世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

『オトナ帝国』というレトロトピア (第二節):なつかしさを共有できる「未来」

2. なつかしさを共有できる「未来」




 それにしても、オトナたちはなぜこの時代に惹きつけられるのか。もちろん、ノスタルジーを感じることに理由などないのかもしれない。例えば私は昭和30年代を生きたことがないにもかかわらず、『オトナ帝国』で提示されるイメージにある種のノスタルジー、「なつかしさ」を感じることができる。そこに、昭和30年代を経験したかどうかは関係ない。

 しかし、「なぜほかの過去ではなく昭和30年代がブームとなったのか」、これは問われるべきものであるはずだ *1。なぜ、オトナたちは、ほかでもなくその時代に惹かれてしまうのか。これを理解するためには、当時の社会状況にまでさかのぼっていく必要がある *2



2.1 高度経済成長期の虚像

チャコ: ここに来るとほっとする。


ケン  : ここには外の世界みたいに、余計なものがないからな。昔、外がこの街と同じ姿だったころ、人々は夢や希望にあふれていた。21世紀はあんなに輝いていたのに。今の日本にあふれているのは、汚い金と燃えないゴミくらいだ。これが本当に、あの21世紀なのか。


チャコ: 外の人たちは、心がカラッポだから。物で埋め合わせしているのよ。だからいらないものばっかり作って、世界はどんどん醜くなっていく。


ケン : もう一度、やり直さなければいけない。日本人がこの街の住民たちのように、まだ心をもって生きていた、あのころまでもどって。


チャコ: 未来が信じられたあのころまで。


 高度経済成長期は、「未来が信じられた」時代であったと良く言われる。簡単に経済史をおさらいしておこう。1950年代前半、日本は朝鮮戦争の特需にのっかる形で国内の工場生産を活発化させることに成功。こうして景気が好況になったのち、1955年から1973年には年平均10%前後の経済成長を記録した。一般にはこの期間を高度経済成長期と呼ぶ。この成長率は日本経済史上類を見ないものであり、1968年には日本がアメリカに次いで世界2位の経済大国となっている。

 こうした概説からのイメージで、高度経済成長期は「働けば働くだけ成長できた」「たとえ苦しくても夢と希望にあふれていた」時代だったと信じられている。先に紹介した『ALWAYS』評のように、昭和30年代ブームもこの時期をそのような時代として積極的に表象しようとしてきた *3。また、そのブームのなかで受け手側も、「あの頃に戻りたい」という気持ちを膨らませていったのである。例えば浅岡隆裕は2003年に百貨店で開催された『近くて懐かしい昭和展』、その出口に置かれた感想ノートから次のようなコメントを書きとっている (浅岡,2004)。


「37年生まれだからちょっと懐かしい。今なんかよりもずっといろいろと不便だったけど、あの頃は良かった…。あの時代に戻りたいね」


「もっと皆人や物にやさしかったなと思う。あの頃を知っている私たちはしあわせかな。今の子は本当にかわいそうに思う。(…) 今度は子どもと来ます。“自慢” します」


「胸がワクワク昔はなつかしい景色に涙が出ました。子どもたちにも見せたい。またこんな時代に戻りたい、戻したいと思った」


「昭和30年代、日本が一番良かった時代に戻れて楽しかったです」


 ここに並ぶ感想と、『オトナ帝国』で描かれるノスタルジーとの間には、確かな共通点がある。

f:id:sekainorekisi:20201231215402p:plain
1963(昭和38)年11月17日、建設中の国立代々木競技場第1体育館 (朝日新聞ビジュアル年表 写真と映像でふりかえる戦後70年」 2020/12/31参照)






2.2 高度経済成長期の実像

 さて、いうまでもないことではあるが、「夢と希望にあふれた輝かしい高度経済成長期」といったものは、つくられたイメージに過ぎない。本項では高度経済成長期の像を、昭和ブームとは異なる形で描きなおしていくことにしよう。それによって、過度に美化されてしまったイメージを修正していく (以下、高度成長期ついては主に[武田,2008]を参照)。

