世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

インドにおけるカーストを対象とした比較社会学の再検討  (後半)

—比較社会学における問題の検討と、「人々の作り上げ」を考慮することの必要性について—






カーストにおけるヨーロッパとインドの相互作用 ― カーストの構築性について

 さて、だいぶ長くなってしまったが、デュモンの論を見てきた。これでデュモンが試みた比較研究を理解してもらえたかと思う。西洋的な価値観に頼らずにカーストを把握しようとする彼の意気込みには、ある程度納得できるところもあるだろう。デュモンのいうとおり、自文化の価値観を押し付けてある体系を不平等だと決めつけるのは、ときには誤りであるのかもしれない。そうした誤りを避け、構造主義的分析と比較法を用いることで、自らと異なるがしかし理解可能な社会としてインドを描き出す彼の姿勢は、それ自体としては重要である。

 しかしながら、以上のデュモンの論には様々な問題がある。まず学説史的に見ると、デュモンの論はインドの保守性を強調・説明するものとして受け取られた。田辺によれば「浄と不浄のヒエラルキーという宗教的価値の構造がインド史において一貫して存在し、政治経済的な変化はそのなかに包摂された二次的なものに過ぎない」と主張するデュモンの論は、発表当時の社会的文脈においては「インドではなぜ民主化と開発が進まないかを説明するための枠組みとしての役割を果たした」という (田辺,2008:210)。要するに、西洋社会とは全く異なった社会としてインド社会を描き出すデュモンの論は、インドが近代化を果たせない理由を説明するものとして力を発揮してしまったのだ。ここからは様々な教訓を導き出すことができるが、本報告にとって重要なのは、デュモンはカーストというものがインドの近代化過程でどのように変化してきたのかを捉えておらず、またインド人の行為主体性 *1 を等閑視しているということであり、そうした視点の欠落が、「変化しないインド」という像を創造・強化してしまった可能性があることである。

 また、比較研究として見た場合、デュモンの論にはその弱点が極端な形で表れているように見える。彼は西洋とインドを全く異なる固有の社会として描き出すのであるが、そうすることによって西洋社会とインド社会が互いに影響を与え合う様子を捉え損ねている。実際に、デュモンは植民地化に伴うインドの変化を過小評価し、西洋によるインパクトがあったとしてもなお、インド社会は固有の枠組みを有する特殊な社会であるとした *2。この様子は後に触れることにして、以下ではデュモンの研究に関わる比較研究上の困難を整理しておきたい。

 比較という試みは、各社会を時間軸上にではなく、それぞれ完成した個体として同一平面上に並べる特性を持つ。ウェーバーの研究においても西洋社会・インド・中国はそれぞれ独自に発展し固有な価値を持った社会として想定されていた (厚東,2011:94)。デュモンにおいてもそれは同様で、彼の比較においては歴史的な区切りが一切想定されていない (例えば、「19世紀におけるインド・西洋の比較」といったものではない)。「西洋」と「インド」は一つのまとまりとして、非歴史的に比較されているのである。

 そして、このような比較はいくつかの困難を生み出す。以下、厚東洋輔の論を参照しよう。厚東は、比較研究を「対象の個性を把握する」ことと、比較することで「因果帰属を行う」という二つの要素から成り立つとする。資本主義社会成立の原因を探るウェーバーなどの比較研究がこの代表であり、デュモンに限って言えば前者と密接にかかわることとなろう。では、こうした試みにはどのような困難があるだろうか。厚東の指摘するところによれば、比較研究においては、その研究対象が比較上必要な変数の束として構成されることになってしまう (領域Aは変数X1,Y1,Z1、領域Bは変数X2,Y2,Z2…を持つ、というように)。比較研究はそのように対象を構成することで、対象がもつ特性の一覧表をつくり、比較という試みを可能にしていくのである (厚東,2011:95-7)。このような試みに則った場合、比較事例が増やされていけばいくほど、対象は他から異なる独自の存在として実体化されていくことになる (共通点と差異が浮き彫りになればなるほど、諸対象は固有の個性をもった存在であるとして認識されるようになっていく)。まさにそのようにして一覧表にのる変数を増やし、他の対象との差異を確認し、対象の記述を詳細にしていくことこそが「個性の把握」の意味するところなのであるが、そのように一覧表を増やす試みのなかで「中国・インドなどの諸社会は、特有なゲシュタルト=パターンを持った歴史的個体であり、相互に還元しない独自の存在とみなされる」ようになってしまう (前掲:97)。

