世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出文庫,2008) 第二章で登場する単語の紹介

—『都市のドラマトゥルギー』第2章で登場する用語紹介—

 この記事では、『都市のドラマトゥルギー』2章で登場する聞きなれない単語や、江戸・明治の盛り場をイメージするうえで重要と思われる単語について解説を加えていく。ユーザーフレンドリーな気分なので (というか直近の読書会をまじめにやりすぎて疲れたので) なるべく易しい言葉で図像なども交えつつ書いていく。





 

「内と外の境界を越えて無限に広がるタブロー」(:128)

 いったいなんだその言葉は、やめてくれ。という気持ちになるのだが、一応解説しておく。「内と外の境界を越えて」という部分は「結」の内容を先取りしていると思うので省略。タブローとはフランス語で額縁に入れられた絵などを指すらしいのだが、ここでは明らかにフーコー『言葉ともの』が意識されている。『言葉ともの』においてタブローは「表」と訳されており、例えば次のように使われる——「秩序付け、分類、それぞれの相似と相違とを指示する名による区わけ、諸存在にたいするこのような操作(オペラシヨン)を思考にゆるす表(タブロー)——それこそ、言語が、開闢以来、空間と交叉しあうところである」(フーコー,1966=1974:16)。イライラするくらいわけがわからないのだが、フーコーによると、ヨーロッパの歴史においては「物とそれらを類別して知にさしだす秩序との存在様態が、根本的に変質」したことが何度かあり (エピステーメーの変遷)、『言葉ともの』ではその変遷を明らかにするために 「文化がいかにして物どうしの近さを体験し」、物同士を通覧可能なものとして秩序付け、一つの表のように並べたかを論じていくという。要するに彼は、ある物とある物が、どのような秩序のもとで類似 (ないし差異の) 関係に置かれたのか、その秩序が時代によってどのように変化したのかを明らかにしようとしたのである (前掲:20-3)。
 さて、ここで吉見の表現に戻ると、タブローとは物同士が秩序付けられて展示されたことを指し、「内と外の境界を越えて無限に広がる」とは、それらの秩序付けが共同体の範囲に限定されない理路に沿って行われたということを指すことになろう。これが江戸盛り場の秩序とどのように異なるのかを明らかにすることが、本章の主題の一つとなっている。
 

「宇宙そのものを近代化する」(:128)

 いわんとすることはわかるが、よくわからない表現。なんだ宇宙の近代化って。とりあえず「宇宙」を「秩序」という言葉に置きかえておけば、物を配置する秩序が近代的 (と呼びたくなるよう) なものに変化していったという意味になる。なお、ここでの近代とは「商品」の登場、より正確にいえば商品を分類・比較する主体を求める空間の登場を指す。
 

「火除地」 (:134)

 延焼を防ぐためにつくられた空き地のことなのだが、この空き地に移動式の店などが集まり盛り場と化した。例えば、両国では両国橋の両側に火除地として広小路が設けられ、そこが江戸随一の盛り場となった。絵は歌川広重の両国柳橋(文・絵ともに国会図書館の特集「錦絵でたのしむ江戸の名所」を参照)。なお、開帳の項目などで後に触れる回向院は両国橋からすぐの位置にある (google mapかなんかで調べて)。
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「揚弓」 (:134)

 手品や操り、お化けについてはなんとなく想像できるが (いまでも花園神社にあるアレでしょうが)、揚(よう)弓(きゅう)とはなんであろうか。揚弓は今でいう射的のことであり、インターネットで参照できる世界大百科事典によると、揚弓場では的中者に景品を出したり、景品を吊り下げて射させたりしたという。また、揚弓場では女性が働いており、後に私娼化し揚弓場の裏手の小屋などで接客をしたとされる。つまり、揚弓場は賭博と売春の場だったのであり、それゆえ後に規制の対象として目をつけられることとなったのである。

