世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

プロパガンダの歴史 - 第一次世界大戦と映像

 旧版『映像の世紀 第2集』に付録としてつけられている小冊子から、プロパガンダの歴史について話をしてみたいと思います。
 
 『映像の世紀 第2集』は第一次世界大戦、とくにそこにおいて戦略がどのように変化したのかに注目したドキュメンタリーです。騎馬と大砲を利用した短期決戦型の戦闘 (19世紀型の戦闘) が、機関銃の登場を皮切りに長期の塹壕戦へと姿を変え、そのなかで戦車・毒ガス・戦闘機・長距離砲・潜水艦等の新兵器開発が進められたことが描き出されます。第2集のタイトルは「大量殺戮の完成」であり、そのタイトルに相応しい内容になっているといえるでしょう。

 さて、この「大量殺戮の完成」は今見ても素晴らしい出来のドキュメンタリーなのですが、付録としてつけられた小冊子の方では、映像とは異なる視点から第一次世界大戦について書かれています。「ドキュメンタリーに使われた映像は、どのように撮影されたのか」というややメタ的な視点からです。





 第一次世界大戦が勃発した1914年、動く映像の発明から20年近く過ぎ *1、映画はすでに一大娯楽として発展していました。第一次世界大戦も、史上初めて大量の映像記録が残された戦争となったわけですが、戦争が始まった当初から映像によって戦争を記録する計画があったわけではなかったようです。むしろ、「当時[のニュース]は、新聞などの活字メディアが中心であり、動く映像が活字と並ぶ注目を浴びるのは、この大戦の最中のことだった」のであり、その点で第一次世界大戦は大きな転換点となります。

 大戦当初においては、映像というものの位置づけが現在とは大きく異なっていました。軍や政府の反応からそれを見て取ることができます。各国の軍や政府は、映像による撮影をかたくなに拒否していました。イギリス軍では、「前線で撮影をすれば、カメラマンを銃殺する」との規則が定められたと言われています。カメラは、軍にとって活用可能な記録道具などではなく、むしろ野次馬根性の体現であり、戦争の邪魔にしかならないものとして認識されていたのです。

 こうしたなかでカメラマンたちは、様々な方法で軍の目を盗み撮影を試みました。映像の世紀でも、初期の戦争で兵士の死体などを撮影した映像は、ほとんどこのような隠し撮りフィルムを元にしています。




 さて、第一次世界大戦の膠着状態は新型兵器の開発を招き、戦争の様相を一変させたのですが、変えたのは戦場だけではありませんでした。膠着状態のなかで、映像の価値も変化していくのです。映像は、新たに利用可能な道具として、重要視されるようになりました。総力戦体制下において、人心をつなぎとめるための道具として。

 戦場にカメラマンが入ることが許可される一方で、フィルムは厳しく検閲され、映像は政府や軍のもとに置かれることになっていきます。冊子には、検閲の場面に立ち会ったフランス映画会社のある社員は、次のように回想したとあります。「屍体の数が多いところは、すべて削られた。私たちは、兵士が、突然、気がおかしくなり、うろつき始めたところを削らなければならなかった」。

 こうした検閲を経て作成された映画は、大ヒットとなりました。1916年、イギリス政府は初めての長編戦争記録映画を半信半疑で公開したのですが、映画館は連日満員となったようです。当時の雑誌には、次のように書かれました。「どんな目撃者が書いた描写も、どんな芸術家によるイラストレーションも、どんなに興味深い証言も、このすばらしい映像が見せてくれるほど、力と説得力をもって、現代戦争のリアリティを国内に伝えてはくれない」(バイオスコープ紙)。

 そして、記録映画が上映される前には、当時戦争大臣であったロイド・ジョージの手紙が必ず読み上げられていたとのことです。「兵士のお母さん、奥さん、お姉さん、婚約中の皆さん!われわれの兵士が前線で何をして、いかに苦しんでいるのか、そして、彼らの業績が国内で働く皆さんの助けに、いかに支えられているのか。さあ、この映像を見ましょう!どんな言葉も必要ありません!映像を見ることは、あなたがたの義務です」。

 他方で、1917年に入ると、ロシアではレーニンが映像によるプロパガンダを活用し始めます。彼は、同じく戦場や兵士の様子を映像で伝えながら、そこに戦争の悲惨さを見出させ、ロシアの即時停戦を国民に訴えたのでした。

 こうした状況をふりかえって、ヒトラーは『我が闘争』で次のように語りました。「宣伝を正しく利用すると、どれほど巨大な効果を収め得るかということを、人々は戦争の間に初めて理解した」。映像では「もはや知性を働かす必要がない。映像というものは、人間が長いことかかってやっと読んだものから受け取る解明を、ずっと短時間に、一撃でといってもいいぐらいに、与えてしまうのである」。



 
 さて、番組のディレクターであり、この冊子の執筆者である内山達は、冊子の最後で次のようなエピソードを述べています。

 戦争による兵士の犠牲者は膨大な数に上がるのだが、その映像は、なかなか見つからなかった。(…) ところが、取材を進めていくと、フランス国防省資料部のフィルム保管庫に、手足を失った兵士の映像が大量に残されていた。フィルムには、義手や義足をつけた兵士が、手や足をぎこちなく動かす姿が記録されている。

 この映像の間に挟まれた解説の字幕には、こう書かれていた。
 『戦場で手や足を失っても、こんなに回復させることができます。』

 だから、安心して兵士になろう、と字幕は訴えている。このフィルムもまた兵士の徴兵をすすめるプロパガンダであった。傷ついた兵士までもプロパガンダに使用されるという厳しい現実がそこにある。


 第一次世界大戦以降、映像はプロパガンダの道具として大いに利用されていくことになります。「記録映画」という名の下で、いかにして観衆を誘導するかが追究されていくこととなるのです。映像の歴史とはプロパガンダ技術の歴史でもあったのであり *2、そこには当然「写されなかったもの」も多くあったのでした。  

 


〈参考資料〉

NHKビデオ『映像の世紀 第2集』(1996).
総務省『通信白書』(1995)*3.

*1:エジソンがキネトスコープを完成させたのが1889年、リュミエール兄弟がシネマトグラフを完成させたのが1895年です [通信白書,1993]。

*2:これは、カメラが特定の一部分を切り出す道具である以上、当然のことだったといえるかもしれません。撮影とは「何を映して、何を映さないのか」の選択であり、特定の選好を経ず "ありのまま" に映像として記録するなどということはそもそも不可能なのです。どこかにプロパガンダではない映像技術発展の可能性がありえたと考えるのは、この点で誤りであるといえるかもしれません。

*3:https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h05/html/h05a03010100.html