 これは単に比較という試みがその対象の固有性を過剰に想定しがちであるということを意味しているのではない。「相互に還元しない独自の存在とみなされる」ようになるということは、相互に与える影響関係を比較という試みにおいて上手く位置づけることが困難であるということを意味する *3。もし比較を上記のような一覧表形式で行うとして、その一覧表のどこに対象間の相互作用を記入しうるだろうか。また、実際に比較研究は社会の変化を記述するにあたって内部要因を重視する傾向にあったし (前掲:98-9)、相互に与える影響の存在はそもそも比較という試みにとって大きな障害となる *4

 以上のような困難を、デュモンの比較は完全に引き継いでいた。彼の論のなかでその対象は固有性をもった非歴史的なものとして捉えられており、対象間が相互作用する様子はどこにも位置付かなかったのである。先に述べたような「変化しないインド」像も、デュモンの研究がもつこのような性質から生み出された側面が強いと考えて良いだろう。

 以上、先走ってデュモンの限界を確認しておいた。こうしたことをふまえたうえで、本報告では以下においてインドと西洋諸国の出会いの場へと目を向けていきたい。そこで何が起こっていたのかを確認し、そこから再び比較社会学の困難へと戻ることにしよう。そのような遠回りを経ることで、我々はデュモンにおける素朴な客観主義を批判することとなる。


〈まとめ : デュモンの比較における問題点〉
〇 インドの近代化過程における変容と、インド側の主体性を記述できない
〇 西洋とインドが互いに影響を与え合う様子を記述できない
 ・西洋とインドをそれぞれ完成した個体として比較してしまう
 ・対象の個性を探る試み自体が、対象を相互に還元しえない独自存在として構成してしまう
→ では、デュモンが見落としたのはどのような相互作用だったのだろうか。以下で具体的に見ていく





(1) ヒンドゥー教の発見と構築


 最初に確認しておきたいのが、「カースト」というものの構築性である。デュモンはカーストを (イデオロギーというレベルに照準を置いたにせよ) 基本的にインド固有の特徴的制度として扱った。しかし、そのようにカーストをインド在来固有のものとして扱うことは本当に妥当なのだろうか。これを検討してみよう。藤井毅は、カーストが「今日理解され、また、目にされるような姿となるには、およそ200年に及ぶイギリス植民地支配を経なければならなかったのである」(藤井,2003:20) と述べる。彼は西洋とインドが出会う場面においてこそカーストというものが構築されたのだと考えるのであり、したがって「カーストがインド文明なるものの中心的価値を、イデオロギーレベルであれ実体においてであれ象徴していると見なし、それを古代より変わることなく機能し続けている理想的な分業体制として擁護したり、ひるがえってそれを近代性に反する遺物とみなし、非人間的不平等のシステムとして非難し、差別と抑圧の根本要因であるとして単純化し排斥するような見方」とははっきりと袂を分かつ (前掲:6)。以下、しばらくは藤井の論を追いながらカーストの構築性について確認していく。

 カーストの構築過程を見るためには、まず「インド在来固有の宗教信仰」なるもの (いわゆるヒンドゥー教) が発見されていく過程を見ておく必要がある。1793年、ザミンダーリー制度の確立とともに明確化された司法制度において、イギリスは法による支配を標ぼうし在地社会への非干渉を貫こうとした (前掲:25)。それにより、ムガル帝国下にあったインドでは「継承、相続、婚姻、カースト、およびあらゆる宗教的慣行と確立された習慣に関する訴訟において、ヒンドゥーに対してはヒンドゥー法、ムスリムに対してはイスラーム法を適用」するとされた。そうしたイギリス側の姿勢があり、以降ヒンドゥー法・イスラーム法の法源言語であるペルシア・アラビア語、およびサンスクリット語文献の地位が上昇していくこととなる。

 しかし1835年、公教育における英語の使用が定められると、両言語は私法分野の法源言語としてのみ限定的に利用されるようになっていく。こうして、ペルシア・アラビア語は行政現場・教育現場等から姿を消し、ムガル帝国の衰退と共に急速に影響力を減衰させた (前掲:26)。ところが、サンスクリット語に関してはこれと異なった道をたどることとなる。先に触れたように、1786年ジョーンズが提示したインド=ヨーロッパ語族観の影響のもと、サンスクリット語文献の研究が盛んに進められることとなったのだ。これらの研究は古代インドをひたすら理想化していくとともに、サンスクリット語の地位を大幅に上昇させていった。これは、イギリスによる植民地支配下での学術研究こそが、サンスクリット語の再発見を促し「インド在来固有の宗教信仰」なるものの発見と構築を促したということを意味する。イギリスによる古代インドの再発見と賛美のなかで、インド人たちは自己の発見と認識を経験したのであり、「古代インド」という像は初めからこのように他者認識と自己認識が交差する場で形成されていったのである。

