世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

ルーマン「社会学的パースペクティブから見た規範」(1969=2015) 概要とコメント

概要


 予期についての初期ルーマンの議論は有名であり、日本の法学・社会学におけるルーマン受容もこの議論あたりから始まったといってよいと思う (たぶん。ちなみに『法社会学』邦訳の出版は1977年である)。本論文が収録されている『社会の道徳』の訳者あとがきにもあるように、ここではそうしたルーマンの記念碑的な議論が、『法社会学』(1972=1977) ほど複雑ではない形で展開されている。以下では内容をかみ砕き適当な例を加えながら、その概要をまとめていくことにしたい。なお、本記事はどちらかといえば精読よりも議論の紹介に重きを置いている。そのため、内容を理解しやすくするための補足を〔〕内に加え、話の流れもところどころ整理した。そもそもちゃんと理解できているかすら怪しいので、その点注意してほしい。


 ルーマンは本論文において、「規範の根拠付け」にかかわる問題に取り組んでいる。そして、その問題に対して、ルーマンは次のように答える。規範とは、人間がほかの人間に直面する際に 〔すなわち他者と相互作用する場面において〕 形成される予期の一種なのであると。我々が他者との間に社会的一致を成立させることが可能なのは、「自分に向けられた[他者の]予期を、予期する」ためである (:27)。そのように共予期することによって、我々は自身の行動を 〔いちいち時間を使って話あったり了解をとったり、相手の行動を待って互いに動き出せなくなったりせずとも〕 内的に決定することができる。予期の予期の予期という水準にまで至れば、さらに「速やかで思慮深い了解」が可能になるであろう 〔「あの人は、私がそれを望んでいると思ってこうしてくれるはずだ。だから、それを責めたりしてはいけない」〕。ただし、こうした予期は同時に錯誤のリスクも高めていくため、小規模な社会システムを超えて安定させることは難しい。小規模な社会システムを超えて安定した予期を形成するにためには、「当為〔~すべきだという予期〕の脱人称化」が必要となる (:28)。脱人称化された当為は私と他者の予期を統合することを可能とし、それによって錯誤のリスクを吸収してくれるのである (:29)。

 そうしたことを確認したうえで、ルーマンは「予期外れ」への対応に注目していく。予期外れに際して、行為者は「学ぶこと (自身の予期を修正すること)/ 学ばないこと (相手を規範づけること)」という二つの戦略を取りうる (:30)。なお、心理学者たちは「学ばない (予期を修正しない)」ことを病理としてみなす傾向にあるが〔例えば、強いこだわりを持ち、眼前の状況を拒否したり、予期外れに対してパニックを起こしたりすることは、ときに「障害」などと見なされるのだが〕、道徳・制度・法などの「社会的規範」に関する場面で自身の予期を修正しないことは問題としない。ここから、社会的規範は心的システムを抗事実的に安定させる機能を有するということがわかる (:31)。こうした差異をふまえることで心的システムの内的な在り方とは分離した社会システムというものを想定することができるのであり、この関連において心理学と社会学の分離を確認することもできる (:32)。

 ルーマンはヨハン・ガルトゥングの提案にならい、「学ぶ用意をしつつ予期された予期を認知的予期」、「学ぶつもりなしに予期された予期を規範的予期」とする (:32)。基本的に、この二つの予期が完全に分離されていることは少ないが、複雑な社会においてはその分離が制度化されうる (:33-34)。例えば、規範的予期を後見する裁判官は予期外れの事例のために設けられており、科学研究は予期外れから学習するために存在している。このような分離の進行が、法と科学といった分野において、それぞれの分野内での内的な整合性を要求するのであり、両者の間の整合性は分野の分離が進むにつれて破棄されることとなる (:35) *1

