日本の近代と法意識 ― 青木人志『「大岡裁き」の法意識』(2005) から ⑥
6. 法意識論の限界
以上で、冒頭で掲げた (1)(2)(3) の問いを法という観点から扱うことができたかと思います。(1) 法分野における近代化とは、宗教の分野が衰退し法システムが分出することに求められるが、(2) 日本においてはその分出が不十分な側面があり、(3) これが現代における権利意識の未成熟さにつながっている可能性がある、と。ナポレオン法典を通じて、近代の始まりを告げるとされる諸革命を正当化した「法=権利」の思想が輸入される可能性はありました。しかし、それは「冷淡」であると反論され、その反論のなかでは「私権」概念が消滅してしまいます。それどころか、現代の隣人訴訟が好例であるように、日本人はそもそもトラブルを〈法/不法〉コードにのせることすら冷淡な事態として捉えている節があるのです。〈あれは権利である (それゆえ法で守られる)/ これは権利ではない (それゆえ法の対象外である)〉と判別したり、その裁定を司法に預ける態度は、日本では十分に育たなかったといえるでしょう。
さて、察しの良い読者なら既にお気づきかと思うのですが、訴訟行動を法意識から説明することには様々な無理があります。そうしたこともあってか、現在では学術上の議論として法意識論がベタに引用されることはほとんどありません (盛んに研究されたのは1980年代まででした)。本報告の最後に、法意識論への批判をまとめておくことにしましょう。
まず、先述した日本における訴訟件数の少なさについては、訴訟コストの高さと司法インフラの脆弱性という観点から説明することが現在は主流です (以下、青木,2005:176-9)。例えば、人口10万人あたりの法曹数を比べると、(古いデータなのですが) アメリカが284.3人 (1996/1998/1999) なのに対し、日本は17.7人 (1999) であり、日常生活で法に関わる人物と接触することはほぼありません。訴訟に関する相談も圧倒的に行いにくいといえます。さらに弁護士の偏在という問題もあり、事実ほとんどの県では県庁所在地以外に弁護士がいないため、都市部以外において弁護士等にトラブルの相談を行うことは非常に困難でした。このような司法の使いにくさ (コストの高さ) を訴訟件数の少なさの原因として見るならば、とりあえずは「意識」なるものを持ち出す必要はありません *1。馬場健一は法意識論に対して次のように述べています。「制度の存立は意識・文化とは独立に保障されうるし、意識・文化がそれを規定しているなどという議論には十分な根拠もない、とすれば、司法制度が小さく使いにくいという動かしがたい事情がある以上、機能不全説の優位は動かしがたいというべきである」(馬場,2004)*2。これは最もな反論でしょう *3。
そもそも先に示唆しておいたように、「意識」なる概念は胡乱であり、到底検証に耐えうるようなものではありません。ある制度の背景に、ある「意識」が存在しているなどということを、どのようにすれば立証しうるのでしょうか。それどころか、馬場の指摘からもわかるように、制度の機能不全を記述するにあたって「意識」というものを持ち出す必要はそもそもないのです。そうしたことを考えると、法意識論が現在はほとんど顧みられない理由もよくわかります。それは立証が困難なだけでなく、説明上も不要なのです。
そのうえで、しかし歴史の時々で法制度を作り上げたり正当化したりする際に、どのような理屈が援用されたのかという視点は重要であると私は考えています。制度を形成する過程で、どのような論理のもとに、何が受容され何が受容されなかったのか。何が、どのように理解されてしまい、どのように理解されなかったのか。制度の作り上げに貢献した理屈や理解は、ありえたほかの説明・理解のなかから選び取られたものです。その点で、それは一つの選択を経たものです。そうである以上、もしそこで援用された理屈や理解が他の場面でも繰り返し観察されることがあれば、そのことに対しては注目をしたほうが良いでしょう。そこにはある説明・理解に対する選好が存在しているといえるからです。そのような選好を「意識」と呼ぶべきかは別として *4、同じ理屈が繰り返し援用されたり、ある事柄がどうしても受容されなかったりすること、ある事態への回避傾向が観察されることは、それなりに有意な事態であると思われます。
また、法制度の比較などを通じて日本における司法制度の特徴を明らかにするということも、当然可能です。やはりこれを「意識」と呼ぶかどうかは別の問題なのですが、そうした比較の試みが意味を為さないわけではありません。