 以上のように古典籍研究からヒンドゥー教の構築が進んでいくと、次第に古典籍に記述された4ヴァルナが眼前に生起する現象 (西洋側からカーストと名付けられたそれ) を説明する手がかりとして援用されるようになっていく。そこにはヴァルナとカーストを結びつける過度な試みが存在していた。一例を見てみよう。実際のインド社会には、浄性の高いシュードラ、ニャート、ダル、サマージ、タート、ゴール、カーヤスタ、ラージプートなどのように、ヴァルナ以外の非古典的範疇が多く存在していた。彼らの起源はサンスクリット古典籍にはたどりえなかったのだが、それにもかかわらず、4ヴァルナを重視する傾向のもとで次第にその起源が「サンスクリット語語根よりの語形成に過度の類推を加え」ることなどによって説明されるようになっていく。「場合によってはサンスクリット語の古さを盾にとり文献が捏造されたりする」こともあった (前掲:32)。要するに、4ヴァルナから無理やりにでも現在のカースト制度を説明しようとして、その連続性が (それを保障する証拠がないにもかかわらず) 構築されていったのである。

 これは単に西洋側がインドをそのようなものとして一方的に解釈したという話ではない。インドの人びとも、積極的にこの枠組みのなかで自身の位置を主張した。先に触れた法案件処理の話からもわかるように、自身がイスラーム教徒とされるかヒンドゥー教徒とされるか、どのカーストに属するか、そのカーストがどのヴァルナに位置づけられるかといったことは、何らかの利益分与と密接にかかわっていた。そのため、インドの人びともまた西洋からの認識にあわせて、自己を再編していったのである *5。当然、そのような再編がまた西洋のインド観に影響を与えるため、次第に以下のような状況が形成されていった。

 インドにおいて発見され続ける未知の現象は、全てサンスクリット古典籍やカーストに還元されて解釈されるようになっていった。眼前に生起する現象や執り行われる儀軌は、全て宗教転籍に依拠し、そこより裁可を得ていると見なされたのである。ブラーフマン[報告者注:バラモン]を先頭としてヒンドゥー教も好んでそうした傾向にくみしたのだった。(前掲:32)





(2) 法分野におけるカーストの実体化


 以上のような状況が生まれる一方で、イギリスは実際上の植民地支配において、カーストをその支配単位として活用した。ほぼすべての組織や制度において、カーストが極めて有用性の高い実体として利用されたのである。以下では、法支配においてイギリスがカーストをどのようなものとして認識したのかを具体的に見ていこう。

 先述のように、イギリスは在来の慣行を重視する方針を採った。ただし、実際の法運用においては (カーストヒンドゥー教の慣行を細かく細分化していることを理解しながらも) カーストを4ヴァルナと結びつけるようになっていく。例えば、古典籍のなかでも4ヴァルナ間の関係性を示したマヌ法典が基本文献とみなされ、そこにおける罰則規定が一つの基準とされた。また、古典籍には4ヴァルナ間の雑婚によってヴァルナが分化していったと記述されていたので、そこから現在確認できる数多のジャーティの起源は (実証すべき材料がないまま) 4ヴァルナと結びつくものであると考えられていったのである (前掲:35-7)。

 しかし、そのようにして古典籍を利用したとしても、現実の事例のすべてに対応できたわけではなかった。そこで、イギリスは1865年までバラモンヒンドゥー法官として雇用する。彼らは個別の事例に対して意見書を提出する役割を担ったのだが、その意見書ではしばしば権威づけのために古典籍に依拠した解釈論が展開されていた (前掲:38)。これがさらに、古典籍の地位を高めていく。

 また、イギリスは「慣習の明確な証拠は、成文法を凌駕する」という通則のもとで、在地社会に見られる慣習も法運用にあたり活用した。その際にイギリスが求めたのは、慣習についての明確な「法的記憶」である。この記憶として活用されたのが、「カーストに伝わる慣習」であった。こうして司法廷は慣行に関わる情報の集積へと動機づけられるようになり (前掲:38-9)、そのように所属するカーストと適用される法が結びつけられたことが、以下のような状況を準備していくこととなる。

 この運用体系は、当事者のカースト帰属意識を高めただけでなく、職能集団名により規定される集団どうしが、現実には一切の血縁関係がなかったとしても、何らかの形で連携や調整をはかり共通の利益を追求する可能性を用意したのである。(前掲:40)


 以上のことを、藤井の言葉を借りてまとめておこう。

 こうして、19世紀を通して民事法廷ではカーストに関わる慣行解釈が判例として蓄積されてゆき、法典類に依拠した判決と合わさり、固有の法体系を形成していった。それは、古典籍に見られる法理論や社会観が時空を超越して植民地支配においてよみがえるいっぽうで、新たな解釈が施されて、植民地化以前にはみられなかったような規格化されたインド社会像が成立してゆく過程であった。(前掲:43)






