世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

中国史における都の変遷と、グローバル・ヒストリーのなかの中国 ②

2. 中国史の枠組みを問う ― 妹尾達彦の歴史観変遷とグローバル・ヒストリー —

2.1 内在的変化論と外在的変化論

 最初に、本稿の主な参考文献を紹介しておこう。本稿は、『岩波講座 世界歴史9 中華の分裂と再生』に収録された、妹尾(せお)達彦「構造と展開 中華の分裂と再生」(妹尾,1999) に多くを拠る。とくに、妹尾は当該論文の2節にて「中国の都の立地パターン」を論じており、この内容が本稿の元になっている。

 さて、この論文は、3世紀から13世紀の東アジア史を、中国の分裂・再生・変容過程を追うことで描き出すものであるのだが、その描き出し方に一つの特徴がある。これこそが我々を先に挙げた問い (歴史を見る枠組みへの問い) へと迷い込ませるものであるため、少し詳しく見ておこう。





 妹尾は、中国史を論じる前に、従来の歴史研究が二つの思想に囚われてきたことを確認する。一つは「一つの社会集団ないし共同体が、外部の影響を受けることなく、内発的に変化するという内在的変化論」であり、もう一つが「社会変化における外部の影響を重視する外在的変化論」である (妹尾,前掲:6)。これら二つの立ち位置をふまえた上で、彼は自身の立場を打ち出すのである。

 突然、「内在的」「外在的」などと言われても、あまりピンと来ないかもしれない。そこで、少し身近な例から考えてみよう。例えば、「『日本』にはかねてより優れた素質が存在し、それが『日本』の近代へとつながった」と論じるとき、その論者は内在的変化論に立っていることになる。妹尾自身はこうした内在的発展論の例として、マルクス主義唯物史観のほか、後期水戸学の天皇論を挙げている。後期水戸学と言われてもやはりピンとこないかもしれないので、試しに、後期水戸学から影響を受けて「国体」概念を大きく打ち出した、文部省「國體の本義」(1937年) を見てみよう *1。「國體の本義」では、「西洋近代思想 (啓蒙思想)」が強く批判されたうえで、国史における諸事象は「國體の顕現」であるとして説明されている (第2章)。では、その国体とは何かといえば、それは「萬世一系の天皇皇祖」が永遠に統治するものであり (第1章)、要は “古代から続く” 天皇制こそが、国史、そして近代以降の日本の発展までもを形作ってきたとするのである。ここにおいて重要なのは、「國體の本義」において、内在的変化論が国民国家を支えるナショナリズムをより強固なものとするために採用されていたということであろう。とくに非ヨーロッパ圏において、内在的変化論は、ときに外部の影響を批判し、ときに外部の侵略に抵抗するための論理として採用されてきたのである。

 そして、もう一方の外在的変化論を日本の歴史記述に当てはめるならば、それは (『國體の本義』とは逆に) 西洋の思想や技術こそが日本の歴史を形作ってきたのだという歴史観になろう。それはどこかで西洋近代を普遍のものとみなす近代化論とも結びついており、そうした西洋中心史観に対してどのような距離をとるかはそれ自体一つの重要なテーマとなってきた。例えば、文明開化を西洋思想・文化・技術の導入としてのみ捉えるとき、それは「遅れた日本が、進んだ西洋の諸要素を取り入れることで、ようやく発展できたのだ」という論につながりかねない。このとき、(内在的変化論とは逆に、) 日本という地域が有していたであろう独自性、この地域に特有の事情などは等閑視されかねないことになる。繰り返しになるが、このようにして見ると、「内在的」か「外在的」かという論点は (それぞれの地域においてその意味するところは異なるにせよ) 東アジア諸地域など非ヨーロッパ圏にとって、重要な意味を有していたことがわかる。

 さて、ここまでで内在的変化論・外在的変化論という枠組みを、「日本と近代化」を例にしながら確認してきたが、これらの枠組みはなにも近代以降の歴史においてのみ重要だというわけではない。長く「中華」という中心的位置を掲げてきた中国にとっては、この二つの見方は多くの場面で重要な意味を有していた *2妹尾は、内在的変化論・外在的変化論という枠組みを中国史に当てはめたとき、「内在的変化論は、秦漢王朝以来の中国の古典文化の連続性を主張する正統論や漢化論 (非漢族の文化は最終的に館族の伝統文化に吸収されるとする論)」となり、「外在的変化論は、五胡十六国時代以来の非漢人・遊牧系政権の影響を強調する論」となると説明する。前者はすでに11世紀の司馬光編『資治通鑑』に表れており、後者は中央ユーラシア史研究からの視角として力を持ってきたものである (妹尾,1999:6)。

