世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

文献紹介:木畑洋一『20世紀の世界』(2014)

 本書は20世紀の歴史を、植民地化されていた地域まで視野に含めながら記述しなおすものです。西洋中心の歴史観から見ると第二次世界大戦と冷戦の間には何か大きな分岐があるように見えてしまうのですが、植民地にとってはそうではありません。戦後、彼らにとって問題となったのは「脱植民地化の貫徹」であり、その点で彼らは19世紀末から地続きの問題と関わっていたのです。こうした視角に立ち、木畑は1870年代から1990年代初頭に至る時代を「長い20世紀」として抽出しました。では、そうした視点のもとで描かれた20世紀史とはどのようなものとなるのでしょうか。以下に、各章の内容をまとめておきます。






 第一章では、帝国主義によって世界が一体化していく様子が描かれます。一体化といっても、その在り方が世界中で一様だったわけではもちろんありません。帝国主義諸国は「支配する国」同士の連携を強化していったのですが (同盟条約、互いの支配権の承認など)、周縁諸国において連帯の回路が形成されることはありませんでした。支配される側の連携を説くアフガーニーのような者もいましたが、そうした連携が実現することはなかったのです (:40-1)。なお、そうしたなかで皮肉にも抵抗運動の連携の場を提供する国として期待をかけられたのが日本でした。アジア各地の民族運動家が日本の支援を求めたのもそうした事情があったからですが、日本はそれに応えることはなく、彼らの失望を招くこととなります (:43-3)。


 以上のような帝国主義による中心-周縁の連動強化は、中心間の大戦を世界規模にまで飛び火させる要因となりました。第2章で取り上げられるのは、第一次世界大戦の勃発からその終焉までです。

 第一次世界大戦の戦争目的としては、ウィルソンの14か条が有名でしょう。彼は1918年に入ってから、ベルギーの独立回復、秘密外交の廃止や海洋の自由などを戦争目的として掲げました。しかし、もちろん各勢力が実際にこうした崇高な理念の下で戦争を行っていたわけではありません。例えば、ドイツはフランスの弱体化や北アフリカ・ベルギーの併合を狙い、フランスはドイツからアルザス=ロレーヌ領の奪回を目指しつつ西アフリカでの領土拡大をもくろんでいました。イギリスもヨーロッパ外における勢力の確保・拡大に関心を抱いていたのであり、その点で結局のところ第一次世界大戦は (最終的にどのような目的が掲げられたにせよ) 「帝国主義の時代における植民地獲得競争の延長上に位置づけられる戦争としての性格」を強く有していたのです (:63-7)*1

 第一次世界大戦には、植民地化された地域の住民たちも盛んに動員されました (:75-85)。帝国側は総力戦にあたり支配-被支配の関係を最大限に利用したこととなるのですが、これが逆に植民地側のナショナリズムを高める一要因ともなりました (「なぜ、自分自身のものではない問題のために死に追いやられないといけないのか」)(:86-9)。そうした帝国支配のほころびのなかで浮上してきたのが、「民族自決」という考え方だったのです。各植民地はこの考え方に期待をかけ、とくにウィルソンへの期待を強めました。しかし、この期待はパリ講和会議の推移によって完全に裏切られることとなります (:93-5)。結局のところ帝国支配側は種々の民族運動に対して弾圧をもって臨んだのであり、第一次世界大戦後に行われたのは委任統治制度などを利用した植民地支配体制の手直しでしかなかったのです (:96-102)。


 さて、続く第三章では、世界恐慌から第二次世界大戦終結までが触れられます。世界恐慌は、帝国世界に一次産品を輸出していた植民地・従属地域に致命的な打撃を与えました (:118)。こうした状況下において国際秩序への徴発に乗り出したのが日本です。各国は恐慌への対処に追われるなか、宥和政策を採用し、日本の満州侵略に対して積極的な措置を取りませんでした。これが先例となり、イタリアによるエチオピア侵略が行われ、1937年までに枢軸国陣営が形成されることとなります (:121-34)。

