世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

中央ユーラシア史から見るモンゴル ー「大帝国」の来歴と内実 ③

3. モンゴル帝国前夜 : 帝国システムの前身と、中央ユーラシアの多極化状況

 本章ではモンゴル帝国出現前夜までの中央ユーラシア史を見ていく。ここからは、① モンゴルが拡大した前史的要因であるユーラシア大陸多極化の様相と、② モンゴル帝国の支配システムの前身の形成を見ることができる。




3-1. 馬の家畜化から、スキタイの時代まで : 多元的地域連合という原像

 まず、前史も兼ねて中央ユーラシアの環境と人々の生業を確認しておこう。それは大きく分けるとやはり農耕と遊牧の2つになり、前者は乾燥農業、後者は乾燥した大地を有効活用するための遊牧という形式を採った (杉山,1997:21-28)。これらはいずれも、中央ユーラシアの環境に適用する生業であったといえるだろう。そもそも環境面を見ると、中央ユーラシアには高い山脈が多く存在しており、これがこの地域の気候を大きく決定づけている。こうした山脈は湿った空気をさえぎり乾燥をもたらしたため、中央ユーラシアの土地の多くは荒野、まさに水に乏しい “沙漠” となった。もちろん、山脈は雲や雪も生み出す。そのため、中央ユーラシアには、草原地帯と、伏流した雪解け水を元にしたオアシスも存在する。とはいえ、草原地帯やオアシスが形成された部分は一部であったため、この地域における生業は、少ないオアシスの活用や、広くはない草原を求めた移動という形式を採ることになる。特に、居住地を移動しながら家畜を育てる遊牧という形式は、広大な乾燥地を意味ある土地として利用するために編み出された、有効な手段だったのである (小松編,2000:6 下地図も同書7ページより引用) *1

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ユーラシア大陸地図 (小松編,2000:7より引用)


 さて、この2つの生業について、ここでやや先走って強調しておきたいことがある。遊牧民は、自給だけでは生活できない。彼らの財産は家畜群に限られ、生産物資も家畜から得られるものに限られていた。それゆえ彼らは、穀物や野菜、日用品などの物資を、ほぼ外部から入手する必要があった。そのような形で、彼らはオアシス等に定住する農耕民・商工民に依存していたのである。逆に、オアシス間の交易においては交通網の安全確保が不可欠であったため、農耕民・商工民もまた、遊牧民による軍事力の庇護を求めていた (古松,2020:7-8)。遊牧とは、こうした定住民との共生関係のうちに成り立つ生業であり、度々遊牧王朝が大陸の広域を覆ったのは、交易を庇護する軍事力が定住民にとっても有益であったことも大きい。農耕と遊牧という2つの生業について考えるうえでは、この関係を抑えておくことが重要となる。また、これを踏まえてみると、交易の中心が「海」に移っていくほど、遊牧民の重要性は低下していくことにもなろう。これが後におこる大きな変化 (港市の発達と内陸の忘却) の一因であったのかもしれない。そうしたことはともかく、遊牧民の広域支配はこうした相互依存関係に基づくということは、頭の片隅に置いておきたい。

 さて、こうした遊牧という形式がいつ誕生したのかは定かでない。しかし、一つの大きな契機として馬の家畜化があったと杉山は述べる (杉山,1997:31-34)。轡 (くつわ) や鐙 (あぶみ) が開発されたのは前15世紀ごろであり、内陸の草原世界が騎馬遊牧民の天地となるのが前10世紀前後からと見なされる。騎馬の登場は、遊牧民の移動エリアを拡大すると共に、その機動力と展開力を躍進させた *2やがて、前8世紀頃、世界史上最初の強力な遊牧国家、スキタイが現れる。彼らはあくまでさまざまな人種・生業の人びとからなる多元的地域連合であったが、最低限のまとまりを有し、緩やかに結合していたようである。そして、この「緩やかな結合」という形式は、その後の遊牧民族にも共通してみられる特徴であった。そのため、スキタイを遊牧国家の原像とみることもできる。

