世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出文庫,2008) 第四章 要約&コメント

第4章 盛り場の1970年代

Ⅰ トポスとしての「新宿」—— 上演Ⅳ (p.268-95)

〇 盛り場としての新宿

 ターミナル駅として栄えた新宿は、同時に盛り場としての顔も有していた。町の成り立ちに関わる遊郭、娼家、戦後産声を上げ独特の共同性を有した闇市、これらがそれをよく表している (:269-73)。闇市はやがて取り締まられ連鎖市場へと転換したが、その背後では鈴木喜兵衛による構想のもとで歌舞伎町という歓楽街が成長し、昭和23年の売春防止法以降は売春の中心地もここに移動した (:273-7)。

 1960年代になると、新宿はアングラ文化の拠点としての性格を持ち始める。例えば「現実」の市民社会が押し付ける物語を自分たちの「虚構」の物語の側に引き込む唐十郎状況劇場に表れているように、この時期の新宿はマスコミがいかに尖端的にこの街を取り上げようと、それをなし崩しにしてしまうだけのエネルギーを抱え込んでいた (:277-81)。

 

〇 〈新宿的なるもの〉の上演

 では、こうした新宿という舞台における〈新宿的なるもの〉の上演を特徴づけるものはなにか。それは第一にあらゆるヒトやモノを無差別に消化する能力を有していたことであり、第二に未完成のドラマを繰り広げる先取り性を有していたこと、第三に変幻自在であり不確定性をはらんでいたことであった (:281-4)。それに加えて最も重要なのは、この地で演じられた出来事が「参与する人々相互の濃密なコミュニケーションを媒介に、一種の共同性の交感とでも呼ぶべきものを生み、それが出来事の成り行きを大きく変化させていく契機となっていた」ことである (:284)。

 ここで挙げた特徴にはいずれも〈浅草的なるもの〉との類似性を指摘できるが、両者はそれらを成り立たせている秩序化の方式の点で異なっている。1960年代に〈新宿的なるもの〉を担ったのは高度成長のなかで集団就職や大学進学のために上京してきた若者たちだったのであり、そうした集団を生み出した都市構造の変容においてこそ〈新宿的なるもの〉の上演は可能であったのだ (:286-8)。しかし、この流れの延長上で新宿が「都心」へと発展していくなかで (1973年あたりを分水嶺として)、どこか「浅草」的であった新宿から「銀座」的な意識が芽生えてくることとなり、「若く充たされないエネルギー」は「馴致されたエネルギー」へと徐々に変質していくことになった (:292-5)。こうして新宿のエネルギーは急速に色あせていく。


Ⅱ 「新宿」から「渋谷」へ—— 上演Ⅴ (p.295-319)

〇 1970年代における盛り場としての渋谷と、〈渋谷的なるもの〉の上演

 代わって1970年代以降若者の感性に強い影響を及ぼすようになっていったのが、公園通り界隈を中心とした渋谷であった (:295)。とりわけパルコが展開した空間戦略が、1960年代とそれ以降の渋谷との断絶を特徴づけている。

 こうした舞台で演じられた〈渋谷的なるもの〉の特徴としては、「ブラつく」こと、ペアないしグループで行動すること、「現代的(ナウ)」な役柄を見る・見られる関係にあることを挙げられよう (:300-3)。とくに最後の点について述べるならば、若者たちにとって公園通りは『私』を演じる舞台であり、渋谷とはそうした舞台において底抜けに明るい『私』を演じに来る街であった (:303-4)。ただし、こうした特徴がどこか〈銀座的なるもの〉と似通っていたとしても、渋谷は銀座のように唯一かつ特権的な地点ではなかったことは押さえておきたい。

 

〇〈渋谷的なるもの〉の演出

 では、パルコはどのようにして〈渋谷的なるもの〉を演出したのか。その戦略には第一に価値観の似たもの同士を集め価値観を増幅させるための「街のセグメント化」があり、第二に街全体を見る場・見せる場へと組み込んでいくこと (「ステージ性」の付与) があった (:306-8)。それは具体的にはテナントビルにおいて商品や情報をテーマ別にセグメント化し、道に名前をつけ、常に何かしら変化しているかのようにストリートファニチュアを配置していくことなどにより達成されていく (:308-9)。

