世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

日本の近代と法意識 ― 青木人志『「大岡裁き」の法意識』(2005) から ⑤

5. 隣人訴訟における法意識 ― 訴訟は冷淡であり、人間関係を壊すものである

 訴訟回避の話に戻りましょう。穂積は個人主義的なボアソナード民法が「冷淡」であるとしたのですが、このように考える精神はどこかで訴訟回避の話へとつながっているように見えます。そのことを示すために、「隣人訴訟」と呼ばれる事件を取り上げることにしましょう。この事件からは、民法上の訴訟を起こすことが、「権利」ではなく「人間関係を壊すもの」として捉えられている様子を見て取ることができるのです




 隣人訴訟と呼ばれる事件の顛末は次のとおりです (津地裁昭和58年2月25日判決)*1。A夫人とB夫人は同じ団地に住み、互いの息子が同じ幼稚園に通っていたこともあって親しく交際していました。ある日、A夫人はB夫人に、息子a君を預け、買い物へ行きます。B夫人は、子ども同士で遊んでいるから大丈夫だと考え、息子たちを外で遊ばせていました。しばらく経ったあと、B夫人は池に沈んだa君を発見します。a君は救急搬送されたのですが、結局助かりませんでした。この事件に対して、A夫人はB夫人を相手取り裁判を起こします。B夫人は事故等に注意する義務があり、それを怠った以上、民法上の責任があるとしたのです。

 以上のように、事件自体には取り立てて特徴はありません。しかし、ある新聞はこの事件に対して「隣人の行為につらい裁き」と見出しをつけて報道。その際、A夫人のみを (住所まで記載したうえ) 実名で報じました。これを受けて、A夫人のもとへは全国から非難と嫌がらせの電話・手紙が殺到します。精神をすり減らしたA夫人は訴訟を取り下げようとしたのですが、B夫人側はあくまで判決を待つ構えを見せました。これに対して、今度はB夫人のもとに嫌がらせの電話と手紙が殺到。結局、B夫人も訴訟取り下げに同意することとなります。

 A夫人側の弁護士は当時のインタビューで次のように述べています。「しかし、冷静に考えてください。よそさまの幼い子を見ることになったら、むしろ、わが子以上に気づかうのが、普通の人情じゃ、ないでしょうか」。他方、B夫人側の弁護士は次のように述べています。「わたしは本当に高裁で争いたかった。あんな提訴、判決を認めたら、近隣関係、ひいては人倫がこわされてしまう。(…) 日本には何の資源もない。あるのは人間だけです。その人間の関係をこわして、あいさつもできないような社会をつくって、日本が成り立ちますか。(…) 権利はあっても、人倫に反する訴訟は、してはならない、とわたしは思うのです」。いずれの弁護士も、「人情」や「人倫」といった「心」を重視しており、裁判を受ける権利といったものをそれほど重視していないことに注意しておきましょう。Bの弁護士に至っては、提訴すること自体を非難しており、そのような訴えは「人倫」を壊すと主張しています。どうやら世間の反応はBの弁護士にかなり近かったようであり、要するに「訴えること」そのものを人間として「冷淡」であると非難したのです

 しかし、そもそも民事上の裁判とは公正な判決 (ジャッジ) を行う場であり、裁判を起こすことは〈法/不法〉の判定を司法に委ねること以上のものを意味しているわけではありません。あるトラブルを〈法/不法〉のコードにのせることすら忌むべきものと考え、特定の人物の裁判を受ける権利すら奪わんとする「世間」においては、やはり法のコードが十分に根付いていないといわざるをえないでしょう。ここで第2節にて引用した村上の論を想起し、その内容を隣人訴訟と比較してみてください。隣人訴訟において、トラブルは、法ではなく「感情」によって判断されてしまっているのです。
 




参考・紹介文献 資料

青木人志 2005 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』 光文社新書.
太田義器 2014 「近代自然法論 ―普遍的な規範学の追究」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
川島武宣 1967 『日本人の法意識』 岩波書店.
・小林弘 2007 「ホッブズの哲学における権利と法」 『英米文化』37 : 43-59.
・小山哲ほか 2011 『大学で学ぶ西洋史[近現代]』 ミネルヴァ書房.
・阪上孝 1988 「世論の観念について」 『經濟論叢』141(6) : 307-24.
・笹倉秀夫 2002 『法哲学講座』 東京大学出版.
佐藤俊樹 1993 『近代・組織・資本主義:日本と西洋における近代の地平』 ミネルヴァ書房.
佐藤俊樹 2011 『社会学の方法 ―その歴史と構造』 ミネルヴァ書房.
高木八尺編 1957 『人権宣言集』 岩波文庫.
・瀧井一博 2011 『伊藤博文演説集』 講談社学術文庫.
・フット 2006 『裁判と社会 —司法の「常識」再考』 NTT出版. 
・辻康夫 2014 「ロック ―宗教的自由と政治的自由」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
・馬場健一 2004 「訴訟回避傾向再考 ―『文化的説明』へのレクイエム」 『法社会学の可能性』 法律文化社.
・中村義孝訳 2017 「ナポレオン民法典」 『立命館法學』.
・福井康太 2002 『法理論のルーマン』 勁草書房.
穂積八束 1891 「民法出デテ忠孝滅ブ」 『法學新法 第5號』.
村上淳一 1997 『〈法〉の歴史』 東京大学出版.
森村進 2015 『法哲学講義』 筑摩書房.
ラッセル 1970 市井三郎訳『西洋哲学史3』 みすず書房.
ルーマン 2003a 馬場靖雄訳 『近代の観察』 法政大学出版.
ルーマン 2003b 馬場靖雄ほか訳 『社会の法』 法政大学出版.
ルーマン 2004 村上淳一訳 『社会の教育システム』 東京大学出版.
ルーマン 2020 馬場靖雄訳 『社会システム (上)』 勁草書房.
 
文部科学省「高等学校指導要領における歴史科目の改訂の方向性」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/062/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/06/20/1371309_10.pdf , 2020/03/30参照).
国会図書館ホームページ「穂積八束博士論文集」(https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000567488-00 , 2020/03/31参照).
国会図書館ホームページ「国体の本義」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1156186 , 2020/03/31参照).
名古屋大学大学院法学研究科「法律情報基盤」(https://law-platform.jp/ ,2020/03/31参照).
自由民主党2012「日本国憲法改正草案に関するQ&A増補版」 憲法改正推進本部 (https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf , 2020/03/31).
・日本弁護士連合会ホームページ「弁護士白書」(https://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/publication/whitepaper.html , 2020/04/02参照).
・日本弁護士連合会ホームページ「民事司法改革と司法基盤整備の推進に関する決議」(https://www.nichibenren.or.jp/document/assembly_resolution/year/2011/2011_2.html, 2020/04/02参照).

*1:事件概要のまとめにあたっては、(青木,2005)を参照しました。