(3) 国勢調査における分類と相互作用


 最後に、国勢調査 (いわゆるセンサス) が引き起こした相互作用を見ておこう。植民地支配の特徴の一つは、対象の発見・記述・解釈が一体となって盛んに行われることにあろう。インドでも、西洋によって固有の社会・宗教・慣行が発見され、調査・測量が行われ、博物学優生学民俗学・形質人類学など諸学問によりそれが解釈された。こうした試みは多分に「近代的」なものであるといえよう *6。そして、ここで強調しておきたいのは、そうした近代的な試みは、発見・記述・解釈される対象に影響を与えずにはいられないということである。ここまでの記述からの示唆されているように、近代的な試みは、その対象となる人びとの自己認識や行動に影響を与え、その対象を変化させてしまう。このことの含意は次章においてまとめるとして、ここでは数ある植民地側の試みのなかで国勢調査に注目し、それがインドの人びとに与えた影響を論じていくことにしたい。果たして国勢調査は、調査する側とされる側の間にどのような関係性を生み出したのであろうか。引き続き藤井の論を参照しよう。

 1871年以降、イギリス本国の調査にあわせてインドでも10年置きに全国的な国勢調査が行われることとなった。こうした調査の目的は人口動態と住民の属性の把握にあったが *7、そもそもその作業を行うにあたっては調査作成者がインド社会を定義しなければならなかった。なにしろ「インドの人々にしてみれば、国勢調査において、自分が信仰する宗教の名称にはじまり、話している言語名や、出自に関わる属性を初めて公然と問われること」となったのである (藤井,2003:64-5)。調査対象となる人々自身が、自分たちの当てはまるカテゴリーを用意していたわけではないのだから、そのカテゴリーは当然調査を行うイギリスの側がインド社会の調査・定義を行うなかで用意していくことになる。

 そうした調査と定義の試みは混乱を極めた。そもそも「カースト」は在地の概念ではなく、それはジャーティともヴァルナとも、ゴートラやヴァンシャ、クラとも表現しうるようなものである *8。そのため調査対象となった人々は、その時々に応じて「自分の属する内婚集団名、伝統的始祖名、職業名、役職名、称号、村落名などをカーストとして回答した」(藤井,2003:65)。その結果、(カースト統計をとっても職業統計をとっても) 膨大な数の名前が報告され、収集されたデータが全く意味を為さない状態へと陥ったのである。

 この状態を打開するために導入されたのが、当時の人類学的知見であった。ここでは行政官ハーバード・リズレイに注目した三瀬の論を引用しておこう。リズレイは無意味な数字の氾濫を解決するために、ベンガルにおいて「ベンガル民族誌調査」を行う。この調査は、主に二つの柱から成っていた。第一の柱が、カースト間の関係の調査である。ここでは情報収集のために必須の質問項目が作成・整理されたうえで、カーストの「社会的地位」に関する調査も行われることとなった。第二に為されたのが、身体測定技法にもとづく統計調査である。彼はベンガルの監獄を対象に、人々の「頭の測定」を企画し、実行した *9。以上二つの調査を行った彼は、そこでのデータを結びつけることで、「綺麗な鼻」をしている集団ほど「アーリア人種」の血が濃く社会的地位が高くなることを「発見」していく (もちろん、調査法に問題があるためこの結果を鵜呑みにすることはできない)。

 こうしたリズレイ考案の調査は1901年の国勢調査に大きな影響を与えていくこととなった。この調査ではかつてない規模でカーストが調べ上げられ、国勢調査で記載されたあらゆる名前が「カースト」「サブ・カースト」「それらの俗名・地域名など」「その他」のいずれかに同定されていった。そして、このような同定が先に述べたカーストの「社会的地位」調査と同時に行われたことにより、国勢調査においてカーストのランキングが作成されることとなる。カーストは、国勢調査を通じてその社会的地位が定められ公表されたのだ (以上、三瀬,2000) *10。そのランキングは地域差を考慮して州毎にしか作成されなかったが、それでもこうしたカースト序列が公表されたことは在地社会に大きな影響を与えた。

 再び藤井に戻ろう。ランキングの公表によって、在地社会では国勢調査を自らの社会移動の認知装置と見なす運動が頻発するようになった (藤井,2003:64)。彼らは自身の出自やランキングの変更を唱える動きを加速させていったのだが、それは国際調査で公開される情報が在地社会において重要な政治的意味合いを持つようになったことを意味していた。こうしたランキングはカーストのヴァルナ帰属とも結びついたため、意図して慣習を変更することで帰属するヴァルナの変更を企てる試みも登場する。そのような相互作用の繰り返しによって、カーストの存在が強力に実体化されていくこととなる (前掲:73-4) *11

