『オトナ帝国』というレトロトピア (第五節):家族というイデオロギー、『オトナ帝国』の限界
5. 家族というイデオロギー、『オトナ帝国』の限界
かなり長い道のりにはなったが、以上で我々は、イエスタディ・ワンスモアがどのような組織なのか (3節)、彼らはどのような価値観の前に敗北するのか (4節) を確認することができた。そしてその果てに、実はこの映画では、「昭和」と「家族」が同じくらい理想化されているのではないかという問いへとたどりついた。最後に本記事が検討していきたいのは、この点において『オトナ帝国』は完全に「昭和ブーム」というものの範疇に属しているのはないかということだ。
それを検討するためにも、ここで再びレトロトピアをめぐる今日の政治シーンへと話を戻すことにする。ただし、今度は日本政治におけるエピソードとして、レトロトピアを捉えなおすのである。
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5.1 「美しい国」とレトロトピア。そして昭和ブームと家族の関係
1980年代、市場経済に政府が積極介入するケインズ型政策への反動として、新自由主義 (ネオリベラリズム) 的な経済思想 *1 が各国の政策に影響を与えた。とくにアメリカのレーガン政権とイギリスのサッチャー政権が手を取り合って新自由主義的政策を採用したのは有名だが (レーガノミクス・サッチャリズム)、ここで注目しておきたいのは、そのサッチャー政権とレトロトピアとの結びつきである。
ポピュリズムを利用したサッチャー政権は、保守的な市場主義を導入する際に、市場主義の淵源はヴィクトリア朝時代にあるというロジックでその正当性を訴えた。このときナショナル・アイデンティティ形成のために重要な役割を果たしたのが大英帝国の文化遺産、すなわちナショナル・ヘリテージであった (日高,2014:2章)。「『ヘリテージ産業』は、観光産業、博物館・美術館、都市再開発、当時の衣装・ライフスタイルに関係するアパレル産業、そしてむろん当時を舞台にしたり、当時へのノスタルジアを志向する映画やテレビ番組など多岐にわたっており、1980年代前後のイギリス文化産業の一大潮流となった」(日高,2014:65)。
なぜここでサッチャーの動向を確認したのかというと、サッチャーの政策を多分に理想化しながら自身の政治指針を語った日本の政治家について論じたいと考えているためだ。その政治家こそ、前首相の安倍晋三である。
安倍は主著『美しい国へ』(安倍,2006) において、サッチャー政権に触れながら自身の教育方針を提示している。安倍いわく、サッチャーが教育改革で行ったのは、一つには「自虐的な偏向教育の是正」、そして「もう一つは教育水準の向上」であった。そこでは「自尊心を傷つける教科書」が改められ、またサッチャーの教育改革を引き継いだ (と安倍が論じる) 労働党政権は、イギリスの社会問題の原因を「他者への思いやりとか、権利だけでなく責任を担う意識」の喪失に求め、政府自ら指導的に「よき価値観」を再構築しようとした (安倍,2006:202-206)。こうまとめたうえで、安倍は「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」と意気込む (安倍,2006:207)。重要なのは、その際に自身の理想を表現したものとして安倍が触れているのが、ほかならぬ映画『ALWAYS』だということだ。
安倍は学力の低下よりも「モラルの低下」が教育における問題だとしたうえで、自身が自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」の座長をつとめていたことにも触れながら、日本の教育が「家族のモデルを提示しない」ことを問題視する。以下、なかなか論展開のつかみにくい (というかほぼわけがわからない) 文章だが、一応引用しておく。
「家庭科の教科書などは、『典型的な家族のモデル』を示さず、『家族には多様なかたちがあっていい』と説明する。生まれついた性によってワクをはめてはならないという考えからだ。(…) そこでは[引用者注:家庭科の教科書では]、父と母がいて子どもがいる、ごくふつうの家族は、いろいろあるパターンのなかのひとつにすぎないのだ。
たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、あっていい。しかし、子どもたちにしっかりした家族のモデルを示すのは、教育の使命ではないだろうか。(…)
当たり前のようだが、わたしたちは、若い人たちに『家族をもつことのよさ』『家族のいることのすばらしさ』を教えていく必要があるのではないか。いくら少子化対策によって子育てしやすい社会をつくっても、家族とはいいものだ、だから子どもがほしい、と思わなければ、なかなかつくる気にはならないだろう」(安倍,2006:216-218)。
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ここで安倍は、言外に「子ども」がいる (子どもを産む、ないし産むことができる) 関係性こそが「家族」だとしており、それ以外を「ふつうの家族」から排除している。なぜこうした思想を安倍が掲げるのかは後に (5.2で) 考えることにして、今はこの直後に安倍が『ALWAYS』に触れながら自身の理想の家族・地域イメージを昭和30年代に投影していることに注目しておこう。
先の引用部に続けて、安倍は『ALWAYS』を取り上げ、そこでは「みんなが貧しいが、地域の人々はあたたかいつながりのなかで、豊かさを手に入れる夢を抱いて生きていく様子が描かれる」と評している。とくに安倍のお気に入りなのが、主人公・茶川竜之介がヒロミに対して透明な指輪をプレゼントするシーンだ。安倍はそこにおける指輪を「お金で買えない価値の象徴」なのだと論じたうえで、この映画がヒットしたのはそうしたシーンを通じて「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかけてきたからだ」と熱っぽく語っている (安倍,2006:219-221)。教育に関する文脈のなかでこのエピソードが登場することからも明らかなように、安倍は『ALWAYS』のなかに理想の家族や地域社会、人とのつながりを見出し、それを教育によって「指導的に」「構築」するべきだと示唆しているのである。
さて、ここまでの内容で、本記事にとって非常に重要な一側面が浮かび上がってきた。本記事がここで強調しておきたいのは、安倍が『ALWAYS』から受け取ったものと、『オトナ帝国』でヒロシとしんのすけが強調したものは、かなりの程度まで似通っているということである。安倍は『ALWAYS』の「見えない指輪」というエピソードから、「家族が大切である」「物より心が大切である」という価値観を抽出した。これに対し、前節で述べたように、『オトナ帝国』におけるヒロシは「家族の良さ」を体現する存在として、しんのすけは「物より心」という価値観を伝える存在として描かれていた。要は、『オトナ帝国』は昭和ブームに抗ったにもかかわらず、『ALWAYS』とほぼ同様のメッセージを伝える媒体となってしまっているのだ。レトロトピアに抗ったはずの『オトナ帝国』は、結局のところ安倍の掲げるようなレトロトピアと同じ価値観に到達してしまうのである。
5.2 新自由主義と家族との結びつき
しかし、そもそもなぜ安倍は「家族」というものにそこまでこだわるのだろうか。本項ではそれについて考えていこう。この作業を経たとき、なおのこと「家族」を強調する『オトナ帝国』の是非が判断しがたくなっているはずだ。
新自由主義と「家族」の理想化は、基本的に相性が良い。公共支出削減を狙う新自由主義は多くの場合において社会保障の削減とも関係が深く、そうした削減に際して第一に強調されるのが「自助努力」、第二に強調されるのが「家族による扶助」であるためだ。例えば、先に挙げたサッチャーは、一方で「ヴィクトリア朝的な価値観、伝統」として (おそらくはスマイルズ『自助論』を意識しながら) 自助努力を強調しつつ、他方で「現在、公が行っている老人・障害者・若年失業者の世話、面倒の責任を家庭にもたせる」必要性を強調した (布施,1989)。安倍晋三に関してはいろいろと挙げることができるが、ここでは2012年4月に自民党が公開した「日本国憲法改正草案」に触れておこう *2。