を有するものである。それも、ただ概念的な問題としてではなく、学史に即しながら実際の諸研究事例をふんだんにとりあげ、方法論上の問題としてこれを記述したところに、本書の価値があるといえよう。