 なお、スキタイをはじめとする遊牧民族の連合体を、「民族主義」の感覚で捉えることは避けなければならない。人種・生業の多様性という点からはもちろん、そのアイデンティティの点でも彼らのあり方は「民族主義」のそれとは異なっていた。一方で「血統」を理由に氏族連合を形成することもあったが、他方で特定の目的に沿って連合を結成・離散することも往々にしてあったと見られ (杉山,1997:30)、それは「民族」という想像力に基づいて強固な一つの塊を (少なくとも理念の上では) 形成しようとする民族主義的思想とは、性質の異なるものであった。そして、同様に、遊牧民族の連合体を「国境を有する領域国家」のようなものとして想像することも避ける必要がある。移動を重視する彼らの支配は、「領域」のような面の支配ではなく、オアシス各地をおさえる点の支配に近いものであった。そのことは強調しておいて良い。もちろん、遊牧民以外の同時代勢力が「民族主義に沿って領域国家を形成していた」などと述べたいわけではない。そのような勢力は、この時代のどこにもいない (民族という概念が共有されていないのだから)。ただ、近現代の概念を無意識にこの時代へ持ち込むと、誤った理解を生むことになるということである。


3-2. 中華・草原を二分する漢・匈奴、そして匈奴における遊牧国家システムの完成

 さて、スキタイがヘロドトスの『歴史』(前5世紀頃) に記録された一方、東方では匈奴が、司馬遷の『史記』に名を残している (前1世紀頃)。『史記』は匈奴-漢戦争の渦中に編纂されたものであり、それゆえ匈奴についてはかなり詳しく記述された (杉山,1997:34-38)。こうした資料もあり、匈奴の動きや支配体制については比較的よく知ることができる。

 まず、前4世紀の末頃、東方草原で遊牧民の軍事化が進んだようだ。これは、中元の列国が北辺に長城を築いたことからもわかる。とくに秦による六国併合が為されると (221年)、秦は蒙恬を主将に北伐を展開し、匈奴集団を陰山の北側にまで退け、そこに新たな長城 (いわゆる万里の長城) を築いた。しかし、秦による中華統一はわずか11年で崩れる。そして今度は、この動きに反するかのように、同時期、草原世界で統合が達成された。匈奴の冒頓が、中華の混乱に乗じて周辺諸勢力を制圧し、史上初めてモンゴル高原を中心とする東方草原世界の政治統合を果たしたのである *3

 中華王朝を歴史の中心に置く中華王朝主義のなかには上手く位置づけられないが、この時代、ユーラシア大陸統合の主体は草原側に移ったようにも見える (杉山,1997:36-37)。そもそも冒頓が草原統合を終えたころの中華は、楚漢攻防を焦点とする内戦の最中にあり、匈奴に比するような力はなかった。やがて前200年に冒頓が南下し、内戦を終息させた漢との間で白登山の戦いを起こすが、これも匈奴の大勝利に終わる。この戦いをきっかけに漢は毎年巨額の貢物を匈奴におさめるようになり、皇族のむすめを単于 (匈奴国家の君主) に嫁がせてすらいた。要するに (見方によっては)、漢は匈奴の属国となっていたのである。この関係は、武帝が現れるまで60年近く続くことになった。

 ここで、匈奴の支配システムについて見ておこう。スキタイがオアシス諸都市を制圧し、貢納や税を課す見返りに軍事的庇護を与えたのと同様に、冒頓もタリム盆地方面のオアシス諸都市を制圧し、草原の軍事力とオアシスの経済を連結させた。また、匈奴は「単于出身氏族 (中核) — 有力氏族 (支配層・貴族層) — 異姓の王など各種部族集団」から成る垂直方向のヒエラルヒーと、「左賢王が治める左方 — 単于直轄の中央部 — 右賢王が治める右方」という水平方向の三分割体制を考案している。軍事組織としては、十進法を用いた体系的な組織化も行った *4。これらはいずれも後の遊牧国家に共通する基本構造となっており、スキタイに発祥した遊牧国家は、匈奴においてひとまずの完成を見たともいえよう。