 ちなみにどこで出てきたのか忘れたけれど、見世物関係として「女相撲」についても書いておこう。女相撲がどのような性質のものだったのか (わいせつ物としての側面が強いのか、そうではないのか) については意見が別れるようなのだが、そうした点はさておき、見世物としての女相撲は江戸中期から存在していたらしい (画像は一階,2002より孫引き。なお、盲人男性と女性が取り組むものもあり、そちらは研究上「盲・女相撲」などと呼ばれているという)。あまり残っている史料が多くないようだが、例えば上方のほうでは「角力取、いづれも女也。本より丸はだかにふんどしして出る。……各其骨がらたくましく、まして男よりも尻大きくて、ふんどしの四ツ結のあふり至て見事也」などとある (螺女山人 成立年不明 『つれづれ飛日記』, 一階,2002より孫引き)。なお、吉見も触れているように明治5年『違式註違例』などにより「男女相撲並びに蛇使ひ其他醜體を見せ物に出す者」が処罰対象となった。その後法律改正に伴ってシャツ・パンツ着用のうえでなら女相撲興行が許されるようになると、明治23年(1980年)には両国の回向院境内にて男性相撲や歌舞伎と同様の扱いのもので興行が行われ、おおむね好意的に評価されたという (以上、一階,2002および一階,2007を参照)。
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「山下のけころと呼ばれる白首女」 (:134)

 インターネット上で参照できる『隠語大辞典』によれば、「けころ」とは「けころばし (蹴転)」の略であり、「東京下谷浅草辺にありし淫売婦の称」とのこと。「けころばし」の項目には、「江戸上野山下の茶屋に居し淫売婦を云ふ」ともある。前掛けを着て茶汲み女の姿をしていた。なぜ「けころばし」なのかというと、「客が足にて蹴転ばし、チヨンの間の遊びをする」ということらしい (隠語大辞典「けころ」「けころばし」参照)。なお、「白首」とは首筋におしろいを濃く塗りつけた人のことであり、下等な売春婦を指す。
 

上野戦争」 (:134)

 説明するまでもないかもしれないが、一応。1868年、江戸城開城に不満をもった彰義隊が上野寛永寺に立てこもり、それを新政府軍が壊滅させた事件。余談だけど、上野公園にある彰義隊の墓には「戦死之墓」とのみ刻まれており (かつ土のなかに埋められていたらしく)、彰義隊が賊軍として新政府に目をつけられていたことがよくわかる。
 

「葦簾張(よしずばり)」 (:136)

 やはりインターネットで参照できる「精選版 日本国語大辞典」によれば、「 葦簀を張りわたして囲うこと。また、そのように囲った家屋」とある。画像検索をするとイメージしやすいかも。
 

「床店(とこみせ)」 (:136)

 おでんでも寿司でもなんでもよいのだけど、とにかく屋台を思い浮かべてほしい。それである。


 

「開帳」 (:140)

 これは本章の内容と大きくかかわるように思えるため、やや詳しく書いておこう。我々は現在、神社仏閣に行っても、それを (手を合わせつつも) どこか芸術的に鑑賞してしまう。「ご開帳」ともなれば尚更であろう。しかし、18世紀以降の江戸における開帳では、修繕費を獲得するという目的のもとで様々な行楽的工夫が為されていた。またそれに付随する行楽も時代を下るごとに膨れ上がっていったらしく、江戸末期には現在開帳と聞いてイメージするものとだいぶ様相が異なる景色が広がっていたようだ。
 湯浅隆によれば、近世中期以降の江戸では宗教が流行り廃りのある流行現象と化しており、そのなかで各寺社は開帳神仏の参拝数を増やすため、特に18世紀以降いくつかの工夫を講じたという (湯浅,1991)。第一に、江戸以外の寺社が江戸で開帳を行うさいに利用する寺 (いわゆる宿寺) が、両国の回向院と深川の永代寺、すなわち隅田川に隣接した場所へと集中していくようになった。また、開帳の時期も春から夏の盛り以前である3月~6月に限られていったのだが、これらはいずれも集客を見込んだがゆえの変化であった。これにあわせるようにして、第二に、衆目を集めるため江戸入り道中が組織的かつ大規模に行われるようになっていく。そして第三に、これが本報告にとって最も重要だと思われるのだが、見世物などの行楽的要素が増大していき、江戸の人々の開帳にたいする見方が変化していった。見世物は近世初頭以来から大道芸の系譜をひく民衆芸能として存在していた。それが近世中期以降になると、盛り場の成立とともに小屋かけの見世物が現れていき、19世紀に入るころにはそれらの有無・出来不出来が開帳の成否を左右するものにまでなったという。開帳への集客を狙い、それらの手配を含め多数の職種・業種の人々が組織的に動員されたのであり、人々もまた開帳それ自体よりもそれに付随する行楽的要素に関心の比重を傾けていったのだ。
 

