世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

映画・アニメ・マンガから考える、現代社会と倫理

 現代社会・倫理の授業では、アイデンティティ生命倫理哲学史などの内容を扱います。今回は、それらの内容に関わる映画や書籍を紹介することにしましょう。基本的に、高校生でも見られるもの・読めるものだけを挙げていくことにします。ブログに挙げるにあたってめちゃくちゃな量を加筆をしていますが、基本的には高校生に向けた文章として書いています。





青年期

ピクサートイ・ストーリー3』(2010)

トイ・ストーリー3(吹替版)


 思想家ルソーは、青年期を「第二の誕生」と表現しました。いままで生きていた世界から抜け出し、より広い世界を一人で生きていく。青年期はその点で一つの誕生に匹敵するということでしょう *1。そして、人はいつか「輝かしい少年時代」のことを思い出し、それを懐かしむのです。

 少年時代というものの輝かしさと、それへのお別れがもつ切なさを描いた作品として、ここでは『トイ・ストーリー3』を挙げておきます。『トイ・ストーリー3』は、おもちゃたちの視点から見ると「アンディとの別れ」の物語です。では、アンディの視点から見るとどうでしょうか。この物語は、一人の少年が、青年へと成長するなかで自分の少年時代と決別するお話なのです

 大学生になるアンディは、大学に通うために実家を出て一人暮らしを始めようとしています。彼はこれから、自分が育った家・自分を育ててくれた家族・少年時代を共に過ごしたおもちゃたちと別れて、新たな世界で生きていかなければなりません。もう二度と、少年時代に戻ることはできないのです。反対に、成長することのできないおもちゃたちはアンディから取り残され、「光りかがやく庭」に居続けることになります。彼らが残された庭は、どこか切なく、それでも美しく輝くのでした。

 なお、戻れない少年時代へのあこがれを描いた映画としては、ほかに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001) を挙げることもできます。昔を懐かしむ大人に対して、この映画がどのような価値観を打ち出しているのかを考えてみても良いでしょう。


映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲



アイデンティティ

〇 『僕のヒーローアカデミア 第一期』(2016)

僕のヒーローアカデミア 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


 今年は、アイデンティティの授業の最初に『僕のヒーローアカデミア』の1話を見てもらいました。アイデンティティの悩みについて説明するうえでわかりやすいと考えたからです。

 『僕のヒーローアカデミア』(以下、ヒロアカ) の世界では、人口の約8割がなんらかの特殊能力を持って生まれてきます。火を出せたり、物を浮かせたり、そういう力です。人々はそうした力を「個性」と呼びました。この物語は、そうした社会のなかで「個性」を持たずに生まれてきた一人の少年を主人公にしています。主人公のデクは、「無個性」であり、それゆえに進路を決めることができません。彼自身は「ヒーロー科」への進学を目指しているのですが、周囲の誰も「無個性」の彼がヒーローになれるとは思っていないのです。

 このアニメの舞台となる社会では、ほとんどの人間はアイデンティティについて悩むことはないはずです。自分の「個性」を活かした仕事につけばよいのですから。しかし、デクには「個性」がない。それゆえに、彼はこの社会において「何になればよいのか」「どう生きていけばよいのか」がわかりません。その苦しみのなかで、彼は誰かからの「君はヒーローになれる」という言葉を待ち続けているのでした。

 『僕のヒーローアカデミア』という物語は、この少年デクが、ナンバーワンヒーローであるオールマイトから「君はヒーローになれる」という言葉をもらうことによってはじまります。その一言が、その後のデクの行動の原動力になり、彼の全てを変えていくのです。

 このアニメからはまず、2つのことを学んでおきましょう。第一に、「何ができるか (個性)」は、「何になれるか どのような存在になるべきか」という問いと、どこかでつながっているということです。前者と後者がこのようにつながってしまった社会に我々は生きているのですが、社会は昔からずっとこのような問いを抱え込んできたのでしょうか。これは考える価値のある問題です *2

 第二に、このアニメは、アイデンティティの確立には他者からの承認が必要であるということを示唆しています。オールマイトからの一言があってデクがヒーローへの道を歩み始めたように、誰かからの一言があって我々は自身の存在を形作っていくことができる。そういう側面がアイデンティティには存在しているのです。
 


