世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

中央ユーラシア史から見るモンゴル ー「大帝国」の来歴と内実 ②

2.「野蛮なモンゴル」というイメージの構成 : モンゴル研究に付随する偏りについて

 モンゴルの歴史を見ていく前に、ここでは「野蛮なモンゴル」というイメージがどのように構成されてきたのかを論じる。そうしたイメージが形成された経緯と理由の一側面を明らかにすることで、モンゴルに対する評価の歪みを多少なりとも是正することができると考えられるためである。とはいえ、「一般に流布するイメージの形成過程を明らかにする」などといっても、その作業は困難を極めるであろう。そもそも何をすればそれが達成されるのかすら、定かではない。そこで、ここでは限定を設けて、中央ユーラシア史に関する史料自体が持つある種の難しさについて確認することにしたい。



 さて、「野蛮なモンゴル」というイメージの古典は何に求められるだろうか。杉山は、こうしたイメージを形成しモンゴル研究に影響を与えた書籍として、ドーソン『モンゴル人の歴史』を挙げている (杉山,1997:64-65) *11830年代に執筆された本書は、ペルシア語・アラビア語文献の多くを網羅した大歴史書であったという。19世紀モンゴル史研究の多くが本書の影響を受けており、ドーソンはモンゴル史の大家として名をはせていたようだ。しかし、杉山によれば、ドーソンの書籍を、彼が引用した史料にまでさかのぼって検討すると、様々な作為が見えてくるという。どうやらドーソンには、「モンゴルの破壊」に関わる部分だけを引用して特筆大書するような癖や、「野蛮なモンゴル・イメージ」を際立たせたり、自説に都合の悪い部分には触れないといった偏りがあったようだ。これらの傾向は、「自身の故国であるアルメニアを、在りし日に蹂躙したモンゴルに対する批判」というドーソン個人のナショナルな意識によるところがあったようなのだが、ともかくそのイメージは (ドーソンの仕事の偉大な側面と共に) 学会に受け入れられたという。

 以上が、杉山による「野蛮なモンゴル」イメージへの説明である。しかし、残念ながら杉山がどのような研究に依拠してこれを述べているのかは、今回明らかにできなかった。また、杉山自身がドーソンの検討を行ったり、その影響力を論じたりしている論文も見つけることができていない。加えて、時間の関係上私自身もドーソンの書籍にアクセスできなかったため、ドーソンの功罪については一度保留にしておきたい。

 そのうえでここでは、ドーソン以上にわかりやすく重要な側面、即ち、そもそも遊牧民たち自身が自らについての記録をほとんど残さなかったという側面に改めて注目してみることにしよう。彼らに関する記録の多くは周辺諸勢力によるもの、いわば他者の目を通したものであったため、その分だけ遊牧民やモンゴルの像は歪むこととなった。モンゴル史に関する漢文史料は中華地方など一部地域におけるものばかりであり、モンゴル政権内部の同時代史料もきわめて少ない。重要史料となる『集史』を記したラシード・アッディーンすら、イル=ハン国に務めたイラン人であり、その内容もペルシア語で書かれている。

 そして、こうした歪みに加えて、その歪みの結果として、研究者の視点もまた東方・西方のいずれかに偏りがちであったことが指摘されている *2。いわば、遊牧民の像は、史料の偏在とそれに起因する研究者の視点の偏りから、二重の歪みを被るのである。

 この歪みについては、志茂碩敏「モンゴルとペルシア語史書 — 遊牧国家史研究の再検討」(志茂,1997) が具体的でわかりやすい。まず、志茂は西洋人をはじめとする19世紀前半の研究が、イラン人・漢人の史料ばかりに基づいて、それを鵜呑みにする形で行われたことを指摘する。その結果、多くの研究者は、「野蛮なモンゴル」はイラン人・漢人など、開化した定住民の指導・補佐によって、かろうじて国家を運営できたのだと論じた (志茂,1997:252)。これは、武力によって領土を拡張したモンゴルも、それ以外の政治的な部分では成果を残さなかったという解釈を支え、モンゴル時代の「文明」的要素を農耕定住民の側にばかり求める傾向を生み出してしまう。

 しかし、志茂によれば、そもそも当時のイラン人・漢人はあくまで「主人」である遊牧君主・遊牧政権に仕える「使用人」「召使」「下僕」だったのであり、彼らが見ていたのは所詮、政権の末端の動きであったという。志茂の例をそのまま引用すると (志茂,1997:252-253)、モンゴルが「モンゴル帝国銀行」という企業体であるとするならば、カン・カアン・有力部族長などは「頭取」「重役」「部長」「課長」「係長」であり、イラン人・漢人らは実務を担当する「一般行員」や「経営コンサルタント」程度のものであった。このような末端の者たちが政権中枢部の動きを十全に知ることなど不可能に近いのだが、それにも関わらず、後代の研究者らはその末端の者が書き残した動きを政権中枢部の動きと見なし、定住民と遊牧民の主客を転倒させるような形でモンゴルを理解してしまったのである。こうして、先に触れた「二重の歪み」(すなわち、「史料の偏在」と「研究者の理解の偏り」) が姿を現す。