改憲草案では、第24条が「家族、婚姻に関する基本原則」と題されており、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」とある。ここで何が家族とされているのかは (条文中に定義が存在しないため) 定かではないが、先に引用した安倍の論に即せば「父と母がいて子どもがいる」関係性のこととなろう。そうした関係性が「自然」だとされたうえで、「互いに助け合わなければならない」と定められているのである *3。菅首相が「自助・共助・公助、そして絆」を打ち出したことも記憶に新しい *4。
このようにして、新自由主義の下では「家族」が一つの思想、イデオロギーとして打ち出されやすくなる。その是非についてここで論じるつもりはないが、前項で述べた『ALWAYS』と家族の理想化、そして本記事3節の内容ともつなげながら、ここから導き出されることをまとめておこう。3節で述べたように、過去をコミュニティとして理想化することは、一方で自分の居場所がなくなったという人に対し強い訴求力を持つ。それゆえに排外主義や多様な在り方の排除へとつながりやすい。他方、ここまでで指摘したように、コミュニティの理想化は自助の次に家族や地域による共助を強調する新自由主義とも親和性が高い。こうして、(コミュニティ主義を軸として) 自分自身はコミュニティや居場所が大切だとしながら、他者に対しては「自分のことは自分でやれ」という、どこか矛盾した思想が成立するのである。
そして、こうした諸要素間の親和性を確認していくと、『ALWAYS』同様に多くの観客が感動した『オトナ帝国』、そこにおけるヒロシの回想やセリフ、しんのすけの姿、それらが発するメッセージを、安直に受け取って感動しても良いのかどうかが、やはり少しずつわからなくなってくる。そうした感動は容易に利用されうるものなのではないか、と。
5.3 余談:『美しい国へ』における『ALWAYS』評はどう読まれたのか
さて、次に進む前に、余談かつ修正を加えておこう。ここまでで本記事は安倍を一つの代表のように扱い、その影響力を大きく見積もってきた。まるで「保守といえば安倍」だとか、「多くの人が安倍のように『ALWAYS』を見た」とか、「『美しい国へ』で述べられたことを多くの人がそのまま鵜呑みにした」かのようなイメージを与えてしまったかもしれない。そこで、ここでは一つの反例を紹介することにしよう。保守も安倍の『ALWAYS』評を鵜呑みにしたばかりではなかった。いくらなんでも美化されすぎた昭和イメージを、明確に誤りであると指摘する者もいたのである。
例えば、保守アニオタとしてネット上で活動する古谷経衡がその一人だ。『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』の第一部「愛国と売国」、第一章「『美しい国へ』から読み解く『愛国のかたち』」において、古谷は安倍を「普通であるがゆえの『凡庸』な感覚をもった」人物と評したうえで、『美しい国へ』における『ALWAYS』評を次のように批判・評価している。かなり長くなるが、『美しい国へ』がどのように読まれたかの一例として引用する。なお、ここではどこか屈折した評価の在り方に注目してほしい。
「『貧しい時代には、損得を超えた普遍的な価値観が存在し、豊かになるにつれてそれが喪失した』という価値観が安倍の戦後日本観を根底から支えているが、(…) どうやらこの映画 [引用者注:『ALWAYS』] で描かれている高度成長黎明時代の日本には、安倍が想定する家族愛という名の『損得を超えた価値観』が存在していた、というのだ。(…)
[引用者注:しかし、公害や交通事故、差別や迫害などの人権侵害は映画中で全く描かれていないのであり、] 要するにこの映画は、『実際の昭和30年代』ではなくて『物語としての昭和30年代』である。そのような事情を無視してこの映画を無批判に絶賛で締めくくる安倍の思想に、私は『普通』にすぎる凡庸な感性を感じるのだ。
私は、『ALWAYS 三丁目の夕日』に感動している安倍を批判しているのではない。この映画が描く『物語としての昭和三十年代』を無批判に受容する、その感性を『凡庸である』といっているにすぎない」(古谷,2015:63-65)。