〇 『僕のヒーローアカデミア 第二期』(2017)

僕のヒーローアカデミア 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)


 さて、上で確認したように、「無個性」であるデクは自分の道を見つけることができず、それゆえに苦しんでいました。この苦しみは現代に生きる多くの人が抱えているものであるといえるかもしれません。

 他方で、生まれた瞬間から何になるべきかが決められていることもまたつらいものです。ヒロアカ2期の体育祭編では、クラスメイトの轟焦凍 (とどろきしょうと) に焦点が当てられています。彼は、ただ最強の「個性」をもったヒーローをつくるという目的のためだけに生み出された少年であり、父親から「進むべき道」をすべて決められていました。

 体育祭編で描かれる轟の悩みは、アイデンティティについて考えるうえで非常に参考になります。彼は、自分の力が父親という他者から与えられたものであることに嫌悪感を抱き、「個性」の使用を自ら制限します。デクは誰かからの承認を求めて苦しみ、他者から「君はヒーローになれる」と言われたことで前に進みだすのですが、轟は他者からすべて与えられていたことで、逆に自分自身の力を信じることができないのです。では、そうした轟に対して、デクはどのような言葉をかけるのでしょうか。体育祭編の終盤では、デクの一言が轟に大きな変化を与えます。デクの一言はまさにアイデンティティの核心に関わるものなので、その意味をよく考えながら、自分の目で見てみてください。

 余談ですが、轟の悩みと「デザイナーベイビー」の問題を重ねて考えることもできます。「最高の遺伝子を持つ人間」としてつくられ、生まれたときから「最高」の人間になることを期待されてしまった人が、どのような悩みを持つことになるのか。それを考えるヒントとして見るのも良いでしょう。



東映アニメーションGO!プリンセスプリキュア (38話,39話)』(2015)

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GO!プリンセスプリキュア』38話より引用


 上で書いたことをまとめると、アイデンティティには他者が必要である (デク)」、しかし「他者から意味を与えられすぎてしまうと、逆に自分とは何かがわからなくなる (轟)」ということになるでしょう。

 もう少しこのことについて考えてみましょう。他者からの承認に自分のアイデンティティは支えられているわけですが、それはどこか自分にとって危険な状態でもあるわけです。すべてを他者に任せてしまうと自分のことがわからなくなってしまうかもしれないし、他者が突然私のことを承認してくれなくなるかもしれません。他者は私に力を与えるとともに、私をおびやかす存在でもあるのです *3

 このことをもう少し考えるために、『GO!プリンセスプリキュア』のエピソードを見ておくとよいかもしれません。主人公の「はるか」は、プリンセスになることを夢見てプリキュアとして戦っています。彼女の心を支えていたのは、幼いころにとある王子からもらった「君はプリンセスになれる」という一言でした。彼女はその一言を信じて、王子を守るため戦いへと身を投じるのです (1話)。

 しかし、戦いのなかでようやく見つけた王子は、自身の記憶を失っていました。そして、自分を守るために戦いで傷ついていく「はるか」を見た王子は、「はるか」に対して「僕のために傷つく必要はない!プリンセスになんてなるな」と言ってしまうのです。
 
 プリンセス (お姫様) とは王子があって成り立つ存在であり、王子に否定されたプリンセスはプリンセスではありえません。戦う意味を失った「はるか」は絶望し、変身できなくなるのでした。彼女は、「いったい自分は、なぜ、なんのために戦っているのか。何になりたいのか」という問いの前で立ち尽くします (画像は38話より)。

 この絶望から「はるか」はどのように立ち上がるのか。『GO!プリンセスプリキュア』はこの問題を非常に丁寧な形で解いていきます。それについては実際に見てもらうとして、ここでは次のことを確認しておきましょう。アイデンティティは、自己と他者の非常に不安定な関係のうえに成り立つのであり、また他者にすべてをゆだねて成り立つようなものでもないのです。ここに、アイデンティティを確立させるうえでの最大の問題があります *4


〇 ディズニー『伝説の海のモアナ』(2016)