 〈渋谷的なるもの〉の上演はしかし、演者自身が自ら進んでそれを演じることによって担保されていたのであり、決してパルコのマーケティングのみによって達成されたものではなかった。例えば「客となる人びとに、自分と同類の人間を選別させるような」店のあり方が、この時期渋谷という街に限らず重視され出したように見えることの背景には、人々が街を、自分らしさを演じるための舞台として認識し始めたことがある。その点で「パルコの空間戦略は、たんに渋谷という盛り場に結びついているだけでなく、現代の高度化した消費社会が都市に張り巡らしていく空間技法のひとつの典型をなして」いた (:309-12)。

 これらの上演を担った人々の特徴としては、第一にその社会層が (新宿と比較しても) 圧倒的に若者たちだったこと、第二に移動メディアの発達に応じて幅広い居住圏から集まっていた層であったことが挙げられよう (:312-5)。また、1960年代以降飛躍的に発達したメディアが、例えばカタログ雑誌のような形で若者の感性に影響を与えたことも重要であり、そうした移動メディア・情報メディアの発達両方が〈渋谷的なるもの〉の上演を支えていた (:313-7)。また、こうしたメディアの発達は、人々に個々の地点を「到達すべきもの」としてよりも「選択すべきもの」として観念させるようにしていったともいえよう。

 

結 1960~80年代の都市空間における「ポストモダン」の位相 (p.319-33)

〇 新宿から渋谷への移動を生み出した時間-空間構造の変化

 「浅草」と「銀座」の関係同様に、「新宿」と「渋谷」も、前者がそこに集う人々による幻想の共同性にもとづいているのに対し、後者が「それらが先送りされる〈未来〉からの意味の備給によって保証されている」。しかし、共にターミナル的機能を果たす場であった新宿・渋谷が、なぜこのように異なる意味あいを持つようになったのか (:320-1)。その理由を人々が盛り場に対してどのようなまなざしを向けていたのかという部分から説明しておく。

 第一に新宿に求められたのは「脱出」であり、また相互の濃密なコミュニケーションを媒介にして現実の家郷とは別の、幻想の〈家郷〉を仲間と共有することが求められていた (:321-3)。そこにおいて〈家郷〉とは未来で創造されるべきものとして感受されており、(家郷であるにもかかわらず) 伝統とは切り離されていた。むしろたえず既存のものを破壊し、新しいものを先取り的につくりだしていく感性と共存するもの、それが新宿における「家郷」だったのだ (:323-4)。

 他方で渋谷に対して求められたのは、例えば「銀座」のように特権的な意味の備給源になることではなく、他都市と差異化して、より「現代的」な空間となることであり、そこではすでに〈未来〉の単一性は失われていた (:325-8)。
 

〇 新宿と渋谷における、身体感覚の差異

 最後に身体感覚について述べておくならば、やはり「浅草」と「銀座」の相違と同様に、「新宿」と「渋谷」の差異も〈群れる〉ことと〈演じる〉ことの対比として把握できる (:328-9)。しかし、渋谷を特徴づけるのは、未来の散乱によってもたらされた他者志向であり、その点でそれは〈眺める〉ことよりも〈演じる〉ことに突出したものであった (:329-30)。
 
 


〇 以下、4章の内容に関する細かい疑問点

「個別化」と「カタログ雑誌」(:316-7)

 視聴覚メディアの発達によって、共同的な世界が個別的に媒介されるようになるという話は良い (?)。カタログ雑誌があらかじめ若者にどこへ行くべきか何をすべきかを教えているという話も良い。しかし、「カタログ雑誌的行動」が「視聴覚メディアの発達」へと結びつけられていることには疑問がある。マスな大衆が銀座へと向かったのもまたある種のカタログ的行動であっただろうし、パンフレットが登場したことで街を歩くことがパンフレットの答え合わせになっているという論なら、視聴覚メディア発達よりも以前からあったはずだ (メディア論の文脈ではベンヤミンが同じようなことを言っていたと記憶しているし、なんなら聖地巡礼のあり方などをめぐってかなり昔から同じことが言われている)。ましてやブーアスティンの「疑似イベント」がそういった事態を指すに適した概念であるのかは (正直よく知らないが) 結構怪しい。例えば、渋谷という場所が「選択される」場となったという話とこの概念との親和性は、どれくらいあるのだろうか。こうした疑問が重なった結果、ここらへんの記述はかなり脇があまいという印象を受けた。

