世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

『オトナ帝国』というレトロトピア (おわりに):『オトナ帝国』の今日における価値と限界

おわりに:『オトナ帝国』の今日における価値と限界


 さて、本記事では冒頭で『オトナ帝国』の今日における価値と限界を確認していくという目標を提示した。これを意識しながら、本記事を通じて明らかになったことをまとめておこう。





 第一節では主に昭和30年代ブームの説明に終始した。しかし、そこからも部分的に明らかになったことがある。昭和ブームは、ある程度形を変えつつ今も存在しているということだ。そのキーパーソンが山崎貴という人物であり、彼は『スタンド・バイ・ミーどらえもん2』や西武園遊園地リニューアルを通じて、今日も「価値観が激しく変化していかざるを得ない現代」において「明るくて温かい昭和」という価値観を提示し続けている (西武園遊園地ホームページ)。

 第二節では、昭和ブームにおいて昭和が過剰に理想化されていること、その背景には高度経済成長期以降の経済状況と当時連発された国民的イベントがあったことを指摘した。とくに高度成長期以降の経済状況については重要で、これは (失われた30年とすら言われるようになった) 今日においても、高度成長期を過度に理想化する機運は潰えていないということを示唆していよう。高度成長期に開催された過去のイベントとは異なる意味づけがされている以上、これから開催される東京オリンピック大阪万博をどう意味づけるかは慎重であるべきだが *1、「あの明るい未来、明るい日本をもう一度」という意識は未だ政治家たちの間にも根強く残っている。例えば、以下の安倍晋三の発言のように。この国は未だに、東京オリンピックがあって大阪万博があった、あの時代の亡霊にとりつかれているのかもしれない。


「映画「三丁目の夕日」が描く半世紀前の日本は、みんなが今日よりも明日は良くなると信じ、明るく前を向いて生きていた時代でもあります。そうした先人たちが高度成長の大きな原動力となったことは間違いありません。しかし、長く続いたデフレによって日本人は大きく自信を失いました。日本はたそがれを迎えているといった議論すらありました。
 日本を取り戻す、それは日本人が自信を取り戻すこと、頑張れば報われるという社会を取り戻すことにほかなりません。政権交代から二年、国民の皆さんの努力によって、雇用も増え、賃金アップも実現しています。やればできるという自信がようやく生まれ始めています。五十年先もずっと夕日はきれいに違いないと、あの映画のラストシーンのごとく子供たちが日本の将来に自信を持つことができる、そんな日本を国民の皆さんとともにつくり上げていく決意であります」(2015/1/28 第189回国会参議院本会議 安倍晋三発言)



 第三節ではもう少し『オトナ帝国』の内容へと踏み込んで、イエスタディ・ワンスモアの思想を分析した。彼らは昭和を過剰に理想化 (レトロトピア化) し、それに人々を惹きつけることで理想の社会を実現しようとした。その際、昭和像の核となったのがコミュニティ主義である。彼らは人々に居場所を提供する、流動性の低い社会を理想のものとして提示したのだ。そして我々は、そのようなコミュニティの実現は自己と他者の自由を制限する排外主義的な態度につながりうることを確認した。二節の内容を絡めるならば、ここに経済が失速し他国との競争に敗北していく日本が抱える危うさが表れているといえるかもしれない。「希望があり居場所があったかつての時代」を理想化することは、「成長という希望と居場所を奪ったあいつら」を敵視することと部分的につながっている。

 これを確認したうえで第四節では、『オトナ帝国』で提示される勝利が、実は今日において容易に飲み込みがたい側面を持っていることを指摘した。ヒロシとしんのすけはイエスタディ・ワンスモアの思想を継承しており、いわばこの映画は「昭和」というコミュニティへの憧憬に対して「家族」というコミュニティのすばらしさを提示しているだけなのである。それは公開当時であれば十分な説得力を持っていたかもしれないが、現在の状況をふまえるとなかなか首肯しがたいものであるといえよう。

 そして、その首肯しがたさへと接近しようとしたのが第五節であった。ここでは、昭和ブームが家族の理想化に、新自由主義が家族による共助の強調に、そしてレトロトピアが新自由主義に結びついていることを指摘した。これらの要素は一見バラバラに見えるものだが、部分的な親和性をもって結びついている。すでにヒロシという存在が理想のもの (実現しがたいもの) となってしまった現代においては、父・母・子を持つ家族を「ふつうの家族」だと強調し、そこに「日本」を担わせようとする思想を無批判に受け止めることは難しいだろう。『美しい国へ』においてそれが昭和の理想化にも結びつけられていたこと、昭和ブームがしばしば家族の美しさを強調し家族を神格化してきたことも踏まえると、レトロトピアを批判する本記事にとって尚更それは受け止め難くなる。



 以上が本記事で指摘したことのまとめである。経済の停滞、国民的イベント、過剰な昭和の理想化、レトロトピア、家族の神格化、新自由主義、自助・共助の強調……本記事は、これらの親和的な結びつきを指摘してきたことになろう。これらすべての要素は十分な理路をもって結びついているわけではない。それゆえ本記事の論には各部分において相当な無理があるのだが、それでも各要素はいわば家族的には結びついている *2。十分な時間がないことと私の力不足もあり、またすでに単独の記事としてはあまりに手を広げすぎていることもあるため、各要素についての考察は不十分ながらもここで打ち切らせてもらう。

 最後に、『オトナ帝国』という作品に対する、本記事なりの評価をまとめておこう。『オトナ帝国』はレトロトピアに抗う作品であったにもかかわらず、コミュニティという甘美な理想には抗えなかった。ケンの思想に共感する「オトナ」も、ヒロシの回想に涙する「大人」も、同じ磁場へと囚われている。どちらも流動的な関係性から、固定化された関係性へと戻っていくことに、感動を見出しているのである。