2.2.1 くりかえす倒産の波

 第一に、「高度経済成長期」といっても、その間には成長率の低い時期、いわば経済の調整期間がたびたび存在していた。これは、1960年代前半までの日本経済が外貨蓄積の少なさという大きな制約を負っていたことによる *4。経済成長のためには原材料・設備機械の輸入が必要であるにもかかわらず、それを獲得するための外貨が日本には足りなかったのだ。そのため、一定期間の好況を経験すると原材料等の輸入が超過してしまい、貿易収支が悪化、ひいては景気が後退しはじめるというサイクルを景気はくりかえすことになる。いわゆる「外貨の天井」の存在が、投資と蓄積を交互に繰り返す「ストップ・アンド・ゴー」方式の景気政策を日本に強いたのである。そして、これに対応するように、中小を中心とした企業倒産が波のように繰り返し訪れた *5。「高度経済成長」という言葉の下で見えにくくなってはいるが、成長は当然のことながら一直線ではなく、そのなかで苦しんだ人たちがそれなりにいたということだ。『ALWAYS』の舞台となった1958年 (昭和33年) も、いわゆるなべ底景気の時期にあたる。

2.2.2 国民所得倍増計画がもたらしたもの

 第二に、国民が未来への希望を持てたことの根拠として池田内閣の「国民所得倍増計画」がたびたび挙げられるが、この政策は実施後すぐに限界が露呈した。先に「国民所得倍増計画」について説明しておくと、これは1960年末に閣議決定された諸政策のことを指し、10年間で日本の国民総生産を二倍にすることを目標としたものであった。安保問題で揺らいだ政治的支持を経済政策によって回復させようと目論むこの未来計画は、選挙の時期においては功を奏したようだ。少なくない有権者が、確かに「明るい未来」に賭けたのである。

 しかし、経済成長はインフレ (物価の高騰) を招く。「1961年だけでも、3年前に値上げされたばかりの国鉄の運賃が再値上げされ、食パンが400グラム30円から35円、牛乳1本が14円から16円、豆腐400グラムが18円から24円、理髪料が170円から200円などの値上げが記録された」(武田,2008:113)。そんなに急には給料が増えない国民たちにとって (ましてや経済循環に翻弄された中小企業の人びとにとって)、「国民所得倍増計画」はむしろ生活を苦しくさせるだけのものであった *6

2.2.3 集団就職者が経験した高度成長期

 第三に、「確かに苦しかった。でも、苦しくても未来に希望を持てたんだ」「貧しくても、明るい時代だったんだ」という見方もあろう。しかし、これに対しても、未来に希望をもって何かを楽しめたのは、実際には一部の人たちだけだったという可能性を指摘しておこう。特に、都市部において貧しい生活を送った人たちの多くを占めた、集団就職者について見ていく。

 当時の日本農村部では生産に対して人口が過剰であり、農地も限られていた。これがプッシュ要因となり、1950年代後半には次男・三男が就職先を求めて都市部に大量流入していく。この社会移動のパイプとなったのが「集団就職」であり、多くが中卒者であった彼らは「集団就職列車」に乗って単身で都会へと移動した。いわゆる「金の卵」である。次の図表は「各都市圏への転入超過数」の推移を表したものだが (「平成18年度 国土交通白書」,図表Ⅰ-1-2-5)、昭和30年代の3大都市圏で転入超過数が40万~60万人を超えていることを見るに、相当な数の人々がこの時期都市圏に集まったといえるだろう *7。映画『ALWAYS』でもその姿が描かれていたように、集団就職者は当時一般的な存在であった。


f:id:sekainorekisi:20201231214720p:plain


 成長期をむかえた都市部では彼らへの需要がかなり高くなり、1960年には求人倍率が急上昇、彼らは「カズノコなみの希少価値だ」といわれるようになる。しかし、そのように引く手数多な状況であったにもかかわらず、集団就職者の生活は決して輝かしいとは言い切れないものであった。彼らの多くは大都市圏の中小工業に就職したのだが、労働条件・生活条件はともに芳しいものではなかったという。


「地方出身者は (…) 都会出身者が就業しようとしない小店員や軽工業・雑業的製造分野に入っていかざるをえなかった。しかしそうした雑業分野では、世帯を形成して安定的な生活を送る条件は乏しく、とくに住込労働者については、雇用主の側も中卒後の独身期間=10年間前後だけ雇用するといった場合が通常であった。地方出身者の多くが自営業主として独立する意思をなお強く持たざるを得なかったのは、このためであった」(加瀬和俊『集団就職者の時代』,[武田,2008]より孫引き)。