 (渋谷という場との結びつきを中心に論じるのではなく、) カタログ誌が「私らしさ」を語るようになったという点に話を絞っていけばもう少しわかりやすい話になったかもしれないし、検証も十分可能であっただろう (『都市のドラマトゥルギー』の内容からはずれるのだが、例えばファッション雑誌における「私らしさ」言説の変容を追ったものとして、浅野智彦「〈私〉のゼマンティーク」[浅野智彦 1994 in 奥村隆編『雑誌の中のアイデンティティゲーム』証券奨学財団研究]がある)。

 

「〈新宿的なるもの〉と〈浅草的成るもの〉のこれまで述べてきたような同型性は、その上演の主要な担い手となった人びとの〈出郷=上京〉するまなざしに支えられており、盛り場としての新宿や浅草は、そうしたまなざしを増殖させていく触媒のような役割を果たしたのである」(:324)

 「〈出郷=上京〉するまなざし」って、なんだ?

 引用部分の内容については一応確認しておこう。第三章では、浅草の担い手は家郷から抜け出した人びとであったとされる (:260)。ただし、その手前には「『浅草』とは、何よりもまず、東京での生活から〈脱出〉することのできる避難所 (アジール) のような場所としてあった」(:257) とあり、それをふまえて吉見は浅草という場を、東京に脱出してきた人々が、しかし幻想の家郷を求めそこへと帰郷していくような街として特徴づけるのである。なんというかわかるようなわからないような、どちらかといえば根拠がなくて全然わからないような話だ。はっきり言ってしまえば、浅草の家郷の話も新宿の上京の話も、共にその共同性なるものがどう感受されどのように当該盛り場における行動と結びついてるかの検討が薄く (例えば第四章では「たえず既成のものを破壊し、新しいものを先取り的につくりだしていく」(:324) ことと、新宿に集う人々がそこを幻想の〈家郷〉と感受したこととの関係が不明瞭であったりするため)、そうした記述は浅草と新宿を同型的に並べるために (あるいは見田の論をなぞるために) 無理やりつくりだされたものであるように見える。そして、この無理やりにつくりだされたように見える同型性以外に、「浅草」→「銀座」を語ったのち突然「新宿」→「渋谷」へと飛ぶことに対しての理由が (著者がそれらの場所を「盛り場」だとしていることを除けば) なさそうなのも、なんだかモヤっとさせられる。こうした問題については、コメント部分でも触れることにしよう。

 ちなみに引用部分にある「まなざしを増殖させていく触媒のような役割を果たした」という部分は普通にわからない。とりあえずは、そうした街があったことで、そうした幻想の家郷を目指し出郷する (寺山修司のような) 人びとが生み出されたという話だろうか。
 


「このような〈銀座的なるもの〉から〈渋谷的なるもの〉への展開は、われわれがこれまで問題にしてきた意味づけの超越的な審級としての〈未来〉のあり方のいかなる変化を背景としているのであろうか。」(:326)

 この部分もかなり危うい語りをしている。この一文の背景となっているのは、〈銀座〉においては〈未来〉が意味の備給点となっていたのだから、〈渋谷〉においてもそのあり方に〈未来〉というものが関わっているという想定である。しかし、〈渋谷〉という街の特徴を「〈未来〉のあり方」の変化から語る必要性は、報告者が見る限り特にない。たとえ本当に (消費社会論のいうとおり) 差異化が街を構成する原理になっていたとしても、その理由を「〈未来〉のあり方が変化したからだ」とわざわざ説明する者はあまりいないであろう (説得力のある形で説明できるなら、してほしいくらいだ)。したがってこの部分の説明にはかなり無理があり、なぜそのような無理が必要とされてしまったかといえば、それはやはり無理やりに「銀座」と「渋谷」との同型性を語ろうとしているからということになろう。

 ちなみにp.329あたりからは、リースマンが指摘する価値の相対化の話を出したうえで、それを〈未来〉の散乱というトピックに結びつけようとしているのだが、これもかなり難しい論の運び。確かに〈未来〉を志向することも一つの価値ではあるだろう (「明るい明日に向かって頑張りましょう!」的なものから、「西洋こそが日本の未来だ!」的なものまで)。しかし、それはあくまで価値の一種であって、価値の相対化といっても様々なものがある。「同世代・同階層の他者たち」を価値の遡及点として見出すようになったことを、「〈未来〉がもはや見えなくなったのなら、見えるようにしなければならない」という論から説明する (:330) のは相当に無理があると思うのだが……。(あと、そもそも「未来が見えなくなった」って話は、「共同体が崩壊した」って話と同じくらい繰り返し何度も語られていそうなので、「なぜ昔の世代をふりかえるときはハッキリとした価値観が存在していたかのように見え、今の時代を見ると不透明になったように見えてしまうのか」を考えたほうが良いのかもしれない。そうした見方になってしまうのは、おそらく接触可能な情報量の違いに原因がある。)
 