 もちろん、少なくともかつては、ヒロシの回想は大人になるにあたっての「諦め」と、そうすることで手に入る「ささやかな日常」の尊さを突き付けるものであったはずだ。その「諦め」の部分にこそ観客は感動したのだと思うのだが (そして私も感動したのだが)、今日においてはその「諦め」を経て手に入る「ささやかな日常」すらも、遠い理想となってしまったのである。我々はずいぶん遠いところに来てしまった、ということであろう。

 そして、もう一つ強調しておこう。「家族」というものも、「あたたかい地域」といったものも、それ単体としては悪いものではないように見える。映画などの作品についても、「感動できるものに感動して何が悪いのか」という考えもあろうし、究極的には「感動できればそれが事実と異なっていても問題ない」と考える人もいよう。しかし、たとえ一つ一つは「良い」ものに見えても、それが何とつながりうるのかは慎重に見極める必要がある。また、「泣ける」映画を相手にするときには、尚更慎重に、一つ一つの要素を検討していく必要があろう。そうすることで、その作品の真価と限界を見出すことができる。

 『オトナ帝国』という映画に対してそのように向き合った本記事は、以上のとおり『オトナ帝国』が現代社会の様々な側面を反映させる先見性を有していたことと、それにもかかわらず物語構造上の限界を抱えていることを指摘し、コミュニティを理想化する思想の強力さを確認した。それが本記事の成果である。そして、末尾に余談的な展望を付け加えさせてもらうなら、こうしたコミュニティの理想化に対しては、コミュニティの現実を探る社会学という学問が大きな意味を持ちうる。歴史や家族について調査を続け、その像を修正し続けるのが社会学の役割の一つなのだから。どれほど思想家が理想を語り、感動の共同体が批判を拒んだとしても、妥当な社会像とは社会学などを通じて明らかにされていく現実、それに即したものであるべきだろう。




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参考文献
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安倍晋三 2006 『美しい国へ』 文春新書.
市川考一 2010 「昭和30年代はどう語られたか “30年代ブーム” についての覚書」in『マス・コミュニケーション研究』,76号.
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大塚英二 1996 『彼女たちの連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』 文藝春秋.
加瀬俊和 1997 『集団就職の時代 高度成長のにない手たち』 青木書店.
北田暁大 2005 『嗤う日本のナショナリズム』 NHKブックス.
———— 2011 『増補 広告都市・東京 その誕生と死』 ちくま学芸文庫.
攝津斉彦 2013 「高度成長期の労働移動 移動インフラとしての職業安定所・学校」in『日本労働研究雑誌』,No634.
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武田晴人 2008 『高度経済成長』 岩波新書.
バウマン 2017 『コミュニティ 安全と自由の戦場』(奥井智之訳) ちくま学芸文庫.
———— 2018 『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』(伊藤茂訳) 青土社.
日高勝之 2014 『昭和ノスタルジアとは何か 記憶とラディカル・デモクラシーのメディア学』 世界思想社.
福田恆存 1961 「消費ブームを論ず」(in 1987 『福田恆存全集 第5巻』 文藝春秋).
布施晶子 1989 「イギリスの家族 サッチャー政権下の動向を中心に」in『現代社会学研究』,2巻.
古谷経衡 2015 『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』 PHP新書.
町田忍  1999 『近くて懐かしい昭和あのころ——貧しくても豊かだった昭和30年代グラフィティ』 東映.
見田宗介 2008 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』 河出書房新社.
矢部健太郎 2004 「ノスタルジーの消費 映画『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』分析」in『ソシオロジカル・ペーパーズ』,13号.
柳美里 2014 『JR上野駅公園口』 河出書房新社.
吉見俊哉 1992 『博覧会の政治学 まなざしの近代』 中公新書.
———— 2009 『ポスト戦後社会』 岩波新書.

国土交通省 2006 『平成18年度 国土交通白書』.
自民党憲法改正推進本部 2012 「日本国憲法改正草案」.
——————————— 2013 「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」.
菅義偉事務所 2020 「菅義偉 自民党総選挙2020 政策パンフレット」.




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*1: 例えば、1970年の大阪万博は「人類の進歩と調和」をテーマとしたが、2025年の大阪万博は「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとしている。

*2: 家族的類似については以下の記事の注3にて ( 歴史における諸概念とどう向き合うか - 世界史を、もう少し考える )。  余談だが、記号学者にして小説家であるウンベルト・エーコは「永遠のファシズム」という題で知られる講演で、ファシズムにおいて家族的に結びついている諸要素をいくつか抽出している (エーコ,1998:45-58)。エーコによればファシズムを特徴づける第一の要素は「伝統主義」であり、第二にそれは「モダニズムの拒絶」をふくんでいる。また、第四には「批判を受け入れることができ」ず、第六に「個人もしくは社会の欲求不満から発生する」。また、第七にファシズムはそうした欲求不満を受けつつ、「いかなる社会的アイデンティティをもたない人々に対し、(…) 全員にとって最大の共通項、つまりわれわれが同じ国に生まれたという事実」を強調する (これは「コミュニティ主義」の話に通じるだろう)。 エーコは全部で14個の要素を挙げているが、後半8~14個目までは軍事的な要素 (ファシズムがどのように敵を創造し、市民に対してどのような教育をほどこし、どういった政治を行うかといったもの) なので、主に1~7個目までに挙げられているものがファシズムを生みだす土壌、ファシズムの根と呼んでも良い基本的な要素であるといえよう。そのうちの5つがどこか本記事で指摘した事柄と似通っていることは、興味深い。