 彼らの生活を描いたものとして、「永山則夫事件」を扱った見田宗介『まなざしの地獄』(河出書房新社,2008) がある。少し長くなるが、内容を紹介しておこう。

 まず「永山則夫事件」とは1965年に青森から東京へ集団就職した永山則夫が、1968年に起こした連続射殺事件である *8吉見俊哉はこの事件を次のようにまとめたが、これを読むと高度成長期における集団就職者の苦悩、その一端を理解できるかもしれない。「事件当初、同時代のマスコミは、豊かな社会のなかで自分の暴力性をもてあましたガンマニアの犯行ではないかと推測したが、実際のところはまったく異なっていた。むしろ永山は、そのような豊かな社会の一員にどうやっても加わることのできない者の疎外感、高度成長がもたらす『豊かさ』からどうしようもなくこぼれ落ちてしまった者の飢えを抱え込んでいた」(吉見,2009:100)。

 見田宗介『まなざしの地獄』は、その永山則夫が都市のなかでどのように他者のまなざしを経験したかを描く名論文である。見田がまず指摘するのは、金の卵として迎え入れられた集団就職者が「誇りをもった人間」としては扱われなかったということだ。「彼らを、まさしく『金の卵』という、〈価値ある〉物質存在とし歓迎する都市の論理にとって、この物質に付着する自由=存在は、一つの余剰であり『当惑させるもの』であり招かれざる客なのである。(…) 『金の卵』としての彼らを、人手不足の雇用者たちは、優遇し、ちやほやし、『はれものにさわるみたいに』大切にするだろう。だがあくまでもそれは彼が、『やる気をもった家畜』として忍耐強く働く〈若年労働力〉たるかぎりにおいてである」(見田,2008:20-21)。こうした側面は、先に引用した加瀬の文章に登場する、「世帯を形成」させず「独身期間」のみ雇用するといった扱いにもよく表れているだろう。集団就職者は、都合の良い労働力だったのである。

 そして、高度成長期は「人々が地域に根差しており、人間関係が濃密な温かい時代だった」などと回想されることも多いが、集団就職者や当時の中卒者の状況を見ていくと、これも偏ったイメージであることがわかる。見田が紹介しているデータでは、1967年の中卒就職者のうち52%が3年以内に転職し (高卒は54%)、そのうちの半分近くは1年以内で転職していたという (前掲:24)。永山則夫もまた、上京して就いた仕事を6か月でやめている。理由は非常にささいなこととされており (寮の掃除当番をさぼったことを部屋長に叱られた)、この理由のなさこそが「都会における彼らのその時どきの生活の、必然性の意識の希薄、存在の偶然性の感覚、関係の不確実性、社会的アイデンティティの不安定、要するに社会的存在感の希薄を暗示」している。他方で、二回目の転職 (職場に提出した戸籍謄本から網走刑務所生まれだと決めつけられたこと) は、彼の存在を「出生地」へと冷淡に結びつけるまなざしの存在を示唆していよう (前掲:27-31)。要するに、彼ら集団就職者は存在を出生地へと結びつけられた「田舎者」であり、かつ「都会」に根を持たないからこそ転職を繰り返す、そういった者たちだったのである。見田はそのような者たちを「家郷喪失者」と表現したのだが、そうした家郷喪失者たちが多く存在していたであろうことは、先に挙げた「人間関係が濃密な温かい経済成長期」というイメージに対する十分な反例となろう *9

2.2.4 「明るいお祭り」から排除されたもの

 さて、最後に、「輝かしい未来」イメージを提示する「明るいお祭り」としての大阪万博が、その明るさにそぐわないものを排除しようとしてきたことも指摘しておこう。仮に当時の大阪万博が明るく輝いていたように見えても、その明るさは特定のものをはじき出すことによって作られていたのかもしれない。これについては吉見俊也『博覧会の政治学』(中公新書,1992) が端的に記述しているため、やや長くなるがそのまま引用しておく。