 ここまでくれば、次のようにいうことができるだろう。「規範とは抗事実的に安定化された予期である」(:35)。そして、規範に対する予期外れには、〔学ぶという形で予期を放棄するのではなく〕「予期外れを〔例外として〕説明すること」、ならびに「サンクション 〔制裁を行うこと〕」による予期の保持が試みられる (:36)。また、こうした予期の保持に際しては、行為を予期から切り離して特定の原因に帰属させることが行われることとなる。その原因と戦えば期待した行動が行われるのであり、自身の予期は貫徹されるはずなのだといったように *2。なお、現実においては予期外れに対する多様な反応方法が存在する。予期外れの場面において重要なのは、「予期を固持する」こと、自身の予期を他者へと伝えることであり 〔私が、遅刻をしてきた友人に対して怒っているということを、その友人に伝えることであり〕、それを為せば予期は安定しうる (:38)。

 しかし、このように個々人の予期地平という視点から規範というものを分析してみたうえで、次のことが問題として浮上する。規範と規範のコンフリクトに対しては、どのような対処が為される (べき) なのか。誰もが無数の規範投企を為すチャンスを有しているなかで、例えば「~すべきだ」という主張と「~すべきだ」という主張の衝突は、どのようにして調整されることになるのか (:39-40) *3

 このときに、「~すべきだ!」という主張を繰り返してみても、互いのズレを調整する (社会次元における問題を解決する) ことはできない。ここで社会次元における問題を解決しうるメカニズムとして目を向けるべきなのが、「行動予期の制度化」である (:41)。制度化は、コンセンサスの倹約という機能を持つ 〔いちいちコンセンサスの存在を確認せずとも、それが存在しているであろうことを先取りして予期しておくことができる〕。〔コンセンサスをいちいち形成しながらコミュニケーションを行うなどというのは不可能なのであり、むしろ、〕 コンセンサスを倹約することで、共通のテーマを選択し有意味にコミュニケーションを行うことが可能となるのである (:42) *4。また、それに疑問を呈することには相応のリスクがあり 〔ほかのやり方=代替選択肢があるということを説明しなければならなかったりするのであり、それにはかなり大きな負担がかかるため〕、それゆえに予期は安定化されることとなる (:43)。

 こうした予期は、例えば慣習・習俗・風習・習慣などと呼ばれてきた *5。そこでは予期外れの事態への対処法はとくにあらかじめ用意されているわけではなく、逸脱者は例えば「相応の烙印」を押されてしまうこととなる (:45)。

 しかし、より予期外れの事態に直面しやすい高度な社会においては、予期が「はずれた場合でも堅固であること」が保障されなければならない (:45)。そうした蓋然性の低い事態は、いかにして保障されうるのだろうか。そのための仕組みを司法分野の発達に見出すことができる *6。ここでは、制度化するメカニズム (社会次元における予期の問題を緩和するメカニズム) と規範化するメカニズム (時間次元において予期を安定化させるメカニズム) を分離して理解をする必要があるだろう。例えば、制度化された裁判において、裁判官は制度化された言葉を用いて判決を述べる。このような制度があることによって、裁判当事者にはその言葉に従う必要が生まれ 〔敗訴した側の予期が棄却されることで社会次元の問題が緩和され〕、判決は規範となり、〔「〇〇という行動をとってはいけない」といった〕 予期を 〔抗時間的に〕 安定化させることができるのである (:46)。また、裁判はその手続きに至るまで制度化されることで、そうした手続き 〔すなわち「〇〇の順番で行うべきだ」という規範〕 自体が疑われてしまうリスクからも脱することとなる (:47)。

 このように分出された司法においては、予期外れへの説明は「個人の責任=罪」という形で為される (:48)。また、予期外れの除去という点においても変化が生じる。裁判における予期外れとは敗訴であり、敗訴した者は、手続き上敗訴を受け入れて予期を変更するべきであるとされる。また、裁判の手続きの過程において裁判官は「規範的な争い」を「認知的な食い違い」へと変化させる (:49)。裁判の手続きは係争関与者に対しても認知的なスタイルで行動するように求めるのであり、その点でコンフリクト解決のメカニズムとして役立つのである (:49)。

 しかし、〔実は〕敗訴した者が学習をするのは難しい 〔予期に反して学ぶことを、規範的に求められるのだから〕 *7。ここからやがて、予期外れから学ぶことと、規範的な予期を保持することが分離することとなる。前者が法に則った訴訟の場面であり、後者は「法の実定化」という形で実現される (:50)。ただし、規範的予期が実定化される領域は極めて限られており、それ以外の領域においてはほとんど「自然法」といって良いような規範的予期が存在している (:51) *8




