世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

「困難校」と知識についての小話。あるいは、授業における教師の仕事とは?


 いわゆる「困難校」と知識についての小話。
 4000文字強あるよ。




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 私は地理の授業の一時間目で、生徒を連れまわし学校中を見てまわるようにしています。このようにいうと、何か「小学校の授業のようなレベルの低いことをしている」と思われるかもしれません。「もしかして生徒が授業中座っていられないからそんなことをしているのでは?」と邪推する人もいるでしょう。

 しかし、私は生徒に「なんかよくわからないけど面白い!」などと錯覚させるためにこのようなことをしているわけではありません。「知識」というもののある重要な側面を伝えるために、あえてやっているのです。

 例えば学校内をまわる地理の授業では、史資料を与えるとともにいくつかの注目点と地理的知識を伝えながら、「学校の地盤がかなり緩く、土台部分が沈下しつつあり、それのせいで建物が崩壊しつつある」ということを見ていきます。そして、それと同時にここで重点をおいて説明しているのが、「“見られてはいるが、気づかれてはおらず、説明されてはいないもの” が、我々の周りにはたくさんある」ということです。

 学校の生徒であれば、誰もが校舎内をまわったことがあります。壁に入っているヒビや、大きく歪んだ土台部分のコンクリートも目にしたはずです。しかし、(これが最も重要なのですが) そのように何度もくりかえし目にしているにも関わらず、それに注目したことのある生徒がいるかと聞くと、一人も応えないのです。日々遭遇しており、また自身らの安全に直結するものであるにも関わらず、それらは完全に意識の外にあるのでした。

 知識を身につけ、それを応用することで初めて、ある事実に注目し、理解し、ときに行動を変容させることができる。知識にはそのような側面があります。


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 こうした話は、別に地理のみに当てはまるものではありません。例えば私たちは毎日、誰かと会話をします。それ自体はありふれたことですが、この会話というものも「見られてはいるが、気づかれておらず、説明されていないもの」の一つです。私たちは (会話の内容や相手の表情などには注目する一方で)「会話」という実践そのものを一々記述したりすることはありません。しかし、社会学の知識を踏まえると、途端にそれは「多くの人が日々何気なくこなしているが、非蓋然的 (実はけっこう難しいこと) であり、かつ記述に値する固有の秩序を有した実践」として見えてきます。

 あるいは「授業」などもそうでしょう。誰もが児童・生徒として日々それを受けていたにも関わらず、またしばしばその様子は興味深いものであるにも関わらず、その秩序を記述しようとはなかなかしません。

 いつでも目の前にあるのに、注目されず、気づかれないもの。社会学の知識は、そうした日々の実践への注目を促し、記述を試みるよう我々に促すのです。

 地理の知識と社会学の知識。それらは全く異なるものですが、このように並べてみるとそれぞれが果たす共通の役割が見えてきます。知識とは「“見られてはいるが、気づかれてはおらず、説明されてもいないもの” を発見・記述するための装置」である。それは知識の全てを言い表すものではありませんが、知識が果たす重要な役割の一つを指しています。


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 では、これを生徒に伝えることにどんな意味があるのでしょうか。第一に、知識の有用性を理解してもらうことができます。彼らは地理の知識がないから危険に気づけなかったのであり、今後は手に入れた知識を災害対策や居住地の選択に活かすことができます。生活のなかで活用できるのです。

 しかし、そうした有用性の強調は、あくまで入口でしかありません。私がより重点を置いているのは、「目の前にあるもの (事例・データ)」や「自分の生活上の関心 (実践的関心)」と、「教科書にある知識 (抽象的概念)」を行き来するという、社会科学の基本を体験させることです。

 冒頭で述べたように、校舎内を歩かせるような授業は、ともすれば「レベルの低いもの」だと見なされがちです。しかし、「事例・データ」と「抽象的概念」を行き来する実践として捉えれば、基本的にはいわゆる「研究」とやっていることは変わりません。研究とは、事例・データと抽象的概念を往来しつつ、その双方を様々なレベルから記述する営みであるといえるからです (もちろん、共有された手続きに従って行うことや新奇な情報をもたらすことなどが追加の条件となるため、研究のほうが圧倒的に難しくはあるのですが)。


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 さて、ここまでゴチャゴチャと書いてきましたが、なぜこのようなことをわざわざ書いているのかというと、(地理の授業だけではなく)「実生活に知識を応用すること」それ自体が、なぜか「レベルの低い試み」だと思われてしまうことが多いように思えるからです。

 例えば、「身の回りのことだけに注目していても、高度なことは教えられないのでは?」などと考える人がいます。確かに身の回りのことに終始したらそれは問題ですが (そもそも身の回りのことにしか当てはまらない「知識」は、知識の要件を満たしていないのでは?と思ってしまうのはさておき)、「知識の応用 = レベルの低いこと」と捉えている点は誤りです。