大阪万博は、岡本太郎が主張したような『驚きと喜びが混然と存在』する祭りではあり得なかった。たとえば、原爆写真をめぐる一連のゴタゴタがある。テーマ館に展示が予定された原爆写真のうち、被災者の写真に政府から『なまなましすぎる』との横ヤリが入り、展示内容の変更を余儀なくされ、地方自治体館では、原爆や戦争にふれた展示物を、プロデューサーの了解もなく一方的に館側が撤去する事件も起きた。また日本館の歴史展示は、明治から現代へと飛び越えることで戦争の記憶を消去し、『GNP2位』の日本経済の成長ぶりを前面に出していった。さらに、会場入口で署名とカンパを呼びかけた水俣の巡礼団に対しては、協会側はカンパ・署名禁止の規則をタテに、カンパしようとする市民の手を押さえて制止するといったことまで行っている。大阪万博は、一方ではこうした異質なものを排除しつつ、『美と夢と希望』『生命の水』『創造の楽園』といったキャッチフレーズで、企業パビリオンが白々しくも演出する『お祭り』のなかに、無数の大衆の幻想を包み込んでいったのである」(吉見,1992:226-7)。


 成長の夢を描く万博において、戦争の記憶や水俣病巡礼団などは場にそぐわないものだと判断されたのだろう。

f:id:sekainorekisi:20201231220130p:plain
1968(昭和43)年9月、母の胎内で有機水銀におかされ、生まれながらの水俣病の子どもたち。(朝日新聞ビジュアル年表 写真と映像でふりかえる戦後70年」 2020/12/31参照)



 このことをふまえると、改めて高度成長が一部の人たちにとってのみ「明るい時代」であったことが理解できるかもしれない。例えば、公害病の被害者らにとって、その時期はまさに負の時代でしかなかった。また、平等を求める女性や自由を求める若者の声は、「日本が一丸となって経済成長を行う」という姿勢のもとで抑圧されてきた (吉見,2009:3章)。「あの時代は美しく輝いていた」というのは、一部の人のみが (例えば、公害被害を受けなかった者が、男性が、万博を素直に受け入れた子どもが) 抱くことのできる幻想にすぎなかったのではなかろうか。

 もちろん、「実際の昭和30年代がどうだったとしても、“懐かしい” という気持ちに変わりはない」「この “懐かしさ” を味わいたいのであって、別にリアルに再現されているかどうかは関係ない」という向きもあろう。後に触れるように、『オトナ帝国』に住むオトナたちも、決してリアルな昭和30年代に住みたがっているわけではない。

 しかし、過去を過度に美化することに対し警鐘を鳴らすのも、また「大人」の仕事だ。



2.3 「夢の時代だった」と回想したくなる魅力

 さて。以上のような側面を、高度経済成長は持っていた。だから、そこに幻想を抱くのは間違っている。ここまでは良い。しかし、確かに間違っているのだが、それでもなにか幻想を抱きたくなる部分をこの時代がもっているのも事実だ。これは、当時高度経済成長を生きた人びとが何を感じていたかというより、後から振り返ってみたときにその時代がどう見えるのかといった部分の話となる。一体どのような事情が、後世の人々に幻想を抱かせるのか。

2.3.1 夢を抱くことのできた最後の時代?

 まず単純な日本経済の話から。大阪万博の後日本はすぐに不況を経験することになった。1973年に第四次中東戦争のあおりを受け原油価格が高騰 (オイルショック)、1974年には田中角栄内閣が打ち出した列島改造論が土地価格を高騰させてしまう。これらの影響から日本は1974年に戦後初のマイナス成長を記録し、不況と物価上昇が同時進行するスタグフレーションの時代に突入した。急激なインフレはパニックを引き起こし、「狂乱物価」という言葉が叫ばれることとなる。

 先に、高度成長期における経済成長は決して一直線ではなかったということを指摘した (2.2.1)。それはたしかに事実であったが、それでもこの時期の日本経済は常に成長し続けていたのだ。あくまでプラス成長を続けるその最中に、一定の波が存在したのである *10。他方、1973年・74年の不況は深刻であり、それらとは比べ物にならぬものであった。インフレにしても、経済が成長するなかでのインフレであればまだ希望を持てるが、不況下のインフレには救いがない *11


f:id:sekainorekisi:20201231220413p:plain
1974(昭和49)年4月1日、ガソリンの節約を呼びかける紙が貼られるガソリンスタンド。(朝日新聞ビジュアル年表 写真と映像でふりかえる戦後70年」 2020/12/31参照)