 国勢調査は、データの受動的な記録としてのみ存在したのではなく、その周辺の環境を記述し、変えたことから、変化のための触媒として働いたのである。記述する行為は、記述されるものに秩序を与え、同時にその秩序を変えることになる力に刺激を与えたのである。10年後、新たに変化した世界が新しい国勢調査によって記述されることになり、そして、それはまた、さらなる変化をもたらすことになるのである。(Jones,1981) *12




〈まとめ : カーストが構築される場における、西洋とインドの相互作用〉


〇 イギリスの古代インド研究を通じてヒンドゥー教が構築される
→ 資料に乏しいインドにおいて、4ヴァルナから眼前のカーストが説明されるようになる
→ インドの人々も積極的にそのなかで自身の位置を主張した
カーストは、イギリスによる研究と、インドの人々による能動的・積極的な関与によって作られた


〇 植民地運営において、イギリスはカーストと4ヴァルナを結びつけた
→ 法運用上、カーストは特定の独自習慣を有するとされた。それにより特定の習慣とカーストが結びつけられる
→ 登用されたバラモンも、古典籍を引用するなどしながら、法案件処理に加わった
∴ 古典籍が植民地支配において蘇るとともに、当事者のカースト意識が高められていく


国勢調査では、リズレイの影響のもとでカーストの分類と序列がまとめられる (カースト・ランキング)
→ 支配する側による記述と分類のシステムが作り上げられていく
→ インドの人々も、意図して慣習を変更することで帰属するヴァルナの変更を企てるなどした
∴ こうした記述する側とされる側の相互作用を通じて、カーストの存在が強固に実体化されていく


 


Ⅳ 考察 — 素朴な実在論を越えて、歴史的存在論に立つ

 以上、植民地支配においてカーストがどのような意味を持ったのかを見てきた。イギリスがインドを支配していく過程においては、ただ「インドのカースト」なるものが「発見」されていったわけではなかった。それを発見しようとする試みは、それ自体が「発見される側」とされた人々に対して変化を引き起こす。デュモンが観察したインド在来固有のカーストなるものは、そのような相互作用のなかで実体化され「実在のもの」となったのである。このことが何を意味するのか、この考察でもう少し明確にしていきたい。

 すでに厚東を引用して述べたように、ある地域とある地域の関係が深まっていく時代においては (すなわちグローバルな視点の下では)、比較という試みは成り立ちにくくなる。それゆえに、社会学においても比較という試みから脱して、マクロな相互作用を捉える視点を検討することの必要性が2000年代ころから意識されていた (厚東,2011)。また歴史学として考えてみても、とくに古代史料の乏しいインドといった地域においては、西洋によって「発見された」ということがどうしてもその像に影響を与えてしまう。それゆえに、そうした影響関係を捉えることが当然要請される。いずれの場合も問題は、どうやってその影響を捉えるかということであろう。これは、どのようなものとしてその影響関係を位置づけるかという問題とも密接に結びついている。以下では、この点を明らかにするために、本稿で述べたことの一般化を試みることにしよう。

 再びデュモンに立ち返る。三章冒頭においてデュモンはインド社会の変化を論じる枠組みを有していないと述べた。しかし、実は彼自身はその変化を十分に論じうると考えていたようだ。デュモンは、比較表が存在して初めて両者の相互作用を明確に認識しうるとし、自身の比較表を「社会変化」の研究に資するものであるとしている (Dumont,1980=2001:300) *13。この試みには一体どのような問題があるといえるだろうか。そもそも対象となる社会の特性を知らなければ、それがどのように相互作用をしていくのか、「インド社会」が「西洋の価値観」なるものと出会うことでどう変化していくのか / 変化しないのかを論じることは困難であろう。この点においてデュモンの論は非常に理に適っている。

 しかし、歴史の構築性について見てきた我々は、もう少し認識を深めておく必要がある。そのためにも、ここでイアン・ハッキングの「歴史的存在論」を手短に参照してみたい。ハッキングは、人々を分類することが分類対象となる人々自身に影響を与えてしまうことに注目した (Hacking,1996)。あるカテゴリーないし特定の概念の創出とその適用が、人々の経験を組織立てる概念として利用され、人々自身の在り方を変えてしまう。その変化が、またカテゴリーの定義付けに影響し、カテゴリーの適用範囲等を変化させてしまう。そうした、カテゴリーとその対象との間で起こる相互作用を、彼はループ効果と呼んだ。本稿に即して考えるならば、「カースト」という概念はそもそも西洋からインドに対して付与されたものであった。イギリスは植民地支配の過程でそれを古典籍から権威付け、実体化し、一覧表を作り上げ人々を分類していったのだが、その過程には同時に「カースト」という概念を適用された人々が自身の存在をその枠組みのなかで再編し、古典籍から自身の権威付けを行い、自身らの慣習を変更させるという動きが存在していた。ここからは、西洋から付与された「カースト」の概念によって、その対象となる人々の経験・行為・存在自体が影響を与えられてしまったこと。そして、そのように対象物が変化することで、対象への「カースト」概念の適用可能性が高まり、その結果対象の実体性が強化されていくことを見て取ることができる。

