世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

中央ユーラシア史から見るモンゴル ー「大帝国」の来歴と内実 ①

1. 本稿の問いと意義:中央ユーラシア史とモンゴルを世界史に位置づける





1-1. 問い:モンゴルの治世とはどのようなものであったか

 本稿で扱う問いは、次の二つである。(1) なぜモンゴルは、13・14世紀に人類史上最大の版図を実現しえたのか、より正確には、そもそも「人類史上最大の版図を実現する」とはどのような事態を指すのか、そして (2) 彼らはしばしば「残虐な存在」「破壊の限りを尽くす」といったイメージで語られるが、そのイメージは適切なのか *1


 以前の報告でも扱ったが (2020年4月)、前者の問いはなかなかに抽象度が高い。当然のことながら、13・14世紀に民族・国家という近代的概念は存在しない。それゆえ、いわゆるモンゴル帝国 *2 の成立を、主権国家の成立と同列に扱うことはできない。では、一体どのような事態としてそれを捉えるべきなのか。これは高校時代に世界史を勉強して以来、私のなかに謎として残り続けている。そして、このような認識論上の謎と絡まりながら、なぜモンゴルは他勢力に対して優位に立ち、その配下に置くことができたのかという問いが存在している。それ以前には成立しえなかった大勢力を、彼らはなぜ、どのようにして築くことができたのか。これはそれ自体として大きな謎だ。

 次に、残虐なモンゴルというイメージについて。このイメージは根強く残っており、2020年7月に発売されたゲーム「Ghost of Tsushima」(ソニー・インタラクティブエンタテインメント) などにおいても、モンゴル人は基本的に残虐な人間として描かれていた *3。だが、こうした表象は主に中央ユーラシア以外の地域から彼らに対して投射されたものであり、過剰に脚色されたものである可能性は高い。もちろん、モンゴルが他勢力を支配下に置く際に、暴行・略奪・虐殺を行った例もあるだろう。しかし、ことさらに残虐性のみを強調して描くほど、モンゴルの成果は、暴力性といったマンパワーや、その軍事力のみに還元され理解されてしまうことになる。実際高校生の頃の私を思い出してみても、「モンゴル ≒ チンギス・ハン *4」とか「モンゴル ≒ タタールのくびき」といった程度の認識しかなく、モンゴル全体については「騎馬を利用して軍事力で他勢力を駆逐していったが、すぐに分裂・弱体化した勢力、すなわち軍事力に秀でたが政治的には脆弱だった勢力」といったイメージを抱いていたように思う。しかし、そうした歴史観においては、モンゴルの世界史上の成果を理解し、彼らを適切に位置づけることは困難になってしまうだろう。

 これらの点を踏まえ、後者の問いをより正確に表現しておきたい。本稿における「モンゴルの残虐性」に対する問いは、「モンゴルは本当に残虐だったのかどうか」というものであるよりはむしろ、「彼らの成果をどのように把握し、理解するべきなのか」といった性格のものである *5


1-2. 意義:中央ユーラシア史から見る世界史と、その集大成としてのモンゴル帝国

 次に、以上の問いを追究することで何が達成されるかを確認しておく。ただし、中央ユーラシアを世界史で扱う意義については以前の報告でも論じたため (2021年4月)、簡潔に述べたい。

 以前の報告では、中国というナショナルな枠組みにとらわれない歴史把握を掲げ、グローバル・ヒストリーという名称を借りた。そうした歴史を描く意気込みは本報告でも健在だが、同時に、こうした視点が相対化するのは何も中国の歴史のみではないことに注意を向けておこう。例えば、内陸アジア史学会会長でもある梅村坦は、中央ユーラシア研究の意義について、「内陸アジア(中央ユーラシア)史研究のもつ意義のひとつは、ユーラシア大陸の周縁部に展開した「大文字」文明圏を、相対化して俯瞰できるところにあります」と述べ (梅村,2011)、また同学会誌において森安孝夫は、高校世界史で中央ユーラシアに注目する意義として (1) 現行の世界史における西欧中心主義からの脱却、(2) 西洋中心史観と表裏一体の近代中心主義からの脱却、(3) 中華主義史観からの脱却、(4) イスラーム中心主義からの脱却を挙げている (森安,2011)。大づかみにまとめていえば、中央ユーラシア史に注目することは、これまで東西の歴史に偏重し、またそれらを相互に独立したものとして扱いがちだった (せいぜいその時どきの交流をエピソードのような形で紹介する程度であった[杉山,2007:20]) 世界史観の相対化につながるのである *6 *7