 「反ファシズム人民戦線戦術」の提唱は、これらファシズム諸国に対する結集を各地で促しました (:138)。重要なのは、その当初においてコミンテルンソ連反帝国主義運動を鼓舞し支援する姿勢をとっていたにもかかわらず、そうした理念はやがて後退させられてしまったということです。ファシズムに対抗するという理念を掲げていたにも関わらず、例えば「植民地人民の利益は、彼らとフランス人民との結合のなかに存在するのである」(だから、植民地をファシズムから守らなければならない) といった形で、植民地問題は棚上げにされてしまったのでした (:140-3)。また、ソ連ではその後、スターリンが平等・対等を強調しながらも、同時に大粛清を実行しています。

 さて、第二次世界大戦後はヨーロッパの戦争とアジアの戦争が結びついたことで世界大戦の様相を見せたのですが、それは実のところヨーロッパにおけるドイツの帝国とアジア太平洋における日本の帝国による、「帝国世界の暴力的再編を目指す戦争」という性格を帯びていました (:154)。対する連合国側は、そうした世界再分割に抵抗する勢力であったと見ることができます。反ファシズム勢力たる連合国側はタテマエとして領土不拡大、民族自決、民主主義、恐怖と欠乏からの解放といった国際秩序原則をうたった大西洋憲章を掲げたのですが、他方で「自国の帝国がこの戦争によって崩れていくことをいかに防ぎ、ファシズム諸国によって奪われた領土の奪回をいかに図るかに腐心していた」のです (:157-8)。

 第二次世界大戦においては、植民地域の動員も第一次大戦のころより大規模なものとなりました。イギリス帝国に動員されたインド人の数は先の大戦を100万人も上回る約250万人であり、アフリカのイギリス領からも60万人近くが動員されました。フランス帝国各地からも約68人が動員されています。ドイツや日本も同様に、支配地域からの強制的な徴用を行いました (:169-73)。そして、第一次大戦同様、こうした動員は各地で帝国支配の乱れを生み出すこととなります。インドではイギリスからの独立を目指してチャンドラ・ボースがドイツや日本に接近し、北アフリカではフランスからの独立を求めて1943年にアルジェリア人民宣言が出されました。ドイツに支配されたポーランドでは1944年にワルシャワ蜂起が起き、中国大陸では微弱ながらも抗日運動が続けられることとなります (:173-6)。
 

  第四章では、大戦後の世界から「長い20世紀」の終わりまでが描かれます。第二次世界大戦後、各植民地が独立を要請すると、これに対して「二度目の植民地征服」が展開されました (:190)。しかし、帝国側の思惑に反して、植民地独立の動きは不可逆的に進んでいくこととなります。1947~48年にかけてはイギリスからインド・パキスタンビルマ・セイロンが独立。その後独立の波は加速を続け、60年にはいわゆる「アフリカの年」を迎えることとなりました。このようにして、帝国世界は徐々に解体を迎えたのです (:191-2)。

 脱植民地化で独立した被支配地域の人びとは、政治的独立によって自立と繁栄が実現されると考えていました。しかし、その夢はすぐに破れることとなります。各地では内戦が勃発し、また、内戦に至らなかった地域も、新たな国家建設に乗り出すにあたり数々の困難に直面することとなりました。政治面では、① 民族主義運動から引き継がれた権威主義的手法に支えられて政治体制が構築されたこと、② 帝国主義時代の人為的境界線によって仕切られた政治空間内で国家を建設せざるをえなかったこと、③ 植民地時代に見られた統治者と民衆の乖離を引き継いでいたことなどから、権威主義的な政治体制と腐敗が広がりました (:206)。経済面では、① 経済戦略を実現しうる優れたリーダーシップに欠けていたことや、② 基礎教育の遅れによる人的資源の不足などが、植民地時代に構築されたモノカルチャー経済構造の存続を招いたのです (:207)。