 さて、その後の日本経済の流れについてもこれまた簡単にまとめておくと、オイルショック後に省エネルギー化を追求した日本は、自動車生産台数を大幅に増やし (1980年末には自動車生産台数が世界一位となった)、アメリカとの貿易摩擦に直面する。貿易摩擦の原因が円安状態にあると考えたアメリカは日本に圧力をかけ、1985年のプラザ合意円高調整を行うよう決定。実際、1987年には1ドル120円台まで円高が進んだ (以前の相場は1ドル240円前後)。こうした急速な円高が輸出産業に打撃を与え、国内景気は低迷。日本は円高不況に突入する。

 この不況に対して日本が打ち出したのが、金融緩和策であった。低金利で貸し付けを行うことで、国内産業を刺激しようとしたのである。ルーブル合意円高進行が抑制されて以降も日本はこの政策を継続し、銀行による過度な貸し付けが横行。こうして生まれた余剰資産が不動産・株式などへと投資されたことにより、日本はバブル景気を迎える。

 バブル期の日本は豊かだった……。そのように考えることもできるし、「あのころの文化を取り戻したい!」と思う人も一定数いるだろう。しかし、おそらくそうした動きは「昭和30年代ブーム」ほどの力は持ちえないのではないだろうか。土地の高騰や物価高騰で苦しんだ人も多かったというのはもちろんだが、そもそも実体経済と不動産などの価格がかけはなれてしまっていたからこそのバブルであり、そうしたいわば「かりそめの時代」に戻りたいという気持ちは、少なくとも大声では主張されにくいと考えられるためである *12。その崩壊が続く「失われた10年」(ないし20年、30年) を生み出したことをふまえれば、それはなおさらであろう。

 このように考えてみると、高度経済成長以降日本は不況に入り、好況のように見えたとしてもそれはただのバブルだったことになる。懐古の対象となりうるような過去の範囲において、大っぴらにみんなで「あの頃はよかった」といえるような時代を探していくと、高度経済成長期 (とくにその前半、まだ経済成長の歪みがあまり顕在化していなかったころ) に行き着いてしまうのだろう *13。例えば、ゼロ年代昭和レトロブームのキーパーソンである町田忍は、2000年に開催された「近くて懐かしい昭和展」図録のまえがきで次のように書いているが、これこそそうした良い時代探し言説の典型例である。


「[日本は]戦後、特に昭和40年代ごろからの急激な効率主義の結果、経済大国になったものの、それは名ばかりのハリボテだったことに、バブル崩壊後、多くの人が気づいたのではなかろうか。すなわち、一見無駄なように思えた多くの事柄の中に、実は必要なものがあったのだったと。21世紀に向けて、何が最も必要かということに関してのヒントが、昭和30年代にあるのかもしれない。さあ、そんな元気だった時代へ、タイム・スリップしてみよう」(町田忍監修『近くて懐かしい昭和あのころ——貧しくても豊かだった昭和30年代グラフィティ』,[高野,2018]より孫引き)。


 さて、本項では高度成長期以降における日本社会の歴史を辿ってきたわけだが、バブルに続く「失われた10年」に関して触れるべきことはあまり多くない。しかし、『オトナ帝国』が空白の10年、その直後に公開されたことには注意を向けても良いかもしれない。景気自体は2002年に一時好況へと転じたが、それでも「ロスト・ジェネレイション」と呼ばれた人たち (1990年代に社会へ出て、就職難などに直面した人たち) が負った傷は小さくなかった。そこではすでに「将来の夢を持つ」などという言葉があまり意味を持たない社会が広がっており *14、そうした状況のなかで『オトナ帝国』は封を切られたのだ。「明るい未来が存在している (ように見えた) あのころ」に帰るか、「夢を持つことのできない今」に生きるかという問いは、そのなかにおいてこそ、より一層大きな意味を持ったのである。


2.3.2 国民的イベントの連続

 以上のほかにも、高度成長期がノスタルジーの対象となった理由は多くあろう。ここでは、「国民的イベント」の連発に触れておく。東京タワー建設、東京オリンピック大阪万博……これらのイベントが、ノスタルジーを共有するためのフックとなる「共通の思い出」を創出していった。「20世紀博」もまた、数々のイベントのコピーとしてつくられていたのである。
 まずは、それらイベントが当時においてどれほど大きな存在感を有していたのか、それを理解するために、『オトナ帝国』でも中心的な位置づけを与えられていた大阪万博の様子を取り上げてみよう。