 さて、以上のように合理的な支配体制を敷いた匈奴ではあったが、武帝時代の漢にオアシス地域を奪われると、たちまち弱りはててしまった (杉山,2017:49-50)。その後も漢と匈奴は60年ほど軍事衝突を重ねるが、決着がつかないまま共に疲弊していく。耐えきれなくなった両国は再び平和共存の道を探るも、ときは既に遅く、漢は一度滅び (紀元後8年)、匈奴も紀元後48年に南北へと分裂した。やがて後2世紀後半に入ると東方草原はますますの混乱期に入り、2世紀末には中華地域もまた分裂状態に陥る。結局、草原・中華の両地域は、3世紀を超えて長く大分裂の様相となってしまうのだった (2世紀末における黄巾の乱から、3世紀の三国時代西晋による50年程度の短い統一を経て、4世紀のいわゆる五胡十六国時代へ)。

 以上が、ユーラシア大陸東部における、農耕民と遊牧民の関係の端緒である。改めて、このように農耕・遊牧という視点からこの時代を見ていくと、中華と草原は互いの動きに呼応しあうような形で、共に歴史を歩んできたようにも見えてこよう。匈奴と漢は同時期に成立し、草原と中華を二分するようににらみ合った。両者は同時期に危機を向かえ、そして同時期に分裂状態へと陥る。ここには、不思議な対応関係がある

 さて、こうしたなか、4世紀に入ると、西方でフン族が姿を現した。彼らがゲルマン諸族を押し出す形で、いわゆる「ゲルマン諸族の大移動」が始まる。なお、フン族の起源を北匈奴であると推測する説が昔からあるが、これは現在においても未解決の問題となっているようだ (中央ユーラシアはそもそも混交が進みやすい地域であるため、集団の「起源」を求めるという試み自体に無理があるのかもしれない)。


3-3. 農牧融合国家としての拓跋国家 : 華北の「皇帝」でもあり、草原の「カガン」でもある君主

 続く時代へと話を戻そう。4世紀における華北の混乱を収束させたのは、鮮卑拓跋部の立てた北魏であった拓跋珪北魏皇帝として即位したのが398年のことである。彼は農牧境界地帯にあたる平城を都とし、遊牧部族集団を中核としながら、遊牧民に対しては部族制を、農耕民には郡県制を敷く二重統治を行った。

 農牧境界地帯についてまとめた先の記事でも触れたが、近年の研究によって、建国当初の北魏は遊牧王朝としての性格をこれまでの想定以上に色濃く残していたことがわかってきている (古松,2020:29-30)。例えば、北魏皇帝は遊牧民の風習を維持し、平城にずっと留まるのではなく、夏になると西方の陰山やオルドスに御幸するという季節移動を繰り返した。また、祭祀儀礼も祭壇の周りを馬で回るという祭天儀礼形式であったという (こうした鮮卑由来の遊牧系文化は、北魏の正史である『魏書』を編纂するさいに、意図的に削除された可能性が高いといわれている[古松,2020:29])。何より、北魏皇帝は自身を漢語の「皇帝」だけではなく、「カガン」と称していたことも明らかになっている。この称号が、後に触れる柔然突厥へと受け継がれ、モンゴル帝国の君主号カーン・カンへと変じた。こうして見ると北魏は、農耕・牧畜の両地域を、支配面でも文化面でもまたいだ勢力であったと見ることができる
 
 5世紀初めに柔然モンゴル高原を統一すると、北魏柔然と激しく対立することになる。この状況下において、北魏は防衛のため北方に六鎮を置いたのだが、これは後々思いもよらぬ形で機能することになった。5世紀末における柔然の弱体化に引きずられる形で、六鎮に送られた諸勢力の重要性が低下してしまったのである。5世紀末、柔然からテュルク系の高車が独立し、西方にエフタルが登場すると、草原地帯は三国鼎立の様相となった。そのなかで柔然が弱体化していくほど、防衛のために設けられた六鎮は存在意義を失っていく。さらに、孝文帝 (在467-499年) が洛陽に遷都して漢化政策を推し進めると、六鎮に移住させられていた有力豪族たちはますます冷遇されるようになった。その不満がたまりにたまり、ついに524年、六鎮の乱として噴出。南下した反乱勢力によって華北は大混乱に陥り、北魏はなんとかこの乱を鎮圧するも、内紛状態となり、535年に東西へと分裂してしまう (古松,2020:32-34)。北魏の失敗は、軍事を担う勢力を軽視し、漢化政策を通じて自身らの出自である遊牧部族の伝統を捨てようとしたところにあるといえるかもしれない

