世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

そもそも「ゲルマン民族の移動」なるものを、そこまで重視する必要はあるのか。


 先日読書会のなかで「ゲルマン諸族の移動の話って、生徒にどう伝えれば意味のあるものになるんだろうか」という雑談があった。これ、私が見る限りでは「意味がないとは言わないが、そこまで重視するものでもないし、そもそも『山川世界史B』といった教科書の流れに無理があるかも」というのが答えになりそうだ。どうせなのでメモしておく。



 話をいわゆる「ローマ帝国末期」から始める。山川『高校世界史B』(世B314) は、この時代の話を以下のように構成している。

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ローマ帝国衰退観


 まぁ妥当な書き方に見えるのだが、これが妥当に見えるのは、西ヨーロッパを歴史の中心として見ているためである。山川の教科書では、この話のあと第五章「ヨーロッパ世界の形成と発展」でゲルマン大移動から始まる西ヨーロッパ初期中世史が入る (:77~83)。これに対し、「ビザンツ帝国」は後から数ページのみ触れられ (:83~85)、ササン朝などは各ページにパラパラと登場するのみである (:19)。

 このような構成の元では、「ローマ帝国は崩壊した!そして新しい時代がやってきて、その最初の主役がゲルマンだ!」となってしまい、「ローマ帝国ビザンツ帝国の連続」が理解できなくなる。そこで試しに、上の構成の結論部分を東ヨーロッパ側の視点に置き換えてみよう。

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東ローマへの連続性を強調した歴史観


 どうだろう。結論を書きかえた途端に、既存の情報の意味が変わっては来ないだろうか。ディオクレティアヌス専制君主制はビザンツ帝国の基礎をつくり、また彼は帝国の中心地が2つに分かれた (東側も一つの中心地として栄えだした) ことを理解していた。コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認しつつ、東の都として東西交易路の要所に位置するビザンティウムを建設し、これをコンスタンティノープルとする。彼はビザンツ帝国アイデンティティとなるキリスト教、そして帝国の新たな中心地をつくりだしたわけだ。やがてテオドシウス帝が帝国を分裂させたとき、彼は兄の側に東ローマを与えている。この時点ですでに、ローマ帝国の繁栄地は東側へと移りだしていた。

 さらに、教科書では副次的な情報としてしか登場しなかった「ゲルマンやササン朝」も、重要な情報へと格上げされることになる。彼らの接近は、西アジア地域とローマ帝国東方のかかわりが盛んになりつつあったことを示唆しているからだ。したがって、視点は「軍人皇帝」といった内部紛争よりも、西アジア地域との相互作用の方に重きを置かれることになるだろう。

 こうして、「ゲルマン諸族の動きを必死に見ていく世界史」ではない視点の可能性が開かれていく。


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 実は、このような見方への批判もすでに多く提出されている。やっぱりディオクレティアヌス帝の時代はどう見ても混乱していたりするし (彼が帝位を引いたあと、帝位をめぐる争いが繰り返されたなど)、ビザンツ帝国もけっこう息絶え絶えという感じではある。しかし、重要なのはこの時期以降経済のネットワークが大きく変化していくこと (地中海世界ネットワークが崩壊し、東方ネットワークが中心となっていくこと、特にイスラーム教徒の登場以降そうした流れが加速していくこと) であり、 もし世界史の大きな動きを追うのならば、西ヨーロッパの混乱を見るよりもむしろ、東ヨーロッパ側の変容を見た方がよっぽどスムーズな話をできるのではないか。

 その点で注目すべきは、驚くほど貿易に有利な場所へ位置したコンスタンティノープルという都市であり、その歴史上の地位がどのように変化していったかというトピックである。コンスタンティノープルという交易の一大結節点を中心に、貿易ネットワークの変化をおさえていくべきであり、だからこそこれまでの記事にも書いたように中央ユーラシア史も重要になってくるのだ。ここに中国史を絡めることもできよう。いわゆる「大航海時代」がやがて西ヨーロッパから起こるとしても、それはそれで交易ネットワークの変化として描き出せばよいのであって、西ヨーロッパばかりを主軸にして歴史を見ていく必要性はあまりない。