「[引用者注:安倍が『美しい国へ』において高く評価しているシーンを見て] 私は本作を劇場でみて、他の観客もそうであったように、おいおいと泣いた。
知や理屈ではない。(…) 前述したとおり、『ほんとうの昭和30年代はこんなものではない』などとさんざん書いてきたが、この映画をみて涙を流し、この映画を何のためらいもなく賞賛する安倍は、ほんとうに素直な人だと思う。
この映画をみて劇場で号泣したあと、戦後の日本の社会史を洗い直し『やっぱり昭和30年代には貧富の格差や理不尽な事件や陰惨な差別があった。これを肯定するとはけしからん!』という私のような感性の持ち主のほうが歪んでいる。泣ける映画を泣ける、と素直に胸を張って断言できる安倍の感性は、私のような心のねじ曲がった卑屈な人間からすると、羨ましいほど正直である。
根拠なき「情」に支えられているのが安倍という人間であり、であるがゆえに彼は普通なのだ。美しいものを美しい、というのはごく普通の感性だが、それゆえにその感覚は重要であり、尊重されるべきだ」(古谷,2015:67-68)。
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古谷は我々と同様「戦後の日本の社会史を洗い直」すことで、映画に描かれる像に問題があることを正確に見抜いている。だが、それにもかかわらず、彼は自身が展開する批判を自身の歪みであるとして引っ込めてしまうのだ *5。ここには、繰り返し昭和ブームを政治シーンと結びつけつつ、ユートピア思想の一つとして捉えてきた我々にとって興味深いねじれがある。
第一に、古谷によれば安倍は「普通」の感性を持っており、それを古谷は高く評価している (例えば拉致問題における対応も、安倍が「普通」であったからこそのものであったという[古谷,2015:第一章])。この、(誰にとっての普通なのかはよくわからないが)「普通」だと思われていることを取り上げて、その感情を自身が担いうるかのようにふるまう人物を、ここではポピュリストと表現しておこう。安倍は「普通」を語ることで特定の層の不満を構築しつつも掬い上げた (掬い上げうるかのようにふるまった) のである。なお、古谷はここでいう「普通」を、「知」や「理性」ではなく「情」で動くことだとしている。このように「情」、すなわち感情 (例えば被害感情など) を動員することで、「敵」の存在を強調し、自身への支持を集めるのもまた、ポピュリストの一特徴であろう。
重要なのは第二に、そうした「普通」の「情」を前にしたとき、歴史的な知識に則る批判はしばしば力を失ってしまうということだ。「美しいものを美しい」といえる「普通の感性」が発露されているとき、それに対して歴史的な批判を行うことは歪んでいるとされてしまう。例えば、戦争に関する美談などにもこの傾向がある。特攻隊を描いた美談に対して「知」によるツッコミを入れるのは、その物語に感動した人たちにとっては「野暮」なことでしかない *6。この「野暮」、つまり「おかしいとわかってはいるけれど、わざわざ指摘しないでほしい」という感情は非常に厄介なもので、おそらく昭和ブームにおいてもかなりの程度までこの修正力が働いている。知的な批判は、こうした感情を前にして弱体化されてしまうのである *7。
以上、余談ではあったが、保守論壇で活躍する古谷の論から一つの特徴を抽出しておいた。本記事では保守論壇から浅羽通明と古谷経衡の二人を大きく扱ったことになるのだが、その二人を見ていくことを通じて、現代の政治シーンを考えるうえで重要なことを二つ指摘できたかと思う。一つ目は、3節で述べたように、過去が思想化されているとき (自身の理想を過去に託すために過去像が構築されるとき) には、「それは間違った歴史だ」という批判があまり意味を持たなくなってしまうということ。第二に、ここで指摘したように、「普通」という感性の前でも「それは間違った歴史だ」という批判はあまり意味を持たなくなってしまうということである。過去の過度な理想化は、このような仕組みの下で守られてしまう。
5.4 家族という思想、ヒロシという神話