コメント

社会学初学者にも魅力的な観察視点の一つとして

 「相互行為はなぜ混乱に陥らないのか」という問いに対して「そこには予期があるからだ」と答えるのはそれほど奇異なことではない。本論文の面白さは、ここで導入される〈認知的予期 / 規範的予期〉という区別、それがもたらす観察の見通しの良さ、そして相互作用における規範の働きから法の進化を説明するルーマンの手際の大胆さにある。こうした鮮やかさ・大胆さは、(論文の難解さに反して) 社会学の初学者などにも魅力的なものと映りえるであろう。

 例えば、見通しの良さに関しては次のような素朴な議論を、日常の経験に即して行うことができる。逸脱・マナー違反はどのように観察されるのか (なぜ我々はある行為を不快なものとして観察し、他者に行為の修正を求めたくなるのか)。また、それに対して人はどのような反応をするのか (マナー違反はどう処理されるのか)。あるいは、認知的に予期されているものと規範的に予期されているものの例を挙げ、その予期が人々の行為や制度にどういった影響を与えているのかを検討するのも良いだろう (例えば、組織において求められる「女性らしさ」「男性らしさ」というものは、どのような種類の予期なのか。それは組織内の相互行為や組織運営にどういった影響を与えているのか)。また、規範コンフリクトはどのような場面で、どのような予期の食い違いから発生するのかを考えてみても良い。いずれも、具体的な相互行為に焦点を当てて、そこから規範や制度を分析していくという点において、優れて社会学的な観察視点であるといえよう。ゼミなどの場でこれらの検討を一つ一つ積み重ねていくだけでも、社会学的なものの見方が養われうるのではないかと思う。

 そして、鮮やかさや大胆さという面でいえば、〈認知的予期/規範的予期〉という観察視点は、異なるものの比較を可能とし、様々な対象を議論の俎上に載せることを可能にしてくれるという点において非常に優れている。例えば、法・科学・教育・医療現場・儀式・マナーといった諸々の事柄を取り上げ、それぞれの場でどのような予期に基づいた相互行為が行われているかを分析し、対象間の相違を比較していくことができるかもしれない。このように多様な対象へと話を広げていくことができるという点でも、本論文はやはり魅力的である。


〇 具体的には、どのような観察に役立ちうるのか。

 では、本論文の内容を活用しうる領域・研究プログラムにはどのようなものがありえるだろうか。以下雑多な思いつきをまとめておく。

① 異なる予期を抱く、異なる領域が出会う場では何が起きるか

 科学と法がそうであったように、領域が異なれば抱く予期の性質も異なると予想できる。それならば、同じ対象を前にして異なる領域同士が出会う場面では何が起きるだろうか。

 例えば教育と医療というものを考えてみよう。教育は、もとより認知と規範との間で揺れやすい営みである。他者に対して「〇〇すべきだ」と教え込まねばならないが、そう教える教師自身にも、機会を捉えて学ぶ用意がなくてはならない (「生徒の様子を見て~~生徒にあった教育を~~」などと言われるように)。そこに異なる予期を抱く他領域が介入してくると、さらに話が複雑になるだろう。例えば、発達障害児への支援を通じて、医療分野が教育に関わることがある。医療とは基本的に認知的な予期を抱く領域である (患者にあわせて対処する) ため、生徒に対する教育側からの予期と医療側からの予期は、重なったりズレたりすることになろう。そして、ときおりそのズレから、「生徒は規範的に〇〇すべきだ」といった意見と「生徒にあわせて認知的に××を」といった意見のぶつかり合いが発生する。

 私の見てきた限りでは、これらのコンフリクトが有意義なものに発展したことはあまりない。多くの場合互いに「あいつらは何もわかってない」という感想を抱いて終わることになる *9。しかし、このコンフリクトを予期のズレから細かく整理しなおせば、何か糸口は見つかるかもしれない。発言を記録していき、それぞれの発言がどのような予期にもとづいていて、どこでずれてしまうのかを明らかにしておくことは有用であろう。