 そして、中国史を縛る枠組みをこのようにまとめたうえで妹尾は、外在的変化論と内在的変化論とを折衷し、「複数の社会集団の接触による新しい文化の生成に重きをおいて論じる立場」に立つと宣言するのである。

2.2 内中国と外中国

 では、そのような立場はどのようにして可能になるのか。ここで妹尾が採用するのが、内中国と外中国という区別である (妹尾,1999:8-9)。妹尾によれば、清朝の統治空間は、「行政区画 (中国本部と藩部・満洲) や自然地理、種族・言語分布、風俗慣習、歴史などの相違によって、内中国 Inner China (中国本土 China Proper) と外中国 Outer China (中国外部 Outside of China Proper) の二つに大別できる」。おおよそ、内中国には漢人が集住し、外中国には非漢人が集住していると考えて良い。さらに、「内中国は、主に水系と集水域に基づき、(…) 八地域に区分でき、外中国は、主な種族の居住分布によって、四地域に区分できる」。これを概念図としたのが、下のものである (〔妹尾,1998:9〕より引用)。 後に見ていくが、中国の都の立地パターンは、この「内中国 / 外中国」の差異から大きな影響を受けていた。

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内中国・外中国の概念図 (〔妹尾,1998:9〕より引用)


 さて、どのようにしてこの区別は、内在的変化論と外在的変化論を止揚することに貢献するのだろうか。「内中国 / 外中国」を区別することは、その境界地域を可視化し、そこを際立たせることにつながる。例えば、長安は古くから中国の都とされてきたため、一般に、中国史前期における中心的な都というイメージを抱かれがちである。しかし、「内中国 / 外中国」の区別を意識してみると、長安は内中国の中心ではなく、内中国と外中国の境域付近に位置していることに目が行くようになる。また、中国史後期において中心的都であった北京も、まさに内外の境域に存在しており、その長安との共通点が目に入るようになろう。妹尾によれば、「中国の長い歴史の中で、長安と北京が最も長期にわたって都であり続けた根本的な理由は、両都市が内中国と外中国の境界領域に立地するために、都の機能として不可欠の内中国の統治と外中国との外交の政治機能を合わせ持つことができたからである」という (妹尾,1999:13)。

 ここにおいて重要なのは、中国史における「都」というものが、必ずしも中国という地域の中心から内発的に生まれたものでもなく、さりとて外発的にのみ形成されたわけでもなく、内中国に居住する漢人と、外中国に居住する非漢人という二つの社会集団、その接触する場所において形成されたものであったということであろう。このように「境界」と「接触」を重視する視野のもとで、妹尾は「内在的変化論 / 外在的変化論」という二つの立場からの離脱を試みるのである。

2.3 農耕・遊牧境界地帯

 ここまでで、妹尾が「内在的変化論」と「外在的変化論」、すなわち「古典文化や漢族が有していた発展の芽が、脈々と中国史に受け継がれてきた」という見方と、「非漢人・遊牧系政権が中国史に大きな影響を与えてきた」という見方を止揚するために、内中国と外中国という区別を導入し、その境界と接触に焦点をあわせることで、両地域の相互作用関係から中国という地域の形成を捉えようとしたことを確認した。こうした妹尾の論は、中国史における漢族・正統文化の影響、非漢人・遊牧系政権の影響の双方を等閑視しないという点で、重要なものであるといえよう。

 しかし、「内中国/外中国」という見方にも限界はある。それらは、あくまで (内中国/外中国という形で) 中国という地域に囚われ、その発展を中心のテーマとして据え続ける点で、なお (いうなれば) 中国大陸中心史観的な見方を残している。例えば、特定地域を中心化せず、諸地域間の相互作用に注目しながら歴史を描く視点 (後に触れる「グローバル・ヒストリー」とも呼ばれる視点) から見れば、その限界は明らかであろう。「グローバル・ヒストリー」の視点から見れば、中国という地域、その諸都市は、複数のネットワーク上に表れる結節点、諸アクターが出会い交流する大きな結び目の一つでしかない。この視点上では、「中国」という地域は中心ではなく、あくまで世界中に広がる網の目に位置づけられた、一つの地点として捉えられるのである。