「権力が行使される相手の人びとは『自分たちに譲渡されるあの権力上の分け前からしか、光を与えられてはいない』。ところが近代的な権力は (…) 可視性の義務を要求する。」(:144)

 フーコー『監獄の誕生』(監視と処罰) が引用されている。ここでは光雲のエピソードから、出品者が見られ・比較され・評価されることを経験したことを指すのだが、一応以下にフーコーの文を引用しておこう。
 

 伝統的には権力とは、見られるもの、自分を見せるもの、自分を誇示するものであり、権力が自分の力を発揮するさいの動きに、逆説的にだが、その力の本源を見出すのである。その権力が行使される相手の人々は、闇のなかにとどまるかのように人目につかなくてもよく、もっぱら彼らは自分たちに譲渡されるあの権力上の分け前からしか、もしくは一時的にそこから入手する権力上の反映からしか、光を与えられてはいない。ところが規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。(…) 彼らに行使される権力の支配は、彼らを明るみに出すことで確保される。規律・訓練における個人を服従矯正 (臣民化・主体化でもある) の状態に保つのは、実は、たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態である。(フーコー,1975=1977:190)

 
 さて、『都市のドラマトゥルギー』における当該の内容と引用文はどれくらい重なっているだろうか。
 それはさておき、もう用語紹介でもなんでもなくなるのだが、これに関連したフーコーの文章を一つ紹介しておく。アンソロジーの序文として書かれた短い文章——「汚辱に塗れた人々の生」においてフーコーは、権力という一瞬の光の下で <演じられ> た人々の生について論じている (フーコー,1977=2000)。前近代の人々の生は、監獄や警察の文書、あるいは王への嘆願書などにおいて、そうした権力の光の下においてのみ (公的に) 記録されたとフーコーはいう。例えば、「マチュラン・ミラン、1707年8月31日シャラントン施療院収監——<絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、(…) その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む>」(前掲:203)。彼らは、彼らを世界から追放した形式のなかにおいてのみ姿を残したのである。あるいは、人々は嘆願のために自らの生を特殊な形式のもとで綴り、権力の光の下で浮かび上がらせた。「それらのテクストはろくでなしや貧しき者たち、単に平凡な者たちを奇妙な舞台の上に乗せ、その舞台の上で、権力という劇の中で衆目を集めることを望むなら必要である壮麗な衣装の夥しい布切れを纏う」(前掲:228)。
 とりあえず、フーコーが描き出そうとした <演技としての生> とはこのようなものだったといえよう (序章の部分とかと関係して何か参考になるかね?)。


 

「明治日本にあって、このような超越的な審級を可能にしたのはいうまでもなく近代天皇制」(:145)

 「いうまでもなく」といえるほど説明が為されていたかは微妙な一文。ヒト・モノが場所性を越えて秩序づけられたというところまではわかるとして (?)、そうした秩序の観念を可能にしたのが「近代天皇制」だったと言われると、いまいち結びつきがわからないというか、「天皇制」という言葉でどれくらいの範囲のものを想定しているのかがよくわからなくなる。本当に「天皇の超越的な人格=非人格性こそ、これまで述べてきたような博覧会において作用する権力の効果を保証していたのだ」なんて言えるかな?