 そして、この視点は、各地域を相互作用するネットワークとして捉える視座とも親和性が高い。世界史教育においても、一国史観や自文化中心史観を越え、諸地域のネットワークを描くべきだなどということはかねてより主張されてきた。だが、西洋史に偏重しがちな世界史教育において、そうした視点の適用先はどちらかといえば「(西洋が結んだ) 海の歴史」に偏りがちであったと言われる。しかし、大航海時代帝国主義の時代以降ばかりに「グローバル」性を見出す視点は、そうすることでそれ以前のアジア地域や中央ユーラシア、そこに形成されていたネットワークを等閑視することにつながるといえるだろう

 また、こちらの方が重要なのだが、仮に「内陸の歴史」へと目が向けられたとしても、中央ユーラシアは、東西両端の歴史を重要視するあまりに、東西交易における通過点としてのみ捉えられ、過小評価されがちであった *8。こうした見方も、中央ユーラシアが一つの文明圏とみなしうるまとまりを有していたこと、他地域に大きく影響を与えうる地域であったことを過小評価するものだといえよう

 これらを踏まえたうえで、本稿では、あえて中央ユーラシアを中心に据え、「中央ユーラシアから見た世界史」を意識的に描き出していくことにする。そして、そこから見たときにモンゴルがどのように見えるかといったことを、当該分野における研究成果から考察する。そのような作業を通じて、「蛮行によって正統世界を蹂躙・支配したモンゴル」というイメージ、「正当世界から見た “周辺” としてのモンゴル」というイメージの修正を試みたい。


1-3. 本稿の構成

 本稿の内容は主に、日本におけるモンゴル学のリーダー的存在 (森安,2011) である杉山正明の著書に拠る *9。構成は次の通りである。まず、次章では「野蛮なモンゴル」という像を問うために、そのイメージがどのように形成されてきたのかを簡単に論じる。その作業を通じてモンゴル研究に付きまとう独特の偏りを確認した後、3章ではモンゴル帝国成立までの中央ユーラシアを見ていく。これは中央ユーラシアを中心に据えながらその東西関係を明らかにする試みであると同時に、モンゴルが採用する政治システムの前身が形成されていく様子を見ていく作業でもある。なお、この章の内容はやや複雑であるため、モンゴルのみに興味がある方は飛ばしてもらってかまわない。そして、続く第4章では、モンゴル帝国の政治・経済システムについて、やや簡潔な形にはなるが見ていきたい。そのようにしてモンゴルによる「支配」の実態を確認したうえで、まとめとなる第5章では冒頭の問いに戻っていく。一体、モンゴルによる支配とは、どのような性質のものであったのか。そもそも、彼らが「支配」し、築き上げた「帝国」とは、どのようなものであったのか。


〔全体の目次〕
1. 本稿の問いと意義:中央ユーラシア史とモンゴルを世界史に位置づける (本記事)
   1-1. 問い:モンゴルの治世とはどのようなものであったか
   1-2. 意義:中央ユーラシア史から見る世界史と、その集大成としてのモンゴル帝国
   1-3. 本稿の構成


2.「野蛮なモンゴル」というイメージの構成 : モンゴル研究に付随する偏りについて


3. モンゴル帝国前夜 : 帝国システムの前身と、中央ユーラシアの多極化状況
   3-1. 馬の家畜化から、スキタイの時代まで : 多元的地域連合という原像
   3-2. 中華・草原を二分する漢・匈奴、そして匈奴における遊牧国家システムの完成
   3-3. 農牧融合国家としての拓跋国家 : 華北の「皇帝」でもあり、草原の「カガン」でもある君主
   3-4. 中央ユーラシアの多極化状態 : 農牧融合国家という形式の一般化


4. モンゴルの支配システム
   4-1. モンゴル帝国の成立:広域化する支配範囲
   4-2. モンゴルのアイデンティティ:「モンゴル」であるとはどういった事態か
   4-3. 大元ウルスとその支配システム : 遊牧民の伝統と、緩やかな統治
   4-4. 海の時代へ : 遊牧・農業・海洋を包み込む巨大帝国の成立


5. まとめと展望




参考・参照文献
茨木智志 2007 「モンゴル国における社会科教育の現状と課題」(in 『社会科教育研究』 No.101).
———— 2009 「戦後社会科における世界史の教育」(in 『社会科教育研究』 No.107).