モアナと伝説の海 (吹替版)



 以上の問題をさらに上手く扱った映画として、『伝説の海のモアナ』を挙げることができます。モアナはプリンセス (村長の娘) として島の中で生きていくことを父から期待されているのですが、それに納得することができません。どうしても海に出たい彼女の心は、島と海の間で引き裂かれていきます。そのようななかで、モアナは島を救うため、海に選ばれた娘として冒険の旅に出るのでした。

 この映画のなかで、モアナは繰り返し「私はモアナ (I am Moana)」と言います。この言葉の意味が、映画のなかでどのように変化していくのか。彼女は何に悩み、それについてどのような答えを出すのか、その部分に注目しながら映画を見てみてください。ハワイの神話とアイデンティティの問題を見事に融合させたこの映画のスゴさを理解することができるでしょう。

 ほかに、アイデンティティに関わるディズニー作品として『ボルト』(2008) も挙げておきます。自分にスーパーパワーがあると思い込んでいた役者犬が、ふとしたことから迷子になり、自分のアイデンティティと向き合う話です。あまり知られてはいないですが、とても面白いのでおススメ。


— 補論 : ジェンダーから見るアイデンティティの問題 —

 さて、ここで一つ補論を挟んでおきましょう。『GO!プリンセスプリキュア』(以下、『GOプリ』) も『伝説の海のモアナ』(以下、『モアナ』) も、「プリンセス」という概念を対象にした物語であり、女の子に期待されるジェンダーロール (性役割) に対して向き合うものでした。それゆえに、ジェンダーの話を抜きにして両作品を語ることはできません。

 「プリンセス」という概念は、それに憧れる人に様々なパワーをくれます (「ヒーロー」も同様です)。小さな子どもが、「プリンセスになりたい」という気持ちで習い事を頑張ったり、自分のしたいことを我慢して「いい子」になろうとする場面を想像してみてください。何かの役割に自分を重ね合わせることは、自分を鼓舞し成長させてくれる可能性を秘めているのです。高校生でも大人でも、「憧れのスポーツ選手」だったり、「頼りになる先輩」だったりに自分を重ねて、ついつい「あの人みたいになりたい」と思ってしまったりするものでしょう。

 しかし、「プリンセス」という概念は、様々なほかの概念と結びついています。例えば、『GOプリ』の部分で述べたように、それは「王子 (プリンス)」との結びつきにおいてはじめて成立する概念であるといえるかもしれません。あるいは「女の子」という性別や年齢と結びつくことで、男性が近づくことを排除しています。『モアナ』では、「島に居続ける」「子どもを産む」存在に「プリンセス」という概念が結びつけられていました。そのような結びつきは当該概念を成立させているものであるとも考えられるのですが、「こうでないといけない」「この人はこの存在になれない」という形で人びとを縛るものでもあります。『GOプリ』や『モアナ』を見るときは、こうした概念間の結びつきが、どのような形でどのように変更されているのかを考えながら見てみると良いでしょう。

— 以下、思ったよりも長くなった追記 (読み飛ばして良い) —

 やや難しい話になるかもしれませんが、概念間の関係性を変更することについて、もう少し補足しておきます。特定の概念は他の概念との結びつきによって成立しています。そのなかには、結びつきが必然的であるような関係もあります。例えば、「弟 (妹)」と「兄 (姉)」という概念のセットを考えてみましょう。これらは、片方の概念を意味のあるものにするために、もう片方の概念を確実に必要とします。「兄 (姉) なしの弟 (妹)」といったものは考えられないからです。こうした概念間の関係性のことを「内的な関係」と呼んでも良いかもしれません。ある意味では、「プリンセス」と「女性」、「プリンセス」と「プリンス」という概念セットも、概念を成立させるうえで論理的に必然の結びつきであるといえるかもしれません。

 次に、日常で我々がつかっている言葉に目を向けてみましょう。例えば、面倒見の良い子が、自分よりも小さい子に世話を焼いていたとします。その二人の子どもが血縁関係にないとしても、我々は「あらあらすっかりお兄ちゃんだね」と声をかけたりするかもしれません。ここでは、「兄」という概念に「面倒見がよい」といった役割を結びつけているわけです。こうした役割観は、当該の概念と内的な関係にあるわけではありませんが、日常言語における当該概念の運用において強く当該概念と結びついています。こうした役割・価値のことを、ここでは当該の概念と外的関係にある概念と呼ぶことにしましょう。