みさえ : 1970年、大阪で日本万国博覧会、EXPO70が開催された。人類の進歩と調和をテーマに、世界77か国、民間企業・団体が多数参加し、半年間の期間中の来場者は、なんと……6421万人!?
みさえ : これは世界の万国史上最高記録であり、日本史上最大のイベントといえるだろう。


 『オトナ帝国』冒頭でも触れられているとおり、大阪万博は間違いなく日本の歴史に残り続ける規模の祭典であった。当時の日本人口の半数以上が会期中に会場を訪れたという点だけをとってみても、「国民的イベント」と呼ぶにふさわしいものであったといえるだろう。また、多くの人たちがこの祭典に「動員」されたということも、これが「国民的イベント」であったことの証左かもしれない。これもまた吉見俊哉の著書から引用しておこう。


大阪万博に押し寄せた大群衆について考えるとき、前提として、その少なからざる部分が組織的に動員された人々であったことを考慮に入れておく必要がある。(…) 実際、国鉄や農協は徹底した組織的動員を行い、たとえば『富山県の農協は農業人口約10万人のうち6万5千人を万国博へ送りこんだ。ある町では、地元の有力者が駅頭で万国博壮行会をやって激励した。まるで戦時中の出征兵士の見送り風景』(9月9日、朝日) であったという。学校でも、教師の『自主授業』にはうるさい文部省が、できるだけ授業に大阪万博を持ち込むように指導し、教師たちの万博旅行も『休暇』ではなく『研修』扱いとしていった。」(吉見,1992:229)


 国民は、度々国をかけたイベントへと動員される。第二次世界大戦では「戦争」のために、そして今度は「祝祭」のために。

 だが、ただイベントが開かれたというだけでは「共通の思い出」は創出されにくい。各人がイベント会場に赴き、それぞれの仕方でそのイベントを経験してしまうならば、そこには個別のバラバラな経験が残るだけとなろう。それら個別の経験をまとめあげ、イベントの見方を提示し、あるいはイベントに参加していない人びとにも「共有された思い出」を植え付ける仕組みが存在しなければならない。動員はもちろんそうした思い出を生むきっかけとなりえただろうが、より大規模な形でそれを可能にしたのがマス・メディアであった。そして、マス・メディアを茶の間にまで侵入させた装置こそが、テレビである。

 先にテレビの普及に関してまとめておこう。テレビの普及は、常に国民的イベントと共にあった。テレビ・洗濯機・冷蔵庫がまとめて「三種の神器」と呼ばれたのが1955年。当時のテレビは1インチ1万円ほどであり、平均的なサラリーマンの給与から考えると相当に高価なものであった。だが、1959年4月の皇太子妃ご成婚記念パレードの際には店頭在庫が売りつくされたとされ、東京オリンピック開催後となる1965年の普及率は95%にまで届いている (武田,2008:104-5)。オリンピック・万博などのイベントはカラーテレビの普及にも貢献した。

 では、マス・メディアが家庭の中心に入り込んでいくことで、人々の生活はどのように変わっただろうか。あまり詳しく立ち入る余裕はないが、民間放送開局によって多くのコマーシャルが放送されるようになったことの意味はおそらく大きい。それらを通じて「便利な暮らしが実現していく明るい近未来」のイメージが、人々のなかで急速に像を結び出したと考えられるだろう。テレビは、そうした形で、何気なく特定の価値観をお茶の間へ流し込むのである。「国民的イベント」の放送についても同様で、人々は茶の間にいながら国民的イベントの風景と特定の価値観を共有した。例えば、東京オリンピック、その開会式の映像を見ながら、「豊かな社会を実現させていく明るい未来」を思い描いたのだ。時を経てその共有されたイメージは「共有された思い出」へと変化していく。

 要するに、テレビの普及によって、幻想を共有するための社会的条件が整ったのである。当時においては「明るい未来」という幻想を、現在においては「輝かしい過去」という幻想を。