上田信 2018 「高校世界史における日中関係」(in 長谷川修一・小澤実 『歴史学者と読む高校世界史』 勁草書房).

梅村坦 2011 「趣旨説明 (<特集>内陸アジア史学会50周年記念公開シンポジウム「内陸アジア史研究の課題と展望」)」(in 『内陸アジア史研究』 26巻).

小松久男編 2000 『新版世界各国史4 中央ユーラシア史』 山川出版社.

志茂碩敏 1997 「モンゴルとペルシア語史書」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』 岩波書店).

杉山正明 1997 「構造と展開 中央ユーラシアの歴史構図」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』 岩波書店).
———— 2011 『増補 遊牧民から見た世界史』 日経ビジネス人文庫.
———— 2014 『大モンゴルの世界 — 陸と海の巨大帝国』 角川文庫.

杉山正明 / 北川誠一 2008 『世界の歴史9 大モンゴルの時代』 中公文庫.

妹尾達彦 1999 「構造と展開 中華の分裂と再生」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史9 中華の
分裂と再生』 岩波書店).
———— 2018 『グローバル・ヒストリー』 中央大学出版部.

バスティアン・コンラート 2021 『グローバル・ヒストリー』(訳:小田原琳) 岩波書店.

檀上寛 1997 「初期明帝国体制論」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』 岩波書店).

浜由樹子 2008 「『ユーラシア』概念の再考」(in 『ロシア・東欧研究』 37号).

平井英徳 2006 「ネットワーク論にもとづく高等学校世界史の授業」(in 『社会科教育論叢』 第45集).

古松崇志 2020 『シリーズ中国の歴史③ 草原の制覇 大モンゴルまで』 岩波新書.

本田寛信 1997 「原典と実地」(in『岩波講座 世界歴史 月報2』 1997年11月 岩波書店).

森安孝夫 1980 「イスラム化以前の中央アジア史研究の現況について」(in 『史学雑誌』 89巻).
———— 2011 「内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言(基調講演1,<特集>内陸アジア
史学会50周年記念公開シンポジウム「内陸アジア史研究の課題と展望」)」(in 『内陸アジア史研究』 26巻).

山本有造編 2003 『帝国の研究 — 原理・類型・関係』 名古屋大学出版会.

山川出版社『新世界史B 改訂版』 2017年検定済み.







*1:これら2つの問いは、以前アッシリアを扱ったレポートでも取り上げた (「『アッシリア』はいかにして約1400年の『歴史』を紡いだのか」)。本稿は、同様の問いをモンゴルへと向けることで、モンゴル像の問い直しを行う。また、前回報告で用意した農牧境界地域への視座も意識しつつ (「中国史における首都変遷とグローバル・ヒストリー」)、そこで課題として残された東西ユーラシア諸地域の記述を試みる。中国王朝を中心においた前回報告では、中央ユーラシアの諸勢力が東西にどのような影響を与えたのかを俯瞰することは困難であった。今回は、中央ユーラシアとモンゴルを中心に据えることで、より積極的に農牧境界概念 (妹尾,1999/ 妹尾,2018) の重要性を記述したいと考えている。

*2:モンゴルに「帝国」という語を与えるべきかどうかは、それ自体検討の余地がある (帝国概念を検討した書籍として、『帝国の研究』[山本編,2003]があり、そこにモンゴル研究者である杉山正明も寄稿しているが、私は未読である)。しかし、本稿では便宜上、モンゴル勢力が東西ユーラシアに多大な影響力を有した時代を指して「モンゴル帝国の成立」と呼ぶことにする。

*3:対馬を舞台に元寇を扱ったこのゲームは、アメリカのテレビゲーム開発会社Sucker Punch Productions によって製作された。本作においてモンゴル人は、「合理主義を貫くがゆえに、残虐な行為も厭わない人間」として表象されており、対する日本の侍は「仁義や誉れを重視するがゆえに、戦に勝つことができない人間」として描かれている。モンゴルを組織だった合理的存在として描く側面に関してはそれなりに頷ける部分もあるが (とはいえ、元寇がそれほど組織立っていたかはやはり疑問だが)、その残虐性の強調は過剰なほどであり、「モンゴル=残虐」というイメージの根強さを見て取ることができる。