 さて、再び草原へと目を向けよう。6世紀半ば、アルタイ地方突厥と表記されるテュルク国家が出現すると、柔然・高車・エフタルを次々に打倒・吸収していった *5。彼らはアヴァール遊牧国家を東欧に追いやることで西北ユーラシア草原を手に入れ、東西の草原地帯をおさえる巨大な遊牧国家となる (杉山,1997:40-44) *6。カガンを中心に右翼・左翼を敷くゆるやかな政治連合体であった突厥は、国家草創より30年ほどで東西に分裂してしまったが、現在の中央ユーラシアにおけるテュルク系の広がりの契機となった勢力として、重要な意味を持つ *7

 一方の中華地方においては、いまだに拓跋集団が大きな力を有していた。彼らは北魏の末裔であり、それはすなわち遊牧民族の末裔でもある。拓跋は北魏から唐に至るまで継続して政権に影響を与え続けたので、北魏から北斉北周をへて隋・唐に至るまでの王室を、まとめて拓跋国家とも呼ぶ (ちなみに、北斉北周は実質的に東突厥の属国でもあった) *8。これらの国家は、唐代に至ってもなお、遊牧国家としての側面を一定程度保った。一見、唐と遊牧国家は無関係に思えるかもしれないが、618年に唐を建国した李淵も、当初は突厥に臣従した小可汗である (古松,2020:38)。また、第二代目皇帝の李世民は、630年に東突厥をおさえると、中央ユーラシアの族長たちから「テングリ・カガン (天可汗)」と称されている。これは唐の皇帝が (中華世界においては中華の皇帝として認識されると同時に) 遊牧世界からは中央ユーラシアの王者として認識されていたことを表していよう *9。唐が、華北に対しては農耕民向けの政治を行うと同時に、遊牧民族に対しては羈縻政策を採ったことも思い出しておきたい *10。このようにして見ると、唐と北魏の類似も目立つ (下地図は山川出版社『新世界史B 改訂版』:95)。

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隋唐時代のアジア (山川出版社『新世界史B 改訂版』:95)


 杉山は、隋唐の両国を農牧融合国家と見たうえで、この時期の中央ユーラシアを次のように評価している。

 視野をせまい意味での中国史や草原史に限ることなく、ユーラシア・サイズで眺めると、草原・農耕両世界をひっくるめた大変動のはてに、西陲のヨーロッパではゲルマン系の諸国家が形成され、東方の中華方面にあっては鮮卑拓跋系の政治連合体が政権を交代して、かつての匈奴でも漢でもない新しいタイプの融合国家をつくりあげた。隋唐という中華大帝国は、その完成体なのであった。(杉山,1997:42)



3-4. 中央ユーラシアの多極化状態 : 農牧融合国家という形式の一般化

 8世紀、草原の主力は東突厥からウイグル遊牧連合 (テュルク系を主体とする多種族複合国家) へと変わった。彼らは755年に唐で起こった安史の乱の鎮圧を助けた後、唐王朝を庇護下に置き *11、ユーラシア東方世界を威圧する (杉山,1997:44-45)。ソグド商人と結んだウイグルは、唐に馬を運び絹を持ち帰る「絹馬貿易」を繰り広げ、かなりの資金力をかねそなえる遊牧帝国に成長した。

 ちなみにウイグルは、遊牧民でありながら自らの都市を進んで建設した点でユニークであった (杉山,2011:308-309)。この都市城内にはおもにソグド商人などの定住民が入居し、肝心の支配者であるウイグル王族等は必要がない限り入城もしなかったというから、なんとも不思議だ。後にモンゴル帝国の首都となるカラ・コルムも大抵はこのように利用されたと考えられており、遊牧民らは都市の有用性を認めそれをつくったとしても、なお遊牧民族の伝統のなかに生きていたのである

 さて、9世紀に入ると、中央ユーラシアに激動の時代が訪れる。それはまず、モンゴル高原を襲う天災、それに起因する遊牧民の内乱から始まった。やがてその動揺はウイグルを揺るがし、840年に西北モンゴリアのキルギス連合がウイグル中核地域を急襲すると、ウイグル連合はあっけなく離散してしまう。ウイグル連合を形成していたテュルク系諸集団は徐々に西へと移動し、ユーラシア東方世界はある種の空白地帯となった。