 
 

コメント

〇 2章・4章に対する感想

 まず、素朴な感想を述べておこう。本書の基本的な構成には意外性があり惹きつけられるところもある。通常「浅草から銀座へ」と「新宿から渋谷へ」を結びつけて一つの論の下で語ろうとは思わないであろうし、報告者も目次を見た時点でちょっとワクワクした。また、2章の内容はそれなりにためになる話が多く、例えば開帳への向き合い方が変化しているという話に関してはある程度納得できるところもあったし (正直、そこだけでちゃんと論文書いてほしいと思ったが)、上野・銀座界隈の街の変遷は (前々からなぜ有楽町と築地が電車でつながっているのかなど疑問に思っていたところもあり) それなりに楽しく読めた。博覧会自体に関する記述も興味深く、総じていえば2章は (具体的な記述に限っていえば) 十分なクオリティにあったと報告者は考えている (あとあと吉見が『博覧会の政治学』[中公新書,1992]執筆へと向かったのも頷ける)。

 他方の4章であるが、こちらは具体的な記述に関してもかなり薄く、不十分な印象を受ける。おそらく記述の密度としては2章・4章ともにあまり変わりはないのであろうが、それではなぜ4章のほうがより気にかかるかといえば、それはひとえに「新宿から渋谷へ」という話の方が現代に近く我々が知っている情報がより多いからであろう。通常は現代に近くなるほど記述の密度が増すはずであるが、吉見の論においてはむしろ「新宿から渋谷へ」はややオマケ・蛇足的な立ち位置となっていた。その結果として4章は記述も考察もあまり深いところに達しておらず、全体的に消化不良なものとなっている。
 


〇 都市の比較はどのようにして可能か

 本書は「盛り場の変遷」をテーマにしているが、同時にそれは「浅草」と「銀座」、「新宿」と「渋谷」、そして「浅草から銀座へ」と「新宿から渋谷へ」を比較していく試みでもあった。比較という方法は、(上のコメントでも触れたように) 通常同じ平面に並べようとは考えないような対象を分析の俎上に上げることを許すため、意外性を演出してくれる。ただし、報告者の見る限り、本書において展開された比較には様々な困難があったように見える。

 最初に、比較というものについて考えてみよう。比較は通常、メタ的な観点を抽出するという作業を伴う。本書においていえば、〈異界・他界-未来〉〈共同性の交感-近代的・現代的な生活スタイル〉といったものがそれにあたろう。このような観点があり、その観点の下で差異が論じられて初めて比較という試みは十分な意味を持つ (終章p.338のような比較図は、このようにしてつくりだされている)。

 ただし、この作業は慎重に行われる必要がある。もし対象の分析よりも比較を成立させることが優先された場合は、「なくても良い場所に見なくても良いものを見てしまう」という事態に陥りかねない。すでに4章コメントで触れておいた〈出郷=上京〉や〈未来〉についての話がこれに当たるので同じ指摘を繰り返すことは避けるが、より一般化した表現をするならば、比較はそれを成立させるにあたって対象を分析するための観点を制限してしまう傾向にあり、またメタ的な観点の抽出は比較の対象となるものに過度な類型性への期待を生み出してしまう傾向にあると指摘できる。

 さて、以上のようなことを確認したうえで、論点として挙げておきたいのが「都市を比較する試みはどのようにすれば可能か」ということである。とくに吉見のように〈〇〇的なるもの〉という形で人々の感性 (新宿っぽさ、渋谷っぽさ) を扱おうとする場合において、比較という試みはどのような形をとるべきか。



〇[余談]そもそも変容を描く記述として正当なのか

 本書は「浅草から銀座へ」「新宿から渋谷へ」の変容を描くものであるが、そうした変容を描く試みとして本書が十分に成功しているのかは疑問が残る。例えば、本書第4章におけるを記述をごくごく簡単にまとめると以下のようになる (「〇」がついている部分が、本書で記述されているところ)。
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 通常、「新宿」と「渋谷」を比較したうえでその差異を十分に語るためには、新宿が1960年代から1970年代にかけてどう変わったか、渋谷が1960年代から1970年代にかけてどう変わったの両方が確認され比較される必要があるように思われる (場所を固定したうえで、通時的に観察し、それを比較する必要がある。そうしなければ、仮に新宿と渋谷で差異が見られたとしても、その差異が時代によるものなのか場所によるものなのかを確定しえない)。しかし、本書は「盛り場」という概念を用いることで「1960年代の新宿」から「1970年代の渋谷」までジャンプしてしまうのだ。これは正当なことだろうか。