 また、場合によってはそうしたコンフリクトが上手く解消された場面に立ち会うこともあるかもしれない。そのときには、当事者たちがコンフリクトをどのように解消したのかを分析しておくことが有益であろう。それに加えて、そうした場面においてはなんらかの形で領域を橋渡しするような概念が形成されてくることも予想できる (例えば、「生徒の困り感」といった特殊な概念など)。そうした概念の形成場面に目を向けて事態を記述すると、より実りのある記述になるかもしれない。

② 認知と規範を切り替えることで、何が可能になっているのか

 本論文においてルーマンは、司法は規範コンフリクトを認知の問題に変換することを通じて、コンフリクトを解決可能なものに変化させていると論じている。こうした営みが、司法ほど明確に制度化されていない場面ではどう行われているのか。また、そのことで何が可能になっているのだろうか。

③「ふさわしい行動」の学習

 予期という視点を踏まえると、「ある人物になる (あるアイデンティティを帯びる)」ということは、「ある人物としてふさわしいと予期される行為を学び、そうした予期の予期を行えるようになること」を意味する。

 例えば、「女性らしくしなさい!(女性らしい行動をしてほしい)」という規範的な予期を想定してみよう。教育において、女児の行為が「女の子らしさ」という観点から観察され、「女の子らしくないから行動・好みを直しなさい」と行為の修正を求められたりする場面はあるかと思う (とくに保育園や幼稚園などで、しばしば無反省にそういった働きかけがなされる。「女の子だったらピンクだよね。青は女の子らしくないよ」といったように)。そういった、「ふさわしい行動」というものが作り出される場面、あるいは相互行為のなかで絶妙に規範と認知の関係がずらされたりする場面に注意を向けて観察することで、「ある性質をもった人物になる」ということがどのように行われているのか (それがどのように可能となっているのか) を記述することができるかもしれない。

④ EMに関わるところでは

 また、ある会話において、例えば「男性 / 女性」「日本人 / 外国人」といったカテゴリーが明示的に参照されていなくても、参与者がそのカテゴリーに則り会話をしていると理解可能なときがある。その理解可能性を部分的にせよ支えているのが、各カテゴリーと結びついた予期の存在であろう。特定のカテゴリーは特定の話題について優先的に語ることが先立って (ある種規範的に) 予期されており (例えば、「外国人」は「不慣れで困ること」について語ることがあらかじめ予期されており[西阪,1997])、そのような予期のうえで会話が成立しているからこそ、我々はある会話において当事者が自身をどういったカテゴリーに位置づけているかを観察し、その在り方を理解できるのである。

 ここで、EMの論展開の一部を一般化してみたい。EMには、「こうであっても良いはずだ」けれども「この場面ではそうなっていない」という形で、可能性の領域 (≒比較の領域) を作り出しながら論を展開していくことが、それなりにある (この会話において、この人は自身を「男」や「社会学者」としても提示しうる。それにも関わらず、この人は「父親」というカテゴリーを用いて / それに即して会話を行っている、といったように)。そのように特定の行為を非蓋然的なものとして観察しなおすことで、研究者は「参与者の指向」とも呼べるものを相互作用場面から抽出していくのである。

 このように考えてみると、「こうでもありえた」という可能性の領域を適度に作り出すためにはどうすれば良いだろうか、といったことはEMにとってそれなりの関心毎になりえるかもしれない。そして、「認知的 / 規範的」といった区別は、「学ばない可能性もあったのに / 学ぶ可能性もあったのに」という形で互いに排他的な関係にあるため、そうした領域を見つけ出しやすい。このことを踏まえたうえで、「認知的 / 規範的」という区別がどこまで具体的な事例の記述において有用性を持つかを考えてみても良いかと思う (さすがに「中範囲」であるとは言い難いであろうが、この区別を用いることでどういった側面に注目することができるかは考えてみても良い)。




〈参考文献〉

西阪仰 1997 『相互行為分析という視点』 金子書房.
ルーマン 1977 『法社会学』(訳・村上淳一,六本佳平) 岩波書店.
ルーマン 2015 『社会の道徳』(訳・馬場靖雄) 勁草書房.