 以上のように、内的関係と外的関係を区別したうえで、概念セットの変更はどのように為しうるかを考えてみましょう。変更が容易なのは、外的関係のほうです。例えば、「女の子」であることから特定の価値観 (「おしとやかであること」など) を導き出すことは論理的には不可能なので、この関係には変更の余地があります。ただし、特定の関係が信じられている環境においては、その変更はある程度説得的な形でなされることが要求されてしまうのですが……。アニメや映画といった作品が価値を持つのは、そのような変更を説得的に行う場面においてであると私は考えています。例えば『モアナ』は、「プリンセス」と「冒険をすべきではない」という価値観の結びつきに対して、果敢に挑むものでありました。

 さて、このように外的関係にある概念を変更したとしても、内的関係は残るかもしれません。例えば、「プリンセス」概念と「女性」という性別の結びつきは絶対であり、「男性」がプリンセスになることにあこがれるのは不可解である、といったことをいう人もあるかもしれません。しかし、これは誤りです。外的関係にある概念 (例えば「面倒見がよい」といった役割) を足掛かりにして、血縁関係のない二人に対して「兄」という概念を用いることができたように、外的関係の変更に応じて概念の適用先を変更することは可能であり、また実際に我々は行っているのです。例えば「プリンセス」という概念を「塔のなかにいて、男性から守られたり救われたりする存在」という見方との結びつけるのではなく、「世界を守るために戦う存在」と結びつければ、そういう価値を理想としている「男性」に対してもこの概念を適用することができます。似たような例として、2018年の『HUGっと!プリキュア』は「プリキュア」というものを一つの生き方として捉えることで、「プリキュア」と「女の子」との結びつきを解き、「誰だってプリキュアになれる」という価値観を提示しました (これはネット上でそれなりに話題になっていたかと思います)。このようにして概念を当てはめる対象を変えていくことは可能なのです。

 とはいえ、それによって例えば「特定の役割を抱え込むこと」の苦しさが解消されるわけではありません。例えば『GOプリ』は「プリンセス」という概念を「プリンス」から切り離し、「自分の憧れのために戦う者」として描きなおします。そうすることで、はるかは王子から否定されても「プリンセス」を目指すことができたわけですが、当初からそこに存在していた「戦う役割を担わされるなかで傷ついてしまう」という困難がこれによって解消されたわけではありません。「役割」というものについては、ときに自身を動かす原動力にありえるが、ときに自身を苦しめる枷になる、両義性を有したものであるということくらいしか言えないのでしょう。







生命倫理

〇 『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人,2013)

マンガで学ぶ生命倫理


 生命倫理全般についてはこのマンガがとても参考になります。マンガとしてもなかなかよく出来ていて、読み終わったときに深い余韻が残りました。男女の産み分け、臓器移植、ガンの告知など様々なテーマが扱われており、またそのテーマに関わる映画なども紹介されているため、読んでおいて損はない一冊です。



〇 映画『闇の子どもたち』(2008)

闇の子供たち


 タイの少女たちが売春宿に売られ、最終的に臓器売買の犠牲になるまでを描いた物語。とても嫌な気分になる映画です。観るのに覚悟がいるでしょう。児童買春をテーマにしており、虐待等の描写もかなりきついため、注意をしてみる必要があります。なお、臓器売買については日本とタイを結びつけるために入れられた要素という側面が強く、それゆえに事実であるとはやや考えにくい内容になっています。他方、売春宿に売られ、エイズになって捨てられる子どもについては、おそらくこの世界のどこかにいると考えて良いでしょう。そうした子どもたちのことを考えながら映画をみると良いかもしれません *5




哲学史

〇 ディズニー『ノートルダムの鐘』(1996)

ノートルダムの鐘(吹替版)