 まぁ半分以上イチャモンみたいな指摘なのだが、とはいえ場所を固定したうえで通時的な変化を記述したものも読んでみたかった気はする。銀座の変化や浅草の変化は、それ自体が面白いテーマになりえたはずだ。




 

〇 歴史という限定された知のなかで

 さて、話を戻して。都市における経験をどのように記述できるか。この問いには様々な答え方があるだろう。一番ストレートなものとして挙がりそうなのが、「人びとが街 (その街っぽさ) をどのように語ったか、体験したかを分析する」方法だろうか。とくに、現代の街を対象とするのであれば、人々が街をどのように歩きどのように体験しているかは、ツイッターの投稿やインスタの写真などから明らかにすることも (頑張れば) できるかもしれない。もしそうした体験の仕方が「新宿」と「渋谷」で違うのであれば、それは比較という試みにも発展しえよう (普通に考えれば、新宿駅近辺と歌舞伎町あたりと新大久保あたりだけをとってみても、それぞれの場がそれぞれ違うように体験されているはずだ。そう考えると、「街」を比較するというのはそもそもあまりにも無茶な話だという気もしてくる)。

 古典的な方法としては特定の集団・階層の人々にメンタルマップを作成してもらうというのも有用かもしれない (よく行く場所や生活に紐づいた場所は印象に残り、そうでない場所は注目されにくい。したがって、同じ街を対象としたマップであっても、集団や階層の差に応じて記述されるものに差異があるはずだ。そうした形で、街の経験を明らかにしていくこともできる)。

 だが、本書の2章や3章のように、少し遠い過去を扱う場合はどうだろうか。利用可能な史料としてどのようなものがあり、可能な調査方法としてどういった方法があるだろうか。今回のような書籍を読んでいると、様々な批判が浮かんでくるし、他にやりようがあったのではないかという気持ちにもなってくる。しかし、実際に歴史的な事柄を扱う場合には、利用可能な史料が制限されるうえに、さかのぼって調査を行うこともできないという限界が常に伴う。そうしたことをふまえた上で、改めて本書の内容を具体的な調査に落としこもうと考えた場合、どういった筋道がありえるか。これを改めて議論してみても良いかもしれない。例えば、過去の時代において、人びとは街をどのように体験したのか。あるいは、盛り場における人々の生や、見世物等を人びとがどう体験したのか (社会史研究・生活史研究において一定の蓄積があるはずだ)。
 

〇 なにか良い論文はあったかな?

 では、歴史という限定された知のなかで、空間と身体感覚を巧みに結びつけた論文はなにかあっただろうか。記憶を探ってみたところ、赤江達也「〈ためらう〉身体の政治学」 (in 関東社会学会 『年報社会学論集』17号:1-12) に思い至った (赤江,2004)。(時間の都合上十分に読み返すことはできていないのだが、) その論文では第一に、内村鑑三不敬事件をとりまく言説の場がどのように組織されていたのかが検討され、第二に不敬事件が起きた式典の場がどのような形式になっており、そこで第三に内村の身体が何を経験したのかが論じられていた。赤江はこのような作業を通じて、内村があの日あの空間のなかで〈何を行うことが可能だったのか〉、そして彼が自身の行為を〈どのような概念でどのように説明することが可能だったのか〉を明らかにしていくのである。

 改めて考えてみると、この論文はやや名人芸的な鮮やかさでもって、言説空間の変化 (天皇制と教育との関係の変化、キリスト教を問題化する視点の変化など)、儀式を構成するマテリアルな要素 (例えば御真影教育勅語、あるいは式の出席者)、「キリスト教」「愛国者」というカテゴリーに付随する非マテリアルな諸概念、そしてそこにおいて内村がどうふるまったのかを結びつけて論じるものであった。したがって、当該論文を今一度読み直しながら、歴史社会学の方法について考えてみるのはアリかもしれない。それをどのように都市の研究へつなげうるかは、また別途検討が必要になるが。