さて、改めて家族とレトロトピアというテーマに戻りながら、本節で論じたことをまとめておこう。本節では、「新自由主義」や「ポピュリズム」といった現代の政治シーンで散見される諸要素を扱いながら、それらの下では「家族」と「昭和コミュニティ (過去)」が共に理想化されやすく結びつけられやすいことを指摘した。共助の強調は「家族」「地域」というものを理想化することと結びついており、その理想像は大抵の場合、未来に対してではなく過去に対して投影されるのである。こうして、「普通」の家族・地域を取り戻そうという思想が生まれる。
それにしても、「家族」という概念は今日においてどれほど十分に機能しているのだろうか。安倍は多様な家族観に対して「普通の家族」というものを提示するべきだと論じているが、そうはいってみたところで「家族」というあり方が多様化していることに変わりはない。父・母がいて、子どもがいる、安倍がいうところの「ふつうの家族」、その代表であるかのような野原一家は、今日において一般的な存在ではなくなりつつある *8。
それを強く感じさせるのが、近年ネット上で散見されるヒロシに対するシニカルな態度であろう。例えば、2016年に松本ミゾレというライターが書いた「35歳で商社係長、子ども2人にマイホーム――「野原ひろし」にはなれなかった今の30代たち」という記事では *9、ヒロシについて「連載当時としてはさほど珍しくない生活水準ではあるものの、今にして思えば羨ましい環境に身を置く人物だと、しみじみ感じてしまう」とされたうえで、ツイッター上の以下のような反応が紹介されている。
「野原ひろしがすごいのでは無い。野原ひろし程度の男がすごいと思える程度に日本が衰退、貧困化しただけのこと」
*
詳しく調べたわけではないが、この「野原ヒロシは現在の基準でいえば勝ち組である」論は一年に一度程度ツイッターなどに登場し、繰り返し話題となり続けているように見える。そして、これらの言説が示唆しているのは、結局のところヒロシの存在、あるいは『オトナ帝国』におけるヒロシの回想に登場する諸要素自体が、多くの人にとってはすでに幻想となりつつあるということであろう (というか、初めから幻想であった可能性が高い)。田舎から上京し、商社に入り、結婚し、子どもは二人、ペットが一匹、35歳にして既に十分な広さの自宅を構え、係長として年収600万円程度を稼ぐ。妻は専業主婦で子どもの面倒を十分に見ることができ、祖父母は父方・母方とも十分に健康で介護の心配もない。そのような「家族」、まさに自助・共助を行うだけの余力をもった家族は、本当に一部に過ぎない (それどころか、世帯形成のチャンス自体が徐々に失われていっている)。
そして、繰り返しになるが、だからこそ今日、ヒロシに対するアンビヴァレンスな感情が生まれている。家族は、憧れの対象として神話化され、同時に諦めの対象となっていきつつあるのだ。
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参考文献
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———— 2018 『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』(伊藤茂訳) 青土社.
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見田宗介 2008 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』 河出書房新社.
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吉見俊哉 1992 『博覧会の政治学 まなざしの近代』 中公新書.
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——————————— 2013 「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」.
菅義偉事務所 2020 「菅義偉 自民党総選挙2020 政策パンフレット」.