 
 

「(東京大正博覧会の) 美人島探検館」 (:149)

 一応本文中でも説明されているが、「なんだそれは」という気持ちになったので調べてみたら写真が出てきた。当時の会場の様子は一通り絵葉書などから知ることができる (東京都立図書館「博覧会・産業 / 東京大正博覧会記念」「博覧会・産業 / 大正東京大博覧会絵葉書」。一枚目が美人館、二枚目は鉱山模型館)。
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 ちなみに、1958年開催の「北海道大博覧会」にもこの「美人島探検館」の亜種 (「美人島探検不思議館」) があったことは興味深い。この北海道大博覧会では藻岩山にロープウェーも架けられたらしく、(詳しくは調べていないのだが) 東京大正博覧会との類似性を確認することができる (朝日新聞[北海道版],2018/4/13記事を参照)。おそらくはこうした「博覧会」の形式が地方博に広がっていき、戦後においても影響を与えていたということなのだろう。
 

「おででこ芝居」「南京あやつり」 (:161)

 「おででこ」とは「御出木偶」のことであり、要するに人形芝居のことである。インターネット上の「日本国語大辞典」によれば、ザルなどを伏せておいて、開けるたびに代わった人形が出るような芝居であったという。「南京あやつり」は当然操り人形を指すのだが、なぜ「南京」なのかというと小さい人形を用いたから。小さいものを「南京」と呼ぶことがあって、例えばハツカネズミの一種が「南京鼠」と呼ばれていたりする。
 

「因果物」 (:162)

 なんとなく想像できると思うのだが、一応。とくに資料があるわけではないのだが、一般的な話として。見世物などで展示された人々のなかには障害を持つ者やなんらかの病症が発露していた者も少なくなかった。そうした「展示」に対して、「親を殺した因果でこうなった」「前世の因果でこうなった」という (ある種その時代においては道徳的な) 説明が掲げられたという。
 

「岡場所」 (:163)

 「日本大百科全書 (ニッポニカ)」によれば、江戸における私娼街の総称である。江戸公娼遊郭制度において正式に認められた遊郭こそが吉原であり、それに対比される私娼空間こそが岡場所であった。


 

「水垢離場(みずごりば)」「ざんげ、ざんげ、六根罪障」(:164)

 現在の墨田区ではその跡に垢離場についての説明板が設置されているらしい。「石尊垢離場跡」と題されたその案内板には、石尊とは神奈川県伊勢原にある大山のことであり、山頂の神社が商売繁盛や勝負ごとにご利益があるとされたので江戸っこ等が参拝したこと、その出発前に垢離場で垢離を落とした (水行した) ことなどが書かれている (google mapに写真が載ってた)。
 

「(両国の) 川開きの花火も、もとは度重なる大火の死者を供養するため」(:164)

 これはよくわからない。そもそも大火ではなく、伝染病のコロリが流行した際に徳川吉宗が霊を慰めるため両国大川の水神祭を催し、その日に花火が打ち上げられたから川開きに花火を上げる慣習ができたと言われている。ただしこの話自体、そのような事実を指す史料はなく、史実ではない可能性が高いといわれる (丸山,2016)。
 

勧進相撲」(:164)

 寺社の本堂や山門などの造営・修復に用いる費用を集めるために開催された相撲のことである (東京都立図書館ホームページ「『勧進大相撲』の誕生」)。天保4年以降は、回向院が江戸における大相撲の開催場所を独占するようになった。
 

「デロレン祭文」「チョボクレ節」「チョンガレ節」「阿房陀羅経」(:167)

 日本芸術文化振興会の文化デジタルライブラリーによれば、これらはいずれも浪曲のもとになったものらしい。いずれも経文などに節をつけて歌う声明を源流にしているらしく、例えば「デロレン祭文」などは神仏に捧げる祝詞を「デン・デン・デロレン」とはやし立てるものであり、「阿房陀羅経」は大道芸人などが木魚を叩きながら練り歩いたものであるという (日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー 語る諸芸から浪花節へ」)。
 

「非人頭車善七」「穢多頭弾左衛門」 (:170)