 哲学史をたどるにあたって、「欲求」の問題を避けることはできません。多くの宗教や哲学が、「自身の抱える欲求とどう向き合うか」ということを考えてきたからです。特に西洋の哲学史を見ていくにあたっては、少なくともキリスト教が欲求というものをどうとらえてきたのかを知っておく必要があるでしょう。哲学者のミシェル・フーコーは、晩年のインタビューで古代ギリシアと中世キリスト教における欲求観の相違を次のようにまとめています。

「紀元前四世紀のギリシアにとって、勃起は (…) 能動性のしるしでした。ところがあとで、聖アウグスティヌスキリスト教徒にとっては、勃起とは何か意志的なものではなく、受動性のしるしになります。つまり、原罪に対する罰です。」(「倫理の系譜学について-進行中の仕事の概要」(1983=2006) より)


 アダムとイブは、誘惑に負けて罪を犯します。それゆえに、誘惑に勝てないこと、欲望を抱いてしまうことは、キリスト教にとって大きな罪とされるのです *6

 キリスト教が「性欲」とどのように関わってきたかを知るには、『ノートルダムの鐘』を見ると良いかもしれません。フロローという役人は、ジプシーであるエスメラルダという女性に欲情してしまいます。しかし、彼はその欲望を認めることができず、ジプシー狩りを掲げてパリの街ごと彼女を焼きつくすことを決意します。フロローが自分の欲望 (罪) と向き合いながら歌うシーンはなかなか見ものです *7







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 以上、哲学史については古代~中世までしかやっていないので、そこまでとなりました。

 いろいろと考えながらマンガや映画を観るのは面白いものです。知っている知識を当てはめながら作品を見るのも良いですが、何よりも作品そのものから多くのことを学び考えることができます。そういう道具として、マンガや映画といった作品に深く向き合ってみるのも良いことではないでしょうか。










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*1:細かいことをいうといろいろと違うのですが、まぁそこは「現代社会」の教科書にならうことにしましょう。

*2:授業ではこれに関連して、社会学者ギデンズの近代社会論を紹介しました。

*3:[文献紹介] このことをわかりやすく表現したのが、精神科医のレインです。レインについて知りたい人は、奥村隆『反コミュニケーション』(弘文堂,2013) の「第4章 他者、承認、まなざし」を読むとよいでしょう。この本は、さまざまな学者に対して架空のインタビューをしたという設定で書かれたものであり、小説調なので読みやすいかと思います。また、少し難しいのですが、同じ奥村さんが書いた『「思いやり」と「かげぐち」の体系としての社会』(社会学評論,1994) もとても面白いです。ネット上で公開されています。

*4:アイデンティティとは、「他者との関係において成り立つもの」であると同時に、「自分自身に対して打ち立てるもの」でもあります。エリクソンも、アイデンティティは「他者による自己の定義」であると同時に「自己による自己の定義」でもあると述べました。そのほかに、社会心理学者ミードの言っていることを確認してみても良いかもしれません。ここでは紙幅が足りないので、とりあえずアイデンティティについてもう少し知りたい人には浅野智彦ほか『考える力が身につく社会学入門』(中経出版,2010) の第一章をおススメします。短くて読みやすいです。

*5:[文献紹介] 授業をするときは、臓器移植を配分的正義の問題として扱っています。そうすることで、倫理における正義の問題と結びつけて考えることができるからです。医療資源の配分と正義の問題については、直江清隆ほか編『高校倫理からの哲学1 生きるとは』(岩波書店,2012) の「第3講 人間の尊厳とはなんだろうか—現代の医療と生命—」が読みやすいです。

*6:ただし、そう簡単に「キリスト教はこうだ!」と決めつけられないことには注意が必要です。例えばカトリック世界でよく使われる表現に「七つの大罪」というものがありますが、この7つも時代・地域によって重視されるものが変化しました。「色欲」が最も重いとされることもあれば、「強欲 (金銭を稼ぐこと)」が最も重いとされることもあったのです。同様に、それぞれの罪の中身についても時代・地域におうじて様々なパターンがあるため、簡単に一般化できるものではありません。

*7:他方、この映画におけるジプシーのイメージには様々な問題があります。それについてはまたどこかの機会に別の記事で論じることにしましょう。