 なお、テュルク系の西方移動は、中央ユーラシア広域のテュルク化をもたらすことになる。彼らは各地で多人種複合国家を形成し (甘州ウイグル・天山ウイグル)、より西方に移動した人々はカルルク勢力 *12 に吸収されつつカラ・ハン朝を形成した (杉山,1997:46-47)。この治世の下、彼らテュルク系集団はイスラームに改宗し、ここから天山一帯にイスラーム文化が華開くこととなる。こうして、「テュルク」と「イスラーム」 は結びついた (さすがに「イスラーム化」と「テュルク化」の詳細は省くが、例えば[小松,2000:第三章]などにまとまっている) *13。重要なのは、テュルク系の軍事権力と共に、遊牧国家のシステムがイスラーム中東世界に持ち込まれたことであると杉山は述べる (杉山,2011:319)。とくに中東の東半分の地域では、テュルク—モンゴル系の軍事権力による国家統合が進んだ。セルジューク朝サファヴィー朝の政治権力者は遊牧民の出身者となり、やはりテントにおける政治が国を動かすようになる。

 東方世界に視点を戻そう。ウイグルを討ったキルギスは、草原をまとめるだけの勢力にはならなかった。その結果、東方世界全域が政治混乱に陥る。果てには唐王朝も907年の黄巣の乱で止めを刺され、唐の国家システムに影響されて形成された新羅渤海南詔なども、10世紀のはじめに一斉交替している (杉山,2011:310-311)。

 さて、ウイグルが去り唐も瀕死になることで力を持ったのが、キタイ族である。907年頃、耶律安保機が「大キタイ国」をつくり、自身を皇帝と称する。その後、キタイは後晋の建国を助け燕雲十六州を獲得し、宋を破って属国化するなど (1004年澶淵の盟)、次第に強大化していった。ちなみに彼らは「北方民族として本拠地を保ちながら中国内地をも支配した最初の国家であり、その国家体制は、北方民族的な要素と中国的な要素との双方を結合したものであった」という (山川出版社『新世界史B 改訂版』:101)。もちろん、キタイ皇帝は遊牧民の移動生活を保持し続けながら中国内地を支配したのであり、彼らは唐に続く農牧複合国家だったのである *14

 少し話はさかのぼるが、北宋もまた、遊牧系連合の流れのなかで生まれた王朝であった。唐の滅亡と前後して、華北に沙陀 (さだ) と呼ばれるテュルク系遊牧集団が台頭する (古松,2020:第2章)。彼らは黄巣の乱で唐に協力し、黄巣軍を破って長安を奪還したことで、河東節度使に命じられた。その後、彼らはソグド系突厥などの諸部族と関係を深め、連合体を形成していく。やがてこの沙陀から勢力を拡大した李存勗(そんきょく)が、朱全忠の建国した後梁を簒奪者と見なし、自身を唐の復興を担うものと位置づけ、いわゆる後唐を建国した *15。こうして、中華にテュルク系王朝が成立する

 続く後晋後漢も沙陀軍団出身のテュルク系武人が建てており、後周、そして北宋もまた、沙陀連合体に属した漢族武人の建てた王朝であった。古松は、「このような連続性を考えれば、後唐以降の一連の諸王朝は、建国当初の北宋まで含めて『沙陀系王朝』として捉えるのが適切であろう」と述べており (古松,2020:88)、そのような視点で見ると、この時期の中華は、北魏から唐へと続く拓跋系王朝から、黄巣の大反乱を経て、宋まで続く沙陀系王朝への交代を果たしたと見ることができよう。先に触れたキタイと宋の戦いなども、しばしば遊牧民と農耕定住民の戦いとして理解されがちだが、実際には宋の側も騎馬軍を中心とする沙陀軍団譲りの戦略を採っていた (古松,2020:107)。キタイと建国当初の北宋は意外と似ており、カテゴライズするならばいずれも農牧複合の国家だったのである