*4:杉山が度々指摘しているが、この表記は誤りである。(杉山/北側,2008:123-126) や、より詳しくは (杉山,1997:86-88)を参照。

*5:なお、一応先に述べておくと、現行教科書においても「モンゴルは残虐である」などとは書かれていない (当たり前だが)。例えば山川『新世界史B 改訂版』(2017年) には、モンゴルが支配下の地域に対して放任的な態度をとったこと、他宗教に対して寛容だったことなどが書かれている。本報告の趣旨は、そうした諸政策を、中央ユーラシアとその東西諸地域といった、より広い文脈に位置づけて理解することにある。  また、そもそも高校段階の生徒が「野蛮なモンゴル」というイメージをどこまで持っているかは怪しい。高校教諭である平井の実践報告によると、ほとんどの生徒はモンゴルに対して「野蛮」といったイメージは持っておらず、むしろ「遊牧やモンゴルに対して、『のどかでおおらか』な、ある種ロマンティックな感情を抱いて」おり、「このことは、高校生が遊牧民に対して持っているイメージが、我々の予想とは乖離したものであり、彼らが明確な予備知識をほとんど持っていないことを示している」という (平井,2007)。もちろん、一実践における生徒の知識状態を、「高校生」全般に共通のものとして想定することには無理があるが、「生徒はモンゴルを残虐だと思い込んでいる」という想定の元で「モンゴルの意義ばかりを強調してしまう」という姿勢にも危うさがあることは意識しておいた方が良い。

*6:他方で、当のモンゴル自身は世界史を西洋中心に教えていることは興味深い。モンゴルにおける中学校段階の世界史教科書 (『歴史Ⅰ 11年制普通教育学校6~7学年用』,Urlah Erdem発行,2005年) を見ると、第二章を「古代の文明」、第三章を「中世の文明」としたうえで、第四章を「地理上の発見、宗教改革ルネサンス」としており (茨木,2007)、大航海時代以降の西洋を「近代」とみなし歴史の主役に据える構成を採用している。これは、いわゆる「文明論」を主軸に置く世界史の一般的な構成であり、逆にいえばそうした構成を常に問い直そうとしてきた (茨木,2009) 日本の教科書のほうが、やや特殊なのかもしれない。

*7:一応付言しておくと、「中央ユーラシア」に注目しその意義を主張する見方も、一つの見方、ある種の思想であることには違いない。本稿ではあくまで、これまで歴史を語るうえで利用されがちだった枠組みを変更して、諸事象を他の見方で見るために、「中央ユーラシア」という見方を強調しているに過ぎない。  ちなみに、そもそもユーラシア論の源流は1920年代の亡命ロシア知識人にあるようだ。彼らはロシア帝国モンゴル帝国の後継とし、モンゴルを積極的に評価したが、その背景には亡命先となった戦間期ヨーロッパへの批判精神があった (浜,2008)。この思想はあくまで一過性のものでありすぐに忘れられた (そして1990年代に再発見された) うえ、現在のユーラシア論との連続性を強く考えることも難しいようだが、モンゴルを評価した先進例として少し気になるところがある。今後時間があったら調べてみたい。

*8:リヒトホーフェンによって19世紀ドイツで提唱された「シルクロード」概念が、こうした “通過点としての中央ユーラシア” というイメージを形作ってきたと杉山は指摘する (杉山,1997:81)。

*9:杉山の研究は高等学校世界史教科書の構成にも大きな影響を与えたようである (上田,2018)。ただし、杉山にはモンゴルの意義を強調するあまりに、明・宋への評価を過小に見積もるような部分がある (それを指摘し明代・朱元璋の再記述を行ったものとして、[檀上,1997]がある)。また、「日本の歴史家」をひとくくりにして論じたり、多くの人が「残虐なモンゴル」「中国王朝主義」にとりつかれているかのように描くことも多く、過剰なほどに挑発的な側面もある。とくに一般書の場合で顕著であり、他分野を批判している部分の記述については (明確に批判対象となる研究が挙げられていない限り) 真に受けすぎないほうが良いように思われる。それを踏まえて本稿では、補足資料として『新版世界各国史4 中央ユーラシア史』(小松編,2000) と『シリーズ中国の歴史③ 草原の制覇 大モンゴルまで』(古松,2020) も参照する。前者は複数の研究者が執筆し、専門的かつ当該分野のオーソドックスな内容を網羅している。後者は近年の動向まで踏まえて中央ユーラシア史を記述しており、また「農牧境界地域」という概念の射程を確認するうえでも参考になる。