 冷戦の主役であるソ連アメリカが帝国世界解体過程において占めた位置も確認しておきましょう。ソ連アメリカは政治的脱植民地化を推進した国際的要因である一方で、自身らもまた帝国的性格を帯びていました (:211)。ソ連は東欧各国に介入し、アメリカは中米やカリブ海諸国への内政干渉を行いつつ、同時に世界の各地域に軍事基地を配備したのです (:211-4)。また、この両国の介入により、脱植民地化と冷戦の交錯がいくつかの地域で起こることとなります。その結果、朝鮮は統一した独立国家としての歩みを始めることができませんでしたし、ベトナムの脱植民地化過程においても多くの犠牲が払われることとなりました。アンゴラにも冷戦の構図が露骨に持ち込まれることとなり、その脱植民地化過程は大きく歪められることとなります (:216-20)。なお、冷戦は資本主義・社会主義という対立する社会体制のイデオロギー的競合という側面からも、脱植民地化過程に大きな影響を与えることとなりました (:221-4)。

 一方で、脱植民地化は世界の各地域における国際秩序の在り方を大きく変えていきました。1947年のインド独立にあたり、インドがイギリス国王への忠誠を拒んだことから、連邦 (コモンウェルス) への秩序再編が実現します (:224-8)。フランスの場合には独立した国々とフランスとの間でフランコフォニーが創設されました (:228-9)。このような動きと並んで、支配されていた国々同士で新たな国際的協力の枠組みを作ろうとする試みも進められていきます。1947年にはアジア開発会議が、55年には第一回アジア・アフリカ会議が開かれました (:229-32)。これら会議に参加した国々は、冷戦体制に加わらず、「独立と平等の原則に基づく諸人民間の平和的協調」を追求する姿勢を共有したのです (:232)。しかし、こうした動きも1970年代には勢いを失っていきます (:233)。

 そうしたなか、各地で模索されたのが「地域統合」というあり方でした。周知のとおりヨーロッパではフランス・ドイツを中心にした統合が試みられたのですが、こうした地域統合は支配された地域においても現れていたのです。これは、主権を持った国民国家を目指した脱植民地地域が、同時に国民国家の枠を超える協力の枠組みの形成にも着手したことを意味していました (:234-6)*2

 さて、1980年代に入るといよいよ冷戦の終結が見えてくるのですが、この時期は「長い20世紀」にとって「帝国世界の最終的な崩壊の局面」でもあります (:241)。1980年にはジンバブウェが誕生し、ナミビアも1990年に独立を果たしました。香港でも中国への返還合意が1984に成立します (:244-6)。もちろん、被支配地域の生活状況が全般的に改善したわけではなかったのですが、ともあれこの時代に植民地体制が払拭されたことで、新たな時代における諸地域発展の基礎が築かれたのです (:246)。
 

 最後に、終章の内容をまとめておきます。現在においても支配-被支配関係が完全に払しょくされたわけではありません。しかし、重要なのは「人々の平等性についての国際的な規範」が完全に変化してきたということです。支配-被支配関係があることは当たり前のことではなくなり、各地では謝罪や補償を求める動きが活発化しています (:262)。かつての帝国諸国は、帝国世界という考え方から脱却を果たしたのです *3

 では、21世紀という時代はどのようなものとして捉えられるでしょうか。キーワードとなるのはグローバリゼーションです。それは国民国家の衰退や後退を意味するわけではありません。国民国家が世界を覆うなかでグローバリゼーションが進んでいるのが現在の状況であり、やはりそのなかで進展している地域統合・地域協力の動きには注目をしておく必要があるでしょう (:267-8)。また、インドと中国の急成長からもわかるように、経済的にも「長い20世紀」とは異なる段階に入ったといえます。

 他方で、1990年代以降も帝国支配を遠因にした様々な内戦が勃発しました (フツ人とツチ人の対立のように)。しかし、それらも徐々に減少を迎えているのであり、21世紀も戦争と暴力の時代であると悲観する必要はないのだと木畑はまとめています *4

*1:なお、「大戦中の植民地再分割競争には、再分割の対象とすることを望む敵国側の植民地統治を暗黒のものと描き、それに自国の統治が取って代わることが植民地住民にとって幸せなものであると主張する、植民地統治をめぐる宣伝合戦も伴っていた」といいます (:69)。

*2:アジアではASA,ASEANが、アフリカではOAUという地域協力組織が結成された。

*3:現状をそこまでポジティブに捉えうるかはやや疑問です。

*4:この点についても、やや楽観的な見方であるように私は思いますが。