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*1: ごく簡単にまとめると、政府による経済への介入を最小化するために、民営化を進めたり社会保障・富の再配分を縮小していく経済思想である。
*2: この草案は自由民主党の憲法改正推進本部が作成したものであり、その最高顧問を麻生太郎・安倍晋三・福田康夫・森喜朗が務めていた。
*3:現行の日本国憲法24条では「婚姻」の定義などが主な内容となっている。そもそも自民党草案において「憲法」がどのような性質のものとして考えられているのかがよくわからないのだが、とりあえずかなり大きな改変であるとはいえるだろう。 なお、同じく自民党が公開している「日本国憲法改正草案Q&A」では、この条文について説明した箇所 (Q19) で、参考として世界人権宣言16条3項 (「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であり、社会及び国による保護を受ける権利を有する」というもの) が載せられている。要は、「家族は (…) 社会及び国による保護を受ける権利を有する」という条文をわざわざ「家族は、互いに助け合わなければならない」と書きかえているのであり、ここから自民党の姿勢をうかがい知ることができる。
*4: 「菅義偉 自民党総選挙2020 政策パンフレット」より。
*5: 興味深いのは、古谷が安倍の「感動」に対してどこか冷笑的な評価をしながらも、安倍を「普通の人」と評することでその感動をベタに受け止めようとする点であろう。本記事で詳しく扱うことはできないが、こうした冷笑と保守 (ないし愛国というナショナリズム) の共存はそれ自体が重要なテーマとなってきた。例えば北田暁大はスローターダイク『シニカル理性批判』を下敷きにしながら、「2ちゃんねる」などのネット共同体においてしばしばシニカルな態度がナイーブなまでのロマン主義に直結してしまうことを指摘している(北田,2005)。シニカルさを追求することで「知」や「理屈」を追い求めながら、しかしそのようにふるまう自分自身にもシニカルさを徹底させてしまう (安倍の感動を冷笑しながら、そのように冷笑する自分自身を歪んでいると冷笑してしまう)。そうすることで「知」や「理屈」ではなく「情」を評価してしまう古谷の姿勢は、どこか北田が見た「2ちゃんねらー」の姿に近い。
*6: だからこそ、戦時中の報道などはただ事実を淡々と伝えるのではなく、美談・英雄・神話を量産していくのだろう。
*7: 「知的な批判をされたとき、批判された側は修正に応じるべきだ」という期待 (規範的な予期) を互いに持つことは、学術的なコミュニケーションにおいては蓋然性が高い。しかし、それ以外のコミュニケーションにおいてはそうではない。映画やドラマを見るとき学術的な文脈で見ている人はそれほど多くないのであり、むしろそうしたものを語るコミュニケーションにおいて期待されているのは感情の交換である場合が多い (「あの映画、すごく泣けた!」)。感情を交換するコミュニケーションを行う人にとっては、感情を知的に批判することは期待に反する違背行為であり、その責任は期待に反した者へと向けられることになる (「素直に感動できないあの人は歪んでいる!」)。こうして次第に、知的な批判を受け付けない、いわば「感動の共同体」が出来上がっていく。
*8: 野原ヒロシはとくに『オトナ帝国』以降、理想の父親というイメージを担う存在として神格化されていった。例えば、「理想のパパキャラクター」を尋ねたアンケートでは、「結婚生活が楽しめそうなパパキャラクター」「おでかけや旅行を一緒に楽しめそうなパパキャラクター」「理想のパパだと思うパパキャラクター」の全てで野原ヒロシが一位を獲得している (じゃらんニュース「「理想のパパキャラ」ランキング発表!3冠を達成したのは、あの人気アニメのパパ!」[https://www.jalan.net/news/article/346596/ 2020/12/31参照]。アンケートは「インターネット調査/調査時期:2019年4月12日(金)~15日(月) /調査対象:47都道府県在住 20~30代女性/有効回答数:2,032名(MA)」)。その他、野原ヒロシを「理想」の存在とする記事は、ネット上に多く存在している。マンガなど作中ではうだつの上がらない安月給のサラリーマンとして描かれているヒロシは、いつの間にか「理想のパパ」イメージを担う存在になっているのだ。そして、このように神格化されればされるほど、その存在が一般的ではないことが逆説的に強調されていくことになる。
*9: キャリコネニュース「35歳で商社係長、子ども2人にマイホーム――「野原ひろし」にはなれなかった今の30代たち」(https://news.careerconnection.jp/?p=24075&page=2 2020/12/31参照)。