 もちろん、「中国」を中心にすえ、その地域および周辺における諸民族・王朝の盛衰を描く見方が必ずしも悪いわけではない。しかし、「内中国/外中国」という区別を提示した当の妹尾本人は、その後そうした見方から離脱し、「世界史をどのように捉え、そこに中国史をどう位置付けるか」という問題へと取り組むようになっていった。彼は、自身の研究フィールドである「中国」というもの、それを位置づける枠組みの再検討へと歩みを進めたのである。以下では、その後、妹尾がどのように論を展開・発展していったのかを確認していこう。

 妹尾は、後に「内中国 / 外中国」という区別を発展させて、農牧境界地帯という概念を練り上げている (妹尾,2018:34-40)。農牧境界地帯とは、名前の通り、農業と遊牧の特色が混ざり合った地帯のことを指し、具体的には年平均降水量が250mm~500mm、ユーラシア大陸ではおおよそ北緯40°~50°に位置する(下図は〔妹尾,2018:41〕より引用)。この地域には家畜の飼養と農耕をともに行う農牧民が多く生活しており、こうした二つの特色がまじりあう環境のなかで、諸集団同士の交易・衝突・交流が盛んに行われた。こと遊牧民族と農耕民族の関係性が歴史を大きく左右してきた中国史においては、この地域は軍事・財政上の要地として大きな意味を持った

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大陸東部における農牧境界地帯 (〔妹尾,2018:41〕より引用)


 しかし、「農耕民族と遊牧民族がまじりあう地帯が重要だ」というだけなら、「内中国 / 外中国」の区別を用いて、両地域の相互作用を描けばよいということになってしまう。農牧境界地帯という概念において重要なのは、その概念の適用先が中国史のみに限られないという点だ。農牧境界地帯があるのは、なにも中国だけではない。例えばケッペン気候区分などに基づけば、それはおおよそユーラシア大陸の同緯度上に、長く延びていることになる (もちろん、季節風などの影響を受けるため、そう簡単な話ではないのだが。下図は〔妹尾,2018:26〕より引用) *3。そして、中国にとって農牧境界地帯が要地であったのと同様に、中国以外の地域にとっても、そこは二つの文化が混ざり合う地域として非常に大きな価値を有していた。このことは、前1000年紀の農牧境界地帯上に、北京・長安成都・大理・ラサ・サマルカンド・ヘラート・タブリーズイスタンブールキエフといった中核都市が、数珠繋ぎ上に存在していたことからも見て取れよう。妹尾は、こうした視点の下でユーラシア大陸全体を捉え、中国史ユーラシア大陸全体の歴史に位置づけていくのである。なお、妹尾が提唱したこの農牧境界地帯という概念は、近年、中央ユーラシア史や中国史にかかわる研究者のあいだで受け入れられ、重要性が広く認識されているという (古松,2020:13) *4

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アフロ・ユーラシア大陸の生業 (〔妹尾,2018:26〕より引用)




2.4 境界都市とその移動

 もう少し、妹尾の論を確認しておこう。なぜ、農牧境界地帯のような、二つの文化の境目が要地となり、そこに中核都市が成立するのか。第一に、環境の境域は、「異なる生業を持つ政治勢力が衝突・折衝して、異なる産物や情報が交換される最前線となるから」である (前掲:14)。また、第二にそこは家畜の移動が制限される地帯であり、移動者や物資が一度そこに留まらざるをえないという事情もあろう。ラクダや馬は湿潤地に弱く、牛は乾燥地で生きることができない。したがって、家畜は環境の境域において荷を下ろさざるをえず、そこでは必然的に交易・交流の場が生まれることになる (前掲:32)。そして、そこから第三に、異なる政治勢力・共同体同士を結びつける地点としての都市 (境界都市) が成立してくる

 こうして生まれた境界都市は、必然的に複数の機能を集約するようになる。というのも、境界地域は、平時においては複数の共同体をつなぐ経済の要地となるが、戦時においては複数共同体同士が衝突する軍事上の要となるためである。また、複数の共同体を統括する関係上、行政機能も突出することになろう。こうして、境界都市は、経済・軍事・行政などの機能を集約した中核都市へと発展していくことになる。