 以上のような視点の下で、ハッキングは人々についての新しい記述の方法 (人々についての新しいカテゴリーや概念) の登場が、ある人々を「存在」させるようになる歴史を追った (Hacking,2002=2012) *14。彼はその試みをフーコーに倣って歴史的存在論と名付けている。ここではこれ以上ハッキングの論に深入りすることは避けるが、我々がここで追加して指摘したいのは、(先の注[6]でも示唆したように) こうした視点は「西洋に発見された・統治された地域」を語る際に避けて通れないものであるということである *15。近代における統治は対象を発見・記述・解釈する試みと切り離せないものであった。そうであるならば、そこには何らかのループ効果が存在していたと想定することができる。また、その可能性を常に疑ってみる必要がある。

 さて、以上のような視点からすると、(先の注でも触れたように) カーストが西洋とインドの出会い以前から続いていたように記述するデュモンの論は、たとえイデオロギーの水準に焦点を当てていたとしても素朴な実在論に則るものであったといえるだろう。変化を記述するためには比較表が必要だというデュモンの論には、過去の時代においてインドと西洋は完全に切り離されており、相互に影響を与えなかったという想定が含まれている。しかしながら、本稿で明らかにしたように、そうした「過去の像」自体が西洋とインドの出会いの場において構築されたものであり、また植民地支配下において時空を超えて実体化したものであった以上、彼の論は成り立ちがたいのである。Ⅲ章冒頭で述べたことの繰り返しになってしまうが、西洋とインドとの相互作用、概念と対象との間で起こるループ効果、「発見」という試みそれ自体が何を生み出してしまうかは、彼の比較という試みには上手く位置づけられなかったのだ。

 さて、最後に以上の指摘が比較法に何をもたらすのかを考察しておこう。我々はデュモンからやや一般的だが重要な教訓を学び取ることができる。繰り返しになるが、比較とは、2つの対象を固有の存在と見なすことでそれらを同じ一覧表のうえに並べる試みである。これは2つの対象を切り分けることでその対象を「客観的に」眺める方法であるともいえるだろう。デュモンは、インド社会との比較から西洋的個人の特徴までもを (つまり、他者との比較から改めて自己の像を) 明らかにしようとした。彼はインド社会の特徴を明らかにすることで、西洋社会がどのような価値観に縛られているかを明らかにできると考えたのだ。それは彼にとって、比較という試みを通じて西洋社会とインド社会両方の外部に立ちそれらを眺めること、そうすることで自身の位置を反省することを意味していた。

 しかし、ループ効果を想定するとそのような試みは成り立ちえないことになる。デュモンの研究に即していえば、彼が記述する「インドの像 (他者の像)」というものそれ自体が、「西洋 (自己) の創造したイメージ」と混ざり合ってしまっていた。彼がインド在来固有のものとして観察したカーストは、西洋から与えられたイメージとの間で実体化したものであったのだから。こうした可能性を常に意識するならば、自己/他者を区別し比較することで、両者の外部に立ち、そこから両者を眺める試みなどは不可能となるであろう。

 では、比較という試みは全くの無意味なのだろうか。そうは思えないが、ここからは少なくとも次のことがいえる。比較という試みを通じて自己を縛る視点を越えていくことができる、自己と他者両方の外部に立ちそれを客観的に眺めることができるという想定には困難がある。〈西洋 / インド〉を区別するとき、(西洋との相互作用がカーストを実体化させたという点で) そこで区別された「インド」というカテゴリーのなかには「西洋」が混ざり込んでいた。同様に、〈自己 / 他者〉を区別するときはいつでも、(自己とは大きく異なる特徴をもったものとして他者を表象するその試みのなかで) 「他者」のうちに「自己」の視点が混ざり込んでしまう可能性がある。その可能性を記述に織り込みながら、なお〈自己 / 他者〉の関係性を探ることは可能か。あるいはある地域とある地域の関係性を探ることは可能か。比較を試みる際にはいつでも、このことを念頭においておく必要があるだろう。今日の歴史社会学もまた、ハッキングらの指摘を受け入れながら、常にこのような反省性を記述のうちに取り込もうと模索している *16








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〈参考文献〉

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*1:これをどのように捉えるかは後にⅣ章にて論じる。ここではひとまず、「行為主体性」という言葉を用いておこう。