 そして、キタイと北宋がどちらも遊牧系の流れを引いていたことが功を奏したのか、ここに意外な副産物が生まれることとなる。それが、先に触れた澶淵の盟を代表とする、疑似親族関係に基づく和平調停である。そもそも、疑似親族関係の締結は、ユーラシア大陸の広範囲における社会で、人と人、家と家を結合する仕組みとして、婚姻関係と同様に広く用いられてきた。宋を兄としキタイを弟とする澶淵の盟のような和平も、この延長上にあったと考えられるだろう *16。これらの盟は、二か国間の使節往還を盛んにしたり、経済的な結びつきを強める機能を果たしたとされており、こうした盟約が盛んに結ばれた12世紀のユーラシア大陸は、さながら「盟約の時代」とも呼べる様相であったという (古松,2020:109-116)。

 さて、一時期大勢力となったキタイであったが、12世紀の初めに女真が「大金国」をつくると、あっけなくこれに首都 (上京臨潢府) を襲われ自壊する。キタイ崩壊の際、王室のひとり耶律大石が西へと逃げ延びカラ・ハン朝を押しのけると、そこに第二キタイ国 (西遼・カラキタイ) を建国した。一方の金は、華北に侵入して宋の都開封を占領する (靖康の変)。宋は、皇帝の弟である高宋が江南に逃れたことで、いわゆる南宋の時代へと突入する。

 以上のような流れを経て一大勢力となった金も、元をたどればキタイから独立した勢力であり、遊牧系の伝統をひくものであった。やはり建国当初、皇帝 (完顔阿骨打) は部族会議の主催者たる族長としてふるまい、テントで政治を行ったようである。彼は城内に滞在せず、キタイから奪取した皇帝専用のテントをもちいることで、キタイ皇帝の後継者を自任した (古松,2020:155)。そうした金の政治は、当然ながら部族制を維持すると共に (猛安 *17・謀克)、華北で州県制を継承する二重統治体制だったのであり、軍事組織も匈奴以来続く十進法式のものであった。やはり、彼らもまた農牧融合国家だったのである。

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12世紀頃のアジア (山川出版社『新世界史B 改訂版』:102より引用)


 以上、やや長くなったが、12世紀ユーラシアの様相を見てきた。この時代は一方で農牧融合という形式が一般化していく時代であった。拓跋国家がほろんだ後に登場したキタイ・宋・金などは、いずれも農牧融合の形式を採用している。そして、他方でこの時代は、複数の勢力が割拠する多極化の時代であったともいえるだろう。省略した地域も含めてまとめると、12世紀の中央ユーラシアは、東に金、中央アジアに西遼、その中間にタングートの西夏 *18、南に南宋と大理、チベットには吐蕃西アジアにはセルジューク朝諸国家という大分立状態に陥ったのである (上地図は山川出版社『新世界史B 改訂版』:102)。そして、この分立状態のなかから、やがてモンゴルが姿を現す







参考・参照文献
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山川出版社『新世界史B 改訂版』 2017年検定済み.







*1:遊牧民の形成について補足しておくと、もともと牧畜は農耕に付随していたようである。時が経つにつれて狩猟採集民の間でも牧畜がおこなわれるようになり、一時期の西アジアでは、農耕牧畜民と狩猟牧畜民が併存していたようである。その後、紀元前5500年ごろになると西アジアの草原地帯で温暖化・乾燥化が進み、移動しながら牧畜をする人々が現れた (古松,2020:4)。

*2:中央ユーラシアに騎馬遊牧民的文化が形成され出した時期を先スキタイ時代と呼ぶ。この時代の考古学的研究については、(小松編,2000:15-27) を参照。先スキタイ時代の前9世紀~前8世紀については、草原の東西で類似した道具が出土しており、ほぼ同じような形式の馬具や武器といった実用品が中央ユーラシア全域に普及していたほか、形式の似た儀礼も広く存在していたことがわかりつつある。つまり、この時期には物質面のみならず精神文化の面でも、中央ユーラシアにひとつのまとまりが生まれつつあったといえよう。

*3:妹尾はこの時期を、遊牧国家である匈奴と農耕国家である秦・漢が、農牧境界地域を舞台ににらみ合った時期として捉えている (妹尾,2018)。

*4:各部族集団を、什長・百長・千長という指揮者が率いる十進法体系の軍事・社会組織に編成した。また、そのうえには万騎をひきいる君長たちが24人いたとされる (杉山,1997:37)。