 さて、ここまでは主に農牧境界地帯へと注目してきた。しかし、境界は何も内陸に限られたものではない。沿海地域もまた、異なる共同体との玄関口になりやすく、主要な都市が成立しやすい領域であろう。例えば16世紀以降のユーラシア大陸を見てみると、沿海地域には、北京・南京・杭州・寧波・福州・泉州・広州・ハノイバンコクコルカタ・ゴア・ムンバイ・ホルムズなどといった都市が、帯状につながって成立している。そして、妹尾によれば、ユーラシア大陸の歴史は、その中核地が農牧境界地域からこうした沿海地域へと徐々に移動していくものとして捉えられるという。例えば、中国大陸においてその拠点都市が長安から北京へと移動したように、16世紀前後にかけて、ユーラシア大陸の主要都市は徐々に沿海地域へと移動を進めていた。妹尾は、こうした大きな変化のなかに中国史を位置づけ、理解しようとするのである *5

2.5 グローバル・ヒストリー

 ここまでで、妹尾が境界域に注目し、その視点を活かしながらユーラシア大陸の歴史を捉えようとしたこと、またそうした視点の下では、ユーラシア大陸の歴史は、中核地が農牧境界地帯から沿海地帯へと移動していく過程として見ることができるということを確認した。もう少し細かい内容は次節にて見ていくが、ここでは節のまとめとして、妹尾の提供するこのような視座が、どのような認識利得を有しているかを確認しておこう。

 2.2において、我々は「内中国 / 外中国」という区別が、なお中国大陸中心的なものであることを確認してきた。では、そもそも「中国」を中心に歴史を描くことには、どのような限界があるのだろうか。まず考えられるのは、「中国」というナショナルな枠組みを中心に歴史を記述していくと、中央ユーラシアなどがその「周縁」として位置づけられてしまうということだ。そして、中央ユーラシアを周縁として位置づける枠組みにおいては、東部ユーラシア (中国) と西部ユーラシア (西欧) を一体のものとして捉える視座が薄くなる。なぜなら、どちらにとっても中央ユーラシアはその周縁でしかなく、そのことによって東西をつなぐ中央部の存在が希薄になってしまうためだ。もちろん、文字資料が東西部に偏って存在していたため *6歴史学の関心が東西に集中してきたという事情はあろう。だが、中央ユーラシアの騎馬遊牧民が歴史上果たした役割を過小評価して良いということにはなるまい。そして、むしろ遊牧民族の暮らす地域を積極的に記述に組み込むことで、東部・西部に起こった変化も理解しやすくなるのではないか。そのような考えのもとで、妹尾はユーラシア大陸を一体のもとして捉え、大きな視点から歴史を記述していくのである。

 このようにして、妹尾は東部・西部・中央のユーラシアを、個々別々のものではなく、連結し相互作用するネットワークとして捉えていく。また、境界地域そのものに注目する妹尾の論は、ある地域を中心化せず、内在的変化論と外在的変化論という二分法的な発展観にも依存しない。妹尾は自身のこの歴史観を、「グローバル・ヒストリー」と呼んだ

 近年、グローバル・ヒストリーの重要性が説かれて久しい *7。その是非についてここで論じる余裕はないが、中国史をそのような巨視的視点の下で捉えなおすことには (研究上新たな視座を探ることが有用であるということはもちろん、) 世界史教育の場においても、一定の意義があるといえよう。本稿冒頭で述べたように、中国史という分野は包括的な理解につながりにくいきらいがある。多数の人物名、入り混じる民族、次々登場する政治制度、そして文化史……一つ一つの要素を有意味につなげて理解する余裕がないまま、大量の単語が押し寄せてくる。そうしたなかで、西部ユーラシアと東部ユーラシアをつなぐグローバル・ヒストリーの視座は、西洋と東洋の相違や関係性をより見やすくすることに貢献してくれるだろう。ユーラシア大陸全体の歴史を一つのものとして捉えることで、意味づけが明瞭になる知識もあるのではないかと思う。本稿では残念ながら大陸中央部と東部の内容しか追うことはできないが、この視座から東西を見たときに何が見えてくるのかは、考える価値のあるテーマだ。