*2: デュモンがインド社会の変化を論じた箇所としては、(Dumont,1980=2001:11章) を挙げることができる。彼はインド社会における様々な側面に触れながら、近代化によってもインドの「全体的な枠組みは変化し」なかったと論じた。「カーストは今なお存在しているし、(…) 不可触ということは今なお現実性がある」(前掲:280)。  もちろん、デュモンのいうようにカーストの影響は今日のインド社会にも残っている。我々が問題にしたいのはそこではない。我々が後に検討していくのは、「カーストは今なお存在している」という認識が妥当であるかどうかだ。「今なお」と述べるとき、そこでは「かつて (近代化以前)」から「いま (近代化以降)」へと連続して同様にカーストが存在していたことが想定されている。そうした歴史認識は本当に妥当なのだろうか。これを検討していく過程で、我々は近代化によってもインド社会の「全体的な枠組み」は変化しえなかったというデュモンの論が西洋の影響を過小評価していることを理解することとなる。

*3:なお、相互に影響を与え合う対象間でも個性の把握と比較を行う可能性は残されている。例えば、A国の価値観がB国に伝播したときに、どのような反応が起き、どのような部分が根付いたのか/根付かなかったのか (B国は何を選好するのか)。これを記述することで、B国の価値観と個性を論じることはできるであろう。先に挙げた記事である「日本の近代と法システム」はそのような試みであった。

*4: この問題は、特にウェーバーのように比較による因果同定法 (差異法) を試みる場合には大きな意味を持つ。ウェーバーは各社会を比較することで、どのような変数が西洋社会で近代資本主義を誕生させたのか、また西洋以外の社会でも近代資本主義は生まれえたのかを論じようとした。しかし、西洋社会から世界中に近代資本主義が伝播してしまった以上、後者の問いに対し差異法を用いて結果を観察することはできず、比較の試みは強制的に打ち切られてしまうこととなる (佐藤,2011:166-7)。伝播を想定すると、因果帰属の試み自体が難しくなるのだ。  個性把握を目的にした比較においても話は同様で、他からの影響を重視すればするほど「個性」なるものは記述しにくくなっていく。少なくともどこかの時点で対象を一つの「個」として実体化したうえで、そののちに影響を与えられてしまったという形の論にしなければ、比較するという試みは成り立ちがたい (後にⅣ章にて触れるが、デュモンもそのような形で変化を論じようとしている)。

*5:カーストと古典籍のヴァルナの間を埋める作業は、インド側からも為された。そもそもインド社会には各ジャーティの歴史を記した書物などは存在していなかったのだが、植民地支配がはじまって以降自らの手でそのような歴史を生み出していく試みが登場することとなる。それが、イギリスの家族史文献と同様の形で自身らの血統と出自の正統性を主張していく「カースト族譜」であった (藤井,2003:198-9)。これらの族譜は量のうえで「同時代においてイギリス人官僚や研究者によって執筆されたカースト制度論をはるかに凌駕して」いたのであり、それは「植民地支配下カーストはイギリスにより一方的に規定され続けたわけではなく、ほかならぬ、カーストの枠組みのなかに生きた人々の能動的かつ積極的な関与によっても形作られてきた」ことを能弁に物語っているといえよう (前掲:216)。

*6:近代と、対象を発見・記述・解釈する試みとの関係については、三瀬利之の書き方がわかりやすい。やや長くなるが本報告の内容ともかかわるものであるため引用しておこう。三瀬はイアン・ハッキングミシェル・フーコーを引用しながら、「『統計』の起源の一つは、もっぱら犯罪・貧困・自殺・売春・『文盲』などの『逸脱』現象を対象とし、これら不確実性が高い社会現象を『確率』を用いることで予測し、そして調整・改良していこうとする『統治技術』にあった」としたうえで (三瀬,2000:475)、注において次のように書く。「本稿における『統治技術』としての『統計』とは、統計表をもとに『権力』を行使することだけでなく、『権力』を行使する起点となるデータを作成すること、すなわち対象を同定・確定し、定量化・数字化し、『統計的実体』を構築していくことを含んでいる。後者は、科学哲学者イアン・ハッキングが『決定論の浸食 erosion of determinism』とともに、『印刷された数字の反乱』或いは『社会の統計化』がもたらしたもう一つの歴史的帰結としたこと、即ち『人間を作り上げる making up people』こと、に関係している[cf.Hacking,1990:2-4]」(三瀬,2000:486)。ハッキングが提示する「人間の作り上げ」については、本報告でも後にⅣ章にて触れる。ここではひとまず、近代における統治が統計的試みと密接に結びついていたことを把握しておきたい。

*7:インドにおいてこれらのデータは「公衆衛生や飢饉対策、文官・軍人の雇用や教育の機会の配分、『女児殺し female infanticide』や『犯罪部族 criminal tribe』の取り締まりなど、官僚制的行政に不可欠な定量情報として、諸々の局面で参照された」(三瀬,2000:477)。