*5:突厥のエフタル吸収にあたり突厥に協力したのが、ササン朝ペルシアであった。ササン朝突厥はアム川を境にエフタルの支配地域を分割したが、これは後にすべて突厥のものとなっている。なお、エフタルはインドのグプタ朝にも侵入し、グプタ朝衰亡の原因をつくってもいる。

*6:ちなみに、南匈奴・フン同族論と似たものとして、アヴァ―ル・柔然同族論もあるらしいが、やはり可能性の域に留まるようだ。

*7:テュルク語をもちいる人々をテュルク語族と呼ぶ。現在の中央ユーラシアでも大部分がこのテュルク語系に属する (トルコ・アゼルバイジャンウズベキスタンキルギスのほか、ロシアやウズベキスタン内の諸民族、中国のウイグル人など)。

*8:ここらへんの流れは、前回報告で詳しく書いた。なお、世界史の教科書 (山川『新世界史B 改訂版』) を見ても、「拓跋国家」といった用語は登場せず、隋や唐は (あるいはほぼ北魏も)「中華世界」から生まれた「中国王朝」として描かれている節がある (前掲:89,94-95)。もう少し遊牧民とのつながりを強調しても良いかもしれない。新教科である「世界史探求」の記述がどうなるか楽しみである。

*9:また、8世紀前半に突厥第二可汗国で書かれた突厥碑文からは、彼らが唐のことを「タブガチ」と呼んでいたことも明らかになっている (古松,2020:35)。一般に中国王朝の一つとされる「唐」は、遊牧世界から見ると、有力氏族拓跋が支配する「拓跋」という国に見えていたのである。

*10:羈縻政策について、教科書では次のように説明されている。「北方・西方の勢力に対しては、唐は現地の首長に官を与えて形式上唐の支配地域に組みこみ、朝貢のかわりに朝廷から官僚を派遣して監督させる方式 (羈縻政策) をもちいたり、皇室の娘を降嫁させて関係を維持したりした」(山川出版社『新世界史B 改訂版』:97)。羈縻が牛や馬をつなぐ綱を意味したように、羈縻政策とはあくまでこれらの地域をつなぎとめておくための、ゆるやかな支配政策であった。

*11:その見返りにウイグルは銀を中心とする巨額の経済支援を唐に求めた。これは唐の財政を大きく圧迫し、やがて唐は拓跋国家の伝統である租庸調制から、両税法による税収へと切り替えていく (杉山,2011:306-307)。前回報告でも触れたように、安史の乱を契機にして、唐は農牧分離国家 (妹尾のいう小中国) に姿を変えてしまうのである (妹尾,2020)。ちなみに、塩の専売が中央財政の根幹を占めるようになるのも、ここからのようだ。これが唐朝に止めを刺した黄巣の乱 (907年) の伏線となる。

*12:ジュンガル盆地やイリ地方に存在した遊牧民で、ウイグルと同じくテュルク系。

*13:その後、カラ・ハン朝は999年にサーマーン朝を滅ぼしてパミール東西をおさえる。ここに、「テュルクの地 (トルキスタン)」が出現した (杉山,2011:317)。

*14:また、キタイは有力諸集団の遊牧所領内に多くの城郭都市を建設し、国の全域を遊牧地と都市の複合体に変化させてもいる。ウイグルが明確化した都市と遊牧の関係は、キタイの下で各地に広げられたわけである (杉山,2011:333)。

*15:後梁は、黄巣の反乱勢力を基盤にした王朝であった。それに対して李存勗には、その苗字 (李) からもわかるように、唐の軍臣として力をつけてきた経緯があり、唐の復興という大義名分を利用しやすい立場にあった。

*16:ちなみに、これもしばしば誤解されがちだが、この親族関係は可変であった。例えば澶淵の盟においても、宋はずっと「兄」だったわけではなく、真宗から仁宗へと代交替すると「姪」になり、これまで弟とされたキタイの聖宗は「叔」とされた。最終的に、徽宗の時代には宋が「弟」となり、キタイが「兄」となっている (古松,2020:111)。

*17:猛安とは「十」のことであるという。

*18:ちなみに西夏を建国したタングートの李元昊は、北魏皇帝 (拓跋) の後継者を標ぼうし、自身の正当性を主張したらしい (古松,2020:124)。「拓跋」の記憶は草原地帯に根強く残り続けていたのである。