世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

論文紹介 : 大久保桂子「戦争と女性・女性と軍隊」(1997)

 『講座岩波 世界歴史25 戦争と平和』(1997) より「戦争と女性・女性と軍隊」を紹介します。16世紀常備軍の姿を思い浮かべるにあたって参考になる論文です。

 戦争と女性というものを考えるときに、私たちは「銃後の貢献」をする姿を思い浮かべがちです *1。しかし、女性と戦争のこうした関係は普遍的なものなのでしょうか。実のところ「戦争と軍隊が女性にとって「他者」となるのは、19世紀以降のこと」であり、「それは軍隊による女性排除政策の結果」だった、というのが本論文の内容です (:207)*2。本論文は、その過程を16世紀の常備軍にまでさかのぼりながら描き出します。






 16世紀から少なくとも18世紀まで、軍隊とは「その正確な構成人員数さえつかめない、きわめてオープンな『企業体』」であったと大久保はいいます。食料や物資の調達などは部隊長の裁量に任され、兵隊の補給源は余剰人口たる失業者でした。「16世紀の『常備軍』の内実は、戦争を商売とする実業家が、社会の底辺で生活を維持できずにいる労働者を雇い、戦利品を主な利益として期待する、いささかギャンブル的な企業体の連合であり、『国家』はこの企業体に戦争という『業務』を委託し、最低限の保証金を支払ったにすぎない」(:212-3)。

 これら軍隊は、ときに数万人という規模で戦地を進軍します。そうした規模の移動人口を各都市が養えるはずもないため、軍隊には補給業務やサーヴィス業務を担う大量のキャンプ・ファロア (軍属) が付随していました。そして、そこには当然女性の姿もあります。兵士の妻、あるいは売春婦として。当時のヨーロッパでは、キャンプ・ファロアの女性は売春婦の代名詞でした。しかし、実際には (夫を戦地で失う可能性がある以上) 兵士の妻と売春婦の境目は曖昧なものであったと考えられるでしょう (:214-217)。



 ところが、やがて19世紀になり軍が整備されていくと、兵士の妻は「軍が正式に要員と認め、その扶養の責任も軍が負う」、「従軍妻」として記録されるようになっていきました (:219)。イギリスなどでは「従軍妻は100人に対して6人とする」といった内容の規定まで現れ、その過程で女性の選別が行われていきます。「売春婦」「不道徳な女」などは軍が扶養すべき存在ではないとされたわけです。

 そして、「従軍妻」の人数が限定された以上、兵士の妻にも大きく二つの道が残されることとなりました。幸運にも従軍妻枠に入るか、それとも「銃後の妻」として連隊の外においやられるか。そして、当時は家族扶養手当なども存在しなかったため、後者となった場合の生活基盤はとても不安定でした。おそらくはそうした「銃後の妻」が選んだ季節労働のひとつが「売春」であったのだと考えられます。「軍隊による女性の選別が、兵籍外の『銃後の妻』の困窮を必然化し、兵士を対象とする売春婦の恒常的な供給源となっていた」のです。「当時の救貧行政の担当者も、『銃後の妻』が売春婦に転落することを防ぐために、軍隊に再三にわたって扶養を訴え」ました (:222)。



 やがて、「従軍妻」であっても勤務地への同行が許可されなくなっていきます。ヨーロッパの各国が「近代化」を推し進めた19世紀後半になると、キャンプ・ファロアとその女たちは姿を消しました。

 それとともに、軍隊に生きた女性たちの記憶も忘却のかなたに消えた。そして皮肉にも、イメージとしての『軍隊の女』は、ほぼ排他的に『売春婦』と結びつけられて、ヨーロッパ人の脳裏に刻まれることになったのである。(:223)

*1:とくに総力戦体制下において、女性は「銃後の支え」であるとされてきました。

*2:ただし、軍隊が女性を完全に排除したわけではありません。看護師・衛生兵としてはもちろん、戦士として女性が従軍をしていた例もあります。例えばアレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』といった書籍でも、第二次世界大戦期における女性の従軍が描かれています。女性は、軍隊内に存在しなくなったのではなく、「見えなくなった (存在しなかったものとして扱われた)」のだといえるでしょう。軍隊と女性の関係については、そうした点も踏まえながら、もう少し慎重に論じた方が良いかもしれません。