*8:今日世界史の教科書などにおいて、カーストはヴァルナとジャーティという要素から説明されることが多い。しかし、藤井によればヴァルナやジャーティという概念が認識されるようになったのもさほど古いことではないという。「古代インドの姿を伝える古典ギリシア語文献には両者ともに見い出せず、英語文献においてもヴァルナの存在が知られるようになりのは19世紀中葉にかけてのことであり、ジャーティに至っては、19世紀後半を待たねばならなかった。もちろん、その語は在来の古典籍で用いられてはいたものの、もっぱらそれは『生まれ』や『身分』、あるいは『(動植物の) 種』の意味合いにおいてであり、今日の用法で登場するのは稀なのである」(藤井,1999:222)。

*9:当時のヨーロッパにおいても、骨相などから先天的な犯罪者を見つけ出そうとする試みが盛んになっていた。そうした学問が社会に与えた影響については、(波多野,2001) などが面白い。いつか記事にする予定。

*10:これについて藤井は次のようにまとめている。「こうして、支配する側の観点による記述と分類のシステムが出来上がったことから、末端において集積された種々雑多の情報は、(…) 中央に集積される段階で、整理され、平準化され、ある認識の枠組みのなかにはめられてゆくことを余儀なくされた。民族誌国勢調査の公刊報告書に見られる社会構造に関する記述は、在地社会そのものの姿が示されているわけではなく、イギリス側の必要と認識によって加工されたものに他ならなかったのである」(藤井,2003:71)。

*11:先に触れた法運用にも現れていたように、カーストは特定の慣習を有する集団だという見方が強くあった。そうした見方の下で、例えば特定のカーストカースト集会を開催し、自分たちで慣行調査を行ったうえで、否定的評価を受ける慣行を廃していくようになる。また、そうした集団は自身の地位向上を狙い、規範的価値を体現しているとされた慣行を積極的に取り入れようとしていった。こうしたことは各カーストにとって極めて実利的な問題であったのだ (藤井,2003:79)。

*12:以上 (藤井,2003:66-7)より孫引き。強調線は引用者による。

*13:注[4]において示唆しておいたように、デュモンは両社会を「個」として実体化したうえで、そこから相互の影響関係による変化を類推しようとするのである。

*14:例えば、多重人格というカテゴリーの登場を追ったものとして (Hacking,1995=1998)。

*15: ハッキングは自身のアイディアをフーコーに拠るものとして説明している (Hacking,2002=2012)。フーコーは『啓蒙とは何か』という文章のなかで、「歴史的存在論」というアイディアを「如何にして私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか」という三つの軸に関わるものであるとしており (Foucault,1984=2006:391)、ハッキングもまたこれら三つの軸の下で自身の研究プログラムを整理した。  ここで、フーコー・ハッキングのアイディアと我々の論との差異に触れておこう。フーコーらはあくまで「私たち自身」にこだわる。それは、西洋社会における「人間 (主体)」というものをどのように捉えるかを模索したフーコーならではの視点であったといえるだろう。それに対して本稿が対象とする「カースト」においては、「私たち自身をつくりあげる」という側面はやや薄いようにも見える。そこで知の対象となったのはインドの人々であった。植民地支配の下で権力関係に置かれたのもインドの人々であれば、そうしたなかで自分たち自身に特定の望ましい慣習を課したのもまたインドの人々である。要するに我々は、自分たち自身でカテゴリーを作り上げていく場ではなく、西洋からある人々にカテゴリーが付与される場を見てきたのだが、果たしてこの差異をどう受け止めれば良いだろうか。  我々はここで、「歴史的存在論」というものの有用性を捉えなおすことにしよう。確かに、「カースト」という概念を付与したのは西洋側である。しかし、インドの人々は積極的にその知の体系に組み込まれ、何らかの利益分与の下で権力を行使し、自身らに特定の慣習を課したのだ。先の注で触れたカースト族譜のように、知の体系を埋める試みが (知・権力・倫理の三つが不可分となった形で) インド側から為された例もあり、そうした試みのなかでインドの人々は、「自分たち自身」を作り上げていったのだ。従って、歴史的存在論は本稿で取り上げたような対象に対しても十分に有意義な視野を提供しうるものであると私は考えている。

*16:社会学者は社会の外に立つことができないという指摘 (社会学の内部記述性) であれば、これまでも繰り返し指摘されてきた。ここでは (佐藤,2011) や (山本,2015) を挙げておこう。そのうえで、そうした視点を取り込んだ歴史研究を挙げたいのだが、残念ながらパッと思いつかない。思いついたときにまた紹介する。