さて、ここまでの議論は、ともすれば「西洋文化が優位にあることを前提としており、そこから東洋の遅れを記述することで東洋への一方的な啓蒙を図ろうとする不当なものである」との誹りを受けえません *5。最後に、この点について検討しておきましょう。まず、本記事は「西洋を一方的に礼賛すべきだ」とか、「日本は遅れているから追い付かないといけないのだ」などと主張するものではありません。西洋ばかりを肯定的に描く議論にも問題はありますし、特定の違いを「遅れ」として捉える議論は (ひと昔前の史学においてならともかく、現在では) 到底容認されるものではありません。しかし、それは制度の良し悪しとは別の問題であると私は考えています。文化のアイデンティティを守るべきだといった議論と、制度や選好の良し悪しに関する議論は、あまり混同させるべきではありません。「すべてがすべて同様に尊重をされるべきだ」という主張も、(なぜか特に歴史を問題とする場合このような主張が登場しやすいのですが) 少なくとも教科として社会科というものに向き合う場合は、実りのあるものだとはいえないでしょう。
制度・選好の良し悪しに関しては、例えば機能という観点から検討をすることが可能です。機能は特定の問題とセットで用いられるべき概念であり (ルーマン,2020)、ここでは「民事におけるトラブル」を問題としたうえで、その解決にあたってある社会の制度や選好がどのような機能を果たすのかを考えさせるものです。機能の概念は、そのような形で諸制度・諸選好を比較する視野を開きます。そうやってある社会における制度やその社会に存在している選好の良し悪しを比較することはできるし、あるいはいまだ存在しない代替選択肢について考えることもできるのです (機能主義的比較の意義については[佐藤,2011]がわかりやすいです*6 )。本記事はどちらの制度・選好が機能上優れているかという点にまで踏み込んで考察したものではないのですが (実のところ〈調和 (訴訟しないこと)〉と〈差異 (訴訟すること)〉のどちらがどのように問題に対して有意義な機能を有しているのかはなかなか判定しがたいので)、法コードの分化/未分化という視点から西洋・東洋の法文化を比較し、その視野から日本における法の機能不全を描き出すものでした。その点で、西洋文化の優位性を前提としているわけではもちろんないですし、他方で制度・選好の良し悪しについての答えも間接的には提示しています。
そして、比較という作業のより根本的な利点は、ある事柄を偶発的なもの (必然的ではないもの) として捉えることを可能にしてくれるという点にあります。自身の社会における制度や選好を相対化し、特殊なもの、別様でもありえたものとして見る。新たな制度や態度を形成しようとする姿勢は、こうした試みのなかでのみ生まれうるのです。本報告冒頭で、「歴史総合」という教科について触れました。「歴史総合」とは、ここに至って振り返り見れば、「世界の近代」と「日本の近代」を比較し、それを通じて日本における諸制度・諸選好を「こうでなくても良かったもの」として問題化する (特定の「課題」という視野において捉える) 教科であるということができるかもしれません *7*8。この試みが扱うべき範囲はとてつもなく広く、その実践にあたってはかなりの困難があることは容易に想像できるのですが、それでもそうした困難に立ち向かうだけの価値は確かにあるのだと思われます。
参考・紹介文献 資料
・青木人志 2005 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』 光文社新書.
・太田義器 2014 「近代自然法論 ―普遍的な規範学の追究」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
・川島武宣 1967 『日本人の法意識』 岩波書店.
・小林弘 2007 「ホッブズの哲学における権利と法」 『英米文化』37 : 43-59.
・小山哲ほか 2011 『大学で学ぶ西洋史[近現代]』 ミネルヴァ書房.
・阪上孝 1988 「世論の観念について」 『經濟論叢』141(6) : 307-24.
・笹倉秀夫 2002 『法哲学講座』 東京大学出版.
・佐藤俊樹 1993 『近代・組織・資本主義:日本と西洋における近代の地平』 ミネルヴァ書房.
・佐藤俊樹 2011 『社会学の方法 ―その歴史と構造』 ミネルヴァ書房.
・高木八尺編 1957 『人権宣言集』 岩波文庫.
・瀧井一博 2011 『伊藤博文演説集』 講談社学術文庫.
・フット 2006 『裁判と社会 —司法の「常識」再考』 NTT出版.
・辻康夫 2014 「ロック ―宗教的自由と政治的自由」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
・馬場健一 2004 「訴訟回避傾向再考 ―『文化的説明』へのレクイエム」 『法社会学の可能性』 法律文化社.
・中村義孝訳 2017 「ナポレオン民法典」 『立命館法學』.
・福井康太 2002 『法理論のルーマン』 勁草書房.
・穂積八束 1891 「民法出デテ忠孝滅ブ」 『法學新法 第5號』.
・村上淳一 1997 『〈法〉の歴史』 東京大学出版.
・森村進 2015 『法哲学講義』 筑摩書房.
・ラッセル 1970 市井三郎訳『西洋哲学史3』 みすず書房.
・ルーマン 2003a 馬場靖雄訳 『近代の観察』 法政大学出版.
・ルーマン 2003b 馬場靖雄ほか訳 『社会の法』 法政大学出版.