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*1:このような発想に基づき、ルーマンは概念の歴史と機能分化の歴史を結びつけている。

*2: 例えば、「人とコミュニケーションをとらない今時の若者は、マナーをぜんぜん守ることができない!」というとき。話者は「マナーを守って〇〇をすべきだ」という予期の妥当性を疑っておらず、「若者」という原因さえ改善できれば自身の予期は貫徹されるはずだと想定している。犯罪についても同様で、基本的には「犯人」に行為の原因があると考えられたうえで、その原因に対するサンクションが講じられる。

*3:こうした、「ある人の規範が他の人の予期外れと化す」事態は (これは互いにとっての予期外れであるので)「二重の予期外れ」と名付けられている (:40)。

*4:P.42で「最初は誰もが自由を拒絶しなければならない」とあるが、これはもしかすると誤訳かもしれない。ドイツ語を読めないのでとりあえず『法社会学』と照らし合わせてみると、そちらでは「当初は誰もがこれ[受け入れられている状況]に異議を唱える自由をもっている」(:78) とある。この内容であれば、文意を理解することできるだろう。ややずれるかもしれないが、職場での会議を想像してほしい。会議を始めたばかりの段階では、誰もがその会議や議題の前提に口を出すことができる。しかし、テーマが選択されて議論が始まると、前提を無視して全く違う話をし始めることは困難になる。少なくとも前提となったものをすべて拒絶することなどできなくなり、またその場に関与するのであればそれは前提を受け入れたのだ理解されてしまうだろう。

*5:これらが多くの人々に共有されていることで、状況や相手が変わってもスムーズに対処をすることが可能になっている (『法社会学』:78)。相手が変わるたびにいちいちコンセンサスが必要だったら、一体どれほど大変だろうか。

*6:そもそもたいていの人は自身の利害が関わらない係争に興味を持たないため、「中立的な立場から争いを裁く役割」を担う人を探すのは困難である (『法社会学』:77)。その点で、「裁判官」の登場は特殊な (蓋然性の低い) 進化であったといえよう。

*7: P.50の「学ぶ / 学ばない」という話でルーマンが想定しているのは、おそらく法というものが十分な形で成立していない社会における裁判のことであろう。法がないなかで「お前は負けたのだから学べ」と言われてもなかなか納得はできない。  「学びにくい」ことと法の関係の例として、(話はずれるが、) 違法行為によって国民から非難を受けた政治家が、「その行為には問題がなかったと思うが、国民を誤解させるようなことをやってしまい申し訳ない」と説明するときのことを考えてみよう。ここにおいて政治家は、国民の非難から何も学んではいない。また、問題 (の発端) を自身の行為そのものではなくて、「誤解した側」へと押し付けている。しかし、彼がそのように何も学んでいなくても、司法によってその行為が違法だと判定された場合、政治家はその判決に従わざるを得ない。そのように判決に従うことが期待できるのは、法 (すなわち規範的予期) が予期外れに先立って制定されているためである。

*8:ここで展開されているのは、「自然法」を基礎にして「実定法」が生まれてきたという論ではない。規範的予期に「実定法 / 自然法」という区別 (のちのルーマンの言葉を使えば、おそらくは「マークされる / マークされない」といっても良いような区別) を導入しているのである。

*9:さらにいえば、教育という営みが認知的予期と規範的予期の両方にまたがっていることが、問題を解決不可能にしている側面がある。教師は、他領域から「生徒の様子を見て〇〇してください」と言われたときに、しばしば「そうはいっても規範的に〇〇させないといけない」と返すことで、(実際には自分たちも認知的な側面を持っているにも関わらず) 子どもに対する語りの優先権を確保しようとしてしまう。「あなたたちは教育とは違うルールに則っているのだから、こちらに口を出すな」というように。教師は、認知的側面と規範的側面をその時どきにスイッチすることで、自身の領域を確保し発言の優先権を獲得するとともに、他領域からの援助を拒んでしまえるのだ。