 さらに、「定住民の用いる概念」が「遊牧民の現実」を書き記すのに不十分であったことも、混乱を招いた。例えば、ペルシア語史料・漢文史料において「宮殿」「政府」「首都」と記されたものは、実際には「移動可能なテント」「カン・閣僚・百官らが日々移動するテント」「カン・閣僚・百官らがしかるべき季節にテントを張ることができる、(イランであればタブリーズ郊外の) 広大な草原」のことを指していたのであり (志茂,1997:253-254)、「移動する政治体」という独特の形式の実態は、定住民の使用する語彙・概念のなかで見えにくくなってしまう傾向にあった *3。そこに『集史』における翻訳上の問題なども加わり (特別な術語を普通名詞として翻訳してしまうなど[志茂,1997:263-264])、19世紀に描かれたモンゴル帝国像は、さながら幕藩体制における「大老」・「老中」・「若年寄」・「旗本」・「御家人」を、「高齢の老人」・「中老の人」・「初老の人」・「召使」・「家人」と理解したようなものになっていたという。制度に関わる概念をこのように理解してしまっては、支配体制の内実を明らかにすることなど不可能になってしまうだろう。

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史書『アクバル・ナーマ』の挿絵 (杉山,2011 扉絵より引用)


 こうして、モンゴルが敷いた支配体制は霧に包まれたまま、「彼らは漢人・イラン人などに政治を頼り、十分な仕組みを考えることはなかった」とされてしまった。そして、そうした空白に、「野蛮なモンゴル」というイメージが居座り続けることになる。杉山は様々な場所で繰り返し史料研究の重要性を強調しているが、それはかつてのモンゴル研究が、このような歪みのなかにあったことと関係しているのだろう。

 以上を踏まえて、改めて本稿における我々の作業を確認しておこう。かように偏ったイメージを退けながらモンゴルの支配体制を記述していくのが本稿の目的であった。それを達成するために、本稿では周辺地域からではなく、中央ユーラシアの側からモンゴルにつながる歴史を記述していくことにしたい。次章以降で明らかになるように、モンゴルの政治システムは、漢人やイラン人のみによるものではなく、むしろ遊牧民の伝統のなかで形成されてきたものであった。そのため、その仕組みはユーラシア大陸における遊牧民の長い歴史を踏まえてこそ、十分理解可能になる。




参考・参照文献
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———— 2009 「戦後社会科における世界史の教育」(in 『社会科教育研究』 No.107).

上田信 2018 「高校世界史における日中関係」(in 長谷川修一・小澤実 『歴史学者と読む高校世界史』 勁草書房).

梅村坦 2011 「趣旨説明 (<特集>内陸アジア史学会50周年記念公開シンポジウム「内陸アジア史研究の課題と展望」)」(in 『内陸アジア史研究』 26巻).

小松久男編 2000 『新版世界各国史4 中央ユーラシア史』 山川出版社.

志茂碩敏 1997 「モンゴルとペルシア語史書」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』 岩波書店).

杉山正明 1997 「構造と展開 中央ユーラシアの歴史構図」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』 岩波書店).
———— 2011 『増補 遊牧民から見た世界史』 日経ビジネス人文庫.
———— 2014 『大モンゴルの世界 — 陸と海の巨大帝国』 角川文庫.

杉山正明 / 北川誠一 2008 『世界の歴史9 大モンゴルの時代』 中公文庫.

妹尾達彦 1999 「構造と展開 中華の分裂と再生」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史9 中華の
分裂と再生』 岩波書店).
———— 2018 『グローバル・ヒストリー』 中央大学出版部.

バスティアン・コンラート 2021 『グローバル・ヒストリー』(訳:小田原琳) 岩波書店.

檀上寛 1997 「初期明帝国体制論」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』 岩波書店).

浜由樹子 2008 「『ユーラシア』概念の再考」(in 『ロシア・東欧研究』 37号).

平井英徳 2006 「ネットワーク論にもとづく高等学校世界史の授業」(in 『社会科教育論叢』 第45集).

古松崇志 2020 『シリーズ中国の歴史③ 草原の制覇 大モンゴルまで』 岩波新書.

本田寛信 1997 「原典と実地」(in『岩波講座 世界歴史 月報2』 1997年11月 岩波書店).

森安孝夫 1980 「イスラム化以前の中央アジア史研究の現況について」(in 『史学雑誌』 89巻).
———— 2011 「内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言(基調講演1,<特集>内陸アジア
史学会50周年記念公開シンポジウム「内陸アジア史研究の課題と展望」)」(in 『内陸アジア史研究』 26巻).

山本有造編 2003 『帝国の研究 — 原理・類型・関係』 名古屋大学出版会.

山川出版社『新世界史B 改訂版』 2017年検定済み.







*1:佐口透『モンゴル帝国史』として東洋文庫から出版されているが、私は未読。

*2:こうした偏りを排して中央ユーラシア史を描こうとすると、今度はあまりにも多くの言語に精通する必要性が出てくる (研究においてどれほど言語が壁になるかは、[森安,1980]に詳しい。また、やや入手しにくい資料になるが、[本田,1997]も冒頭で中央ユーラシア史研究における語学習得や資料読解の苦しみを語っており、その困難さがよく伝わる)。そうした実際上の理由から、偏りは簡単には解消しがたいようである。

*3:下の図像は (杉山,2011) の扉絵より。歴史書『アクバル・ナーマ』の挿絵。「帰府してきたダウドをムンイン・ハンが閲見しているわけであるが、その本営はあくまでテント群であった。ただし、テントといっても、随分と豪奢なものではあったが」(杉山,2011) とあり、確かに街の城壁ははるか後方に描かれ、ハンとその周囲にはいくつものテントが描かれている。