・ルーマン 2004 村上淳一訳 『社会の教育システム』 東京大学出版.
・ルーマン 2020 馬場靖雄訳 『社会システム (上)』 勁草書房.
・文部科学省「高等学校指導要領における歴史科目の改訂の方向性」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/062/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/06/20/1371309_10.pdf , 2020/03/30参照).
・国会図書館ホームページ「穂積八束博士論文集」(https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000567488-00 , 2020/03/31参照).
・国会図書館ホームページ「国体の本義」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1156186 , 2020/03/31参照).
・名古屋大学大学院法学研究科「法律情報基盤」(https://law-platform.jp/ ,2020/03/31参照).
・自由民主党2012「日本国憲法改正草案に関するQ&A増補版」 憲法改正推進本部 (https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf , 2020/03/31).
・日本弁護士連合会ホームページ「弁護士白書」(https://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/publication/whitepaper.html , 2020/04/02参照).
・日本弁護士連合会ホームページ「民事司法改革と司法基盤整備の推進に関する決議」(https://www.nichibenren.or.jp/document/assembly_resolution/year/2011/2011_2.html, 2020/04/02参照).
*1:一応、「そのインフラの不十分さも法意識の脆弱性が招いたものだ!」と言うことはできます。しかし、そのように反論すればやがて典型的なミクロ・マクロ問題へと陥ることになるでしょう。こうした論争に足を突っ込むことは基本的に不毛です。有益なのは、そもそも「法意識」なるものとその効果をどのように測定するのか / 制度上の不備はどのような過程で生み出されてきたのかといったことを一つ一つ検討することであると思われます。
*2:青木の引用からの孫引き。本書も未読であるため、時間を見つけて読んでみたいです。
*3:なお、弁護士の少なさや偏在の問題は少しずつ改善されて来ているようです。日弁連が公開している弁護士白書を見てみましょう。2009年には、弁護士一人あたりに対する国民数は4,742人であったが、2016年には3,373人となっています (日弁連,2016:49)。弁護士の偏在についてもかなり気を使って改善してきたらしく、2012年の時点で少なくとも大都市偏在は改善されつつあったようです (日弁連,2012:53)。法相談のしにくさに対しても、2006年以降日本司法支援センター (法テラス) の設置が進められました。その結果、法律相談援助の件数も右肩上がりで増加しています (日弁連,2012:49)。 とはいえ、それでも問題が十分に解決されつつあるとは言い難いでしょう。弁護士一人あたりに対する国民数を諸外国と比較すると、フランスは1,071人、ドイツは497人、イギリスは406人、アメリカは264人となります (いずれも2016年.日弁連,2016:49)。諸外国と日本では、差は大きいといわざるをえません。偏在の問題に関しても、2019年の時点で全弁護士のうち47.61%は東京に属しています (日弁連,2019:53.それでも東京の弁護士一人あたりに対する住民数は706人です)。
*4:社会学的には、特定の事柄への選好を「人格 (パーソナリティ)」等と呼ぶことに違和感はありません。それを (特定個人と結びつけられたものではないという点を強調するために) 「意識」と呼ぶのであれば、これも同様に大きな違和感はないかと思われます (やや引っかかるところはありますが)。ただし、依然として、どのような範囲を対象にそれを観察すれば「意識」を観察したことになるのかという問題は残されています。
*5:特に、教育という試みにおいてはそうした批判を受ける可能性が高くなります。また、教育者自身も確かにそのことに対して反省的でなければならないでしょう。そうしたことに反省的になったうえで、「なんにでも価値がある」とか「なんにでも中立であるべきだ」というあまり有意味ではない物言いを越えて何かを主張するためには、どのような概念装置が必要なのか。それを本報告の残りの部分で触れておくことにします。ただし、ここでの内容はまだ暫定的で、アイディアに過ぎないものなのですが。
*6:後日、独立した記事を作って解説します。
*7:その点で、この教科はどこか歴史社会学的だといえるでしょう。こうした歴史社会学的研究として、例えばウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を下敷きに「西洋の近代化」と「日本の近代化」を比較し、その諸特徴を論じようと試みた佐藤俊樹『近代・組織・資本主義』(佐藤,1993) などがあります。この本についてもそのうち取り上げて、「経済」という視点から近代を捉えなおしてみたいです。いつになるかはわからないですが。
*8:そもそも何か新たな制度を作る際には、歴史を見ることと比較することは不可欠です (諸社会科学でも、そうした試みが積み重ねられてきました)。そうした点でこの教科は、新たな制度、望ましい社会というものを考える試みとして大きな可能性を秘めています。その可能性を追求するためにも、本ブログではしばらく「比較」ということをテーマに据えて物事を検討していくつもりです。