 一般に知識は、記憶することよりも応用することの方が難しいといえます。例えば、(卑近な例になりますが) 一時期私の父がゲームで英会話を勉強していたことがありました。父はそのゲームにおいて最上位の成績を獲得していましたが、それにも関わらず英語を話せないままです。

 あるいはIQテストや脳トレなどを考えてみてください。テストを繰り返すほど、点数は上がっていくでしょう。しかし、それが意味しているのは「被験者が与えられた課題に適応しつつある」ということであり、「能力 (なるもの) が向上している」かどうかは怪しいといわざるをえません。実際上の問題に直面したときに、どれだけ「知能 (なるもの)」を使うことができるかは、また別の話なのです。

 学校の勉強も同様であり、意味も解らないまま三角関数を学ぶことはできますが、三角関数がどのように使われているかを知り、その実学上の意味を理解して応用することは非常に困難です (あらゆるところで使われているのにね)。プログラミングも、言語を学ぶことは簡単ですが、それを利用して何かを一からつくるとなると、途端に難易度が上がります。etc...etc......

 さて、こうしたことを書いていると何か誤解されそうなので、ここで一つハッキリ断っておきます。私は「使える知識を身につけよう」とか「暗記は無意味だ」といったことを言いたいのではありません。知識は応用を繰り返しつつ、具体的な事柄と抽象的な概念を行き来することで意味を持つのだということを強調したいのであり、その点で「応用」とは低レベルなことでも簡単なことでもなく、まして無駄なことでもない、ということを言いたいのです。


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 以上の話を「実践的関心」という側面から考えていくこともできます。「日常生活に縛られている知識とは、要するに個々人の実践的 (日常的?) 関心に縛られた知識であり、広がりを持たないからダメだ」と、そう考えることもできるでしょう。

 しかしながら、実践的関心に縛られているのは、進学校の生徒でも教員でも、みな同じです。進学校の生徒は「どう勉強すれば志望校に合格できるか」という関心に縛られているし、教員は「どうすれば上手く授業をできるか」といった悩みに縛られています。誰もが各自の実践的関心を有しているのであり、それを持っていることと、学習内容のレベルが低いこと・高いことはまた別の話であるはずです。

 例を挙げましょう。進学校の受験生が「受験対策として、ユーラシアの遊牧民族の歴史を覚えたい!」という関心から、農牧境界地帯に関する込み入った話を学習していくことはできます。「生徒に歴史を理解してほしい!」という気持ちから複雑な歴史学上の概念と向き合う教員もいるでしょう。それと全く同じようにして、「生活上のどういった問題に対して地理が役立つのか」を入口にしながら諸知識を抽象的に学び、その知識をもとに日常を観察しなおすこともできるのです。実践的関心から話を始めることは、別に悪いことではありません。それだけに囚われてそこに終始すると様々なことを見落としてしまうのは確かですが。

 あるいは、生徒の実践的関心をとっかかりにしつつ、高度に抽象的な知識へと生徒を引き上げていくことが、教師の仕事の一つであると言っても良いかもしれません。実践的関心を踏み台にしながら抽象的知識へと生徒を誘導し、そこから改めてその知識の実践上の意義を眺めさせる。そのような過程をたどらせることで、学習は学習者の見る世界を変えるのです。


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 さて、一体ここまでで何を言いたかったのか。まとめておくと、① 「楽しくわかりやすく身近に勉強すること」と「高度で抽象的な概念を学習すること」は別に相反するものではなく、同時に遂行可能である (というか、社会科学のよく練られた概念は、自然と我々をそのように促してくるし、そこに無理はない)。

 そして、② 知識というものの形式は実践的な関心にしたがって決まるのであり、別に困難校であるから知識が必要ないということやレベルが低いということにはならない。教師の仕事についても同様で、生徒の実践的関心に基づきつつ、そこから高度な知識へと発展させていくという点では、どこであってもやることに変わりはない。

 ③ いずれの場合においても、知識とは実践的な関心に基づきつつ人をそこから引き離すように働くものであり、また我々の見る世界を変容させることで、ときに我々の行動にも変容をもたらすものである。


 で、まぁ最終的に何が言いたかったかというと、どこにいて何を学ぶにせよ、ちゃんと考えて学び、学んだことを応用するのは、それ自体として面白くとても高度だよね、ってことです。教師自身がそれを実践しつつ、生徒にも体験してもらい、お互いに面白さがわかり、そして何かが変わるなら、それが一番ですね。以上。
 




(*ちなみに当たり前ですが、日常的な関心と必ずしも直結しない事柄はありますし、そういう話も避けずにちゃんと授業します。最初から抽象度が高いところに飛び込むことも多いですし、「人生において何の役にたたない知識でも、面白ければ (興味深ければ) それでいいんだ!」とごり押しすることも多々あります。学ぶことのおもしろさが伝わればなんでも良いのです。)