 ただし、(どのような視点にも盲点があるように) この視座を採用することで見えにくくなるものもある。そこには注意が必要だろう。例えば、境界域に注目する妹尾の論は、どうしても中国大陸内部の事情を等閑視しやすい傾向にある。『グローバル・ヒストリー』(妹尾,2020) においても、農牧の関係性が歴史を動かした事例には多く触れられる一方で、中国大陸内部で起きた内紛やそれによる政権交代などにはほとんど触れられていない。もちろん、それに触れることは『グローバル・ヒストリー』という著書の目的ではないので、そうしたものが記述されていないからといって妹尾の論が不十分であるということにはならない。しかし、世界史教育の文脈で見る場合には、この視点のみに頼りすぎると抜け落ちてしまう要素があるということには十分注意したほうが良い *8。それをふまえて、我々も以下では適宜妹尾の論を補いながら、中国史を記述していきたいと考えている。





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参考文献

妹尾達彦 1998 「唐代長安城与関中平野的生態環境変遷」(in 史念海編『漢唐長安与黄土高原』,陝西
師範大学中国歴史地理研究所).
———— 1999 「構造と展開 中華の分裂と再生」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史9 中華の
分裂と再生』,岩波書店).
———— 2018 『グローバル・ヒストリー』 中央大学出版部.

木下康彦・木村靖二・吉田寅編 2008 『詳説 世界史研究』 山川出版社.

礪波護・武田幸男 2008 『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社.

成田龍一・長谷川貴彦編 2020 『〈世界史〉をいかに語るか グローバル時代の歴史像』 岩波書店.

古松崇志 2020 『シリーズ中国の歴史3 草原の制覇 大モンゴルまで』 岩波新書.

ブリタニカ国際大百科事典






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*1:一応、辞書的に解説すると、水戸学と「国体」概念との間には以下のような関係がある。「[国体とは、]一般的には国柄や国風を意味し,この用例は漢籍や古代日本にもみられる。しかし中国や西洋に対して日本の優越を示す根拠として,国生み神話に基づく天皇の神聖性とその君臨の持続性を内容とする意味で用いられるのは,19世紀以降水戸学に始る」(ブリタニカ国際大百科事典「国体」)。  なお、「國體の本義」はかつての報告 (「日本の近代と法意識 ― 青木人志『「大岡裁き」の法意識』(2005) から」[ https://history-and-sociology.hatenablog.com/entry/2020/05/14/213022?_ga=2.121856520.220540243.1615702181-1034023363.1580971954 ]) でも扱ったので、詳しくはそちらを参照してほしい。

*2:もう少し深く考えると、中国史研究に対するマルクス主義の影響や、中国という国家のなかで形成されてきた近代歴史学の特徴なども考慮しなければならないが、そこは本筋とあまり関係ないため割愛する。

*3:妹尾は、ケッペン気候区分などをもとに、アフロ・ユーラシア大陸の同緯度地帯は、おおよそ類似した気候・文化・生業を持つとまとめている。北緯50°の狩猟採集地帯、北緯40°~50°の遊牧文化、北緯30°~40°の農牧複合文化、北緯20°~30°の農業文化といったように (前掲:28)。

*4:2019年以降に岩波新書から出版された『シリーズ 中国の歴史』でも、中央ユーラシア史を記述するにあたって、妹尾の農牧境界地帯概念が参照されている (古松,2020)。

*5:なお、妹尾は、北京とイスタンブールは農牧境界地域と沿海地域という2つの境界に位置していたため、前近代から近代にかけて中核都市であり続けることができたとしている (前掲:16)。

*6:中央ユーラシアの遊牧民が自らの言語で残した文字資料としては、突厥のビルゲ可汗時代につくられた碑文があり、これらが今のところ最古とされている (732年のキョル=テギン碑文など)[古松2020:43-44]。

*7:例えば、(成田・長谷川,2020) など。

*8:時折、一般書や学習参考書などで、「この視点で世界を見れば世界史のすべてがわかる!」みたいなものがある。しかし、そんな視点はありえない。巨視的視点に立てば微視的なものは見落とされがちになるし、微視的なものと巨視的なものをつなげる視点においても、巨視的なものにつながらない微視的なものの存在は見落とされがちになる。何かに注目すれば何かに注目しづらくなるのは必然であるため、分析視座を検討する際には、「どの視座が最も優れているか」を決めるのではなく、「この視座はここに注目できるが、ここを見落とす」といった整理を行うつもりで向き合うべきであろう。