 ブリタニカ国際大百科事典によれば、弾佐衛門は「穢多、非人の総支配頭」であり、「江戸時代には江戸浅草に住み、幕府の管下で武蔵、上野、下野、上総、下総、安房陸奥などの全域と、常陸、相模、伊豆、駿河、甲斐などの一部の長吏 (穢多頭)、非人を支配した」という。車善七は非人頭の世襲名であり弾の支配を受ける立場であった。
 

立教大学」は築地にあった (:177)

 立教大学のホームページには「1874年(明治7年)、アメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教により、東京築地の外国人居留地に聖書と英学を教える私塾「立教学校」が開かれ、 わずか数人の生徒で始まった小さな学校。これが今の立教大学のルーツです」とある (立教大学ホームページ)。築地だったとは知らなかった。

 
 

網野善彦が『公界』と呼んだ領域」(:187)

 読みは「クガイ」。網野は『無縁・公界・楽 – 日本中世の自由と平和』(平凡社,1978) においてこれを語っている。私は未読であるため、書評を参考にしたい (永原,1979)。江戸時代の縁切寺や駆込寺を考えてみればわかるように、「無縁」であることとは、世俗の権力やもろもろの「縁」から切れていることを指した。そして、網野はそうした「無縁」と共通する内容を持つ中世語としての「公界」に注目し、陰陽師・遊女・琵琶法師・勧進聖・托鉢僧・時衆・禅僧・山伏などが「公界者」とされていたこと、「公界」は封建的な支配から切り離された場であったこと、おそらくはそうした場から中世の市場や自由都市が生まれたであろうことを論じたという。
 

「超越性と周縁性の弁証法的関係」(:186)「内部と外部の弁証法」(;188)

 弁証法……? 弁証法的……? ほんとうに……?
 外部と内部はその区別の内においてのみ意味を持つ (外部なくして内部はなく、内部はなくして外部はない) ということはまぁ良い。そのうえで、内部と外部を往還することで内部が更新されるという <異人 (異界)> 観も (意味はあまりわからないというか、その後の話である <内部/外部>と時間の話などにどれくらい関わるのかがわからないが) とりあえずは良い。しかし弁証法的関係とはいったいなんぞや。
 

「俗なる時間 (ササ) と聖なる時間 (ザマニ) は、連続的な時間性のなかで交互に現れるのではなく (…) 並存しながら『より合わさっている』のだ。」(:190)

 『時間の比較社会学』は未読であり、『気流の鳴る音』はどこかにいってしまったので、よくわかりませんでした。

 

「近代天皇制は、このような転回=再編において不可欠の媒介項の役割を果たした」(:192)

 これにあたることって、本文中でちゃんと説明されてましたかね? 一部触れられてはいるが、やはり天皇制と「権力」についての説明が全体的に欠けている印章。


 
 


〈参考文献 (事典系は省略)〉

一階千絵2002「江戸時代の見世物女相撲」(in スポーツ人類学研究 (4) :17-40).
————2007「日本における女相撲に関する言説とその変遷 (博士論文要旨)」(in 早稲田大学人間
科学研究(20):157-8).
永原慶二1979『網野善彦著「無縁・公界・楽‐日本中世の自由と平和」』(in 史学雑誌(88,6号):80-
8).
丸山泰明2016「鎮魂の花火の民俗学」(in 大阪大学日本学報(35):25-45).
湯浅隆1991「江戸の開帳における18世紀後半の変化」(in国立民俗博物館研究報告(33):171-
92).
朝日新聞デジタル「まち歩きのススメ おみやげ編 百年前のおすすめ」(2018/04/13北海道版掲載).
 
国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所 両国橋」
(https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/ryogokubashi/2020/08/30参照).
 
東京都立図書館「都市・東京の記憶 絵葉書のなかの東京」
(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/tokyo/chapter1/list_title.html2020/09/05 参照).
 
東京都立図書館「『勧進相撲』の誕生」
(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/sumo/page1-1.html 2020/09/05参照).
 
日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー 語る諸芸から浪花節へ」(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/rokyoku/index1.html2020/09/05).
 
立教大学ホームページ (https://www.rikkyo.ac.jp/2020/09/05参照).