 こうした見方は (批判もありつつも) すでに広く共有されており、例えば2021年版岩波講座世界歴史の3巻には、『ローマ帝国西アジア』という題がつけられている。ローマ帝国を見る場合には、西アジアとの相互作用を見ていく必要性があるのだということだろう。今後も、グローバルヒストリーという言葉の下で、こうした枠組みの見直しが進められるのではないだろうか。

 こういうと何やら「グローバルヒストリーという言葉に酔っている」との批判も聞こえてきそうだが、別に「グローバルヒストリーだから良い」「その他の歴史叙述が悪い」と言いたいわけではない (ましてや、ゲルマンがどうでも良いと言いたいわけでも、もちろんない)。ただ、既存の情報を並び替えることで、差異 (新たな情報) を生み出すことは可能なのであり、その可能性は繰り返し探るべきである、とは言いたい。そして、柔軟に情報を組み替えることでそうした差異を生み出し、新たな見方を発見・吸収するための優れた方法にカード法があるということも、改めて強調しておきたいと思う。上の話で言えば、ディオクレティアヌスコンスタンティヌス・テオドシウスという3つの要素は変化していない。変化したのはそれらの要素を位置づけるネットワークであり、そのネットワークが要素の持つ意味を左右している。ネットワークの組み換えは、(仮に同じ要素しか使わないとしても) 既存の情報から新たな意味を生み出しうる。そのために、情報をカード方式で整理し、それらを並び替えてみるべきなのだ。

(*そして、この方法は、組み換えだけではなく情報の追加に対しても柔軟である。例えば先に触れたようなディオクレティアヌス帝期の混乱があると知ったのなら、その情報をカードとして追加すれば良い。その他、事実や史料を追う上で様々な情報が見つかるだろうが、それもそのたびに追加すれば良い。それら追加した要素を含めて全体を俯瞰したときに、情報の異なるつなぎ方が見つかるのであれば、それを採用すれば良い。そのとき、要素となるカードの持つ意味は、やはり初めのそれからは変化していることだろう。この方法は、常にそうした可能性へと開かれている。)


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 ここから先はただの蛇足だが、もう一段抽象度を高めてみよう。抽象度を高めると、カード法もグローバルヒストリーも、どちらも「システム的な」ものの見方と言いたくなる (物事は、抽象度を高めれば高めるほど意味のない空論になりやすい。特に歴史においてはそれが顕著なので、以下はただの妄言であり、あくまで蛇足でしかない)。

 上で述べたようなグローバルヒストリーにおける都市論は、特定の都市やその支配者の動きを中心とするのではなく、その都市が位置づくネットワークを中心に見る。以下では例として、大都市Aの交易ネットワークの変化を図式化してみよう。

 まず、ある時期まで大都市Aは、西方諸都市と主に貿易をしていたとする。それを表すのが以下の図である。

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西方とつながる都市A



 時代が下るにつれて、大都市Aは東方諸都市と主に交易を結ぶようになった。それを表したのが、以下の図である。

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東方とつながる都市A


 このときに重要なのは、ここで起きているのが単なる貿易ネットワークの変化だけではなく、「大都市A」なるものの変化でもあるということだ。所属するネットワークが変化すれば、大都市Aの経済規模や構成員、文化的地位、世界史上の役割も変化する (例えば、地中海ネットワークに位置づいていた時期のコンスタンティノープルと、東方貿易ネットワーク上のコンスタンティノープルでは、様々な点で性格が異なる[詳しくは中公文庫『世界の歴史⑪ ビザンツとスラブ』など])。要は、ネットワークの変化に応じて、都市Aなるもの、その内実も変化するのであり、都市Aなるものを形作るのは都市そのものではなく、それをとりまくネットワークのほうかもしれない、ということだ。

 そして、「ネットワークのほうを本体として見ることもできる」という点を了解すれば、そもそも都市Aを中心において交易の変化を描き出す必要性すら薄くなる。ネットワークには中心がない (結びつきのタイト・ルーズさや集約具合の差、即ちネットワークの密度の差はあるが、中心というものを想定する必要はない) からだ。この視点の下で、各地の歴史を整理してみることは意義深いことであろう。繰り返しになるが、これが唯一の視点だとはいわないし、史料や考古学に基づかない妄言になってもいけない。しかし、同一の要素をこうした視点の下で並び替え、新たな見方を探ることに、それなりの可能性はある。





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