 万博へと話を戻そう。そもそも当時万博に来場した人々は、何を見て何を経験したのだろうか。夏休みには連日50万人以上、会期末には1日85万人の来場者が、決して広くはない会場に押し掛けた。「人、人、人。国際バザールから北大阪急行線をまたいでお祭り広場への約三百メートルの陸橋はまさに『つまったパイプ』。そのなかで、人間はただうごめいているだけ」と伝える当時の新聞記事を読むと (9月6日,毎日新聞,[吉見,1992:227]より孫引き)、ここに押し掛けた人々が一日をかけてもほとんど何も見ることができなかったのではないかと心配してしまう。実際、来場者たちは限られた時間のほとんどを列に並ぶことで使い果たしてしまったようだ *15

f:id:sekainorekisi:20201231215806p:plain
1970(昭和45)年3月21日、大阪万博では、あちこちで長い行列ができた (朝日新聞ビジュアル年表 写真と映像でふりかえる戦後70年」 2020/12/31参照)

 そのような状況のなかで、テレビは決定的な役割を演じた。たとえ会場に行くことができなくても、会場でほとんど何も見ることができなくても、テレビが会場の様子を伝え続けてくれたのである。吉見俊哉によれば、3月15日から一か月の間、NHK大阪万博をテーマにした番組を1510時間に渡って放送した。また、当時は大阪万博の様子を伝えるレギュラー番組がNHK,民放ともに多く設けられ、それらは会期末まで放送されていたという (吉見,1992:231-2)。

 国民的イベントの数々、そしてそれを報道し続けたマス・メディア、それを茶の間へと伝えたテレビ……それらが、共有幻想を抱くためのフックとなりえる「共有された思い出」を、人々のなかに植え付けたのである。

 『オトナ帝国』において、ヒロシは自身が見られなかった「月の石」にこだわっていた。見たものではなく、見られなかったものに憧れるという彼の姿勢自体が、メディアによって作られた万博イメージの強力さをよく物語っている。たとえ会場で何も見られなくても、むしろ見ることができなかったからこそ、その憧れは強く胸を焦がすのである。



2.4 まとめ


 以上で、なぜあの頃が多くの人にとって “懐かしい、戻りたい時代” として想起されるのかを、簡単にではあるが論じた。長くなったのでひとまずまとめておこう。

 『オトナ帝国』は、“高度成長期に戻りたい” というオトナたちの郷愁を扱った映画であった。当時の昭和30年代ブームにおいても、その時代は素晴らしき時代、戻りたい時代として回想されている。高度成長期の社会状況から考えるとそれはあまりに美化されたイメージだったといえるだろう。しかし、それでもその後の日本社会の状況、70年代の不況やバブル景気、失われた10年のことを考えると、そこに戻りたいという感情も理解できなくはない。というよりも、大っぴらに「戻りたい」といえるだけの条件を揃えた過去は高度成長期ぐらいしかなかったのだろう。また、なぜ高度成長期よりもさらに昔には戻らないのかについては、(そもそも自身が経験した時代よりもさらにさかのぼってしまうことになるとか、敗戦の様子が色濃かったとか様々な理由を指摘できるが、本記事では) マス・メディアの影響を指摘しておいた。国民的イベントがテレビによって伝えられ、多くのコマーシャル、そしてアニメなどが人々に共有された。『オトナ帝国』のあらゆる場面にそれらがパロディとして挿入されていることからもわかるように、昭和30年代は「共有された思い出」、一種の「集合的記憶」となっているのである。

 さて、ここまでで、「イエスタディ・ワンスモア」の思想がなぜ多くの人々に共感されうるのか、なにがその思想に人々を惹きつけるのか、いわば、その思想に人々をひっかけてしまうようなフックはどのように生み出されたのか、これを論じた。次の節では、イエスタディ・ワンスモアがそのフックを利用して、何を実現しようとしていたのかを、詳細に分析していくことにしよう。






*****
参考文献
浅岡隆裕 2004 「昭和30年代へのまなざし——ある展示会の表象と受容の社会学的考察」in『応用社会学研究』,46号.
浅羽通明 2008 『昭和三十年代主義 もう成長しない日本』 幻冬舎.
安倍晋三 2006 『美しい国へ』 文春新書.
市川考一 2010 「昭和30年代はどう語られたか “30年代ブーム” についての覚書」in『マス・コミュニケーション研究』,76号.
エーコ 1998 『永遠のファシズム』(和田忠彦訳) 岩波書店.
大塚英二 1996 『彼女たちの連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』 文藝春秋.
加瀬俊和 1997 『集団就職の時代 高度成長のにない手たち』 青木書店.
北田暁大 2005 『嗤う日本のナショナリズム』 NHKブックス.
———— 2011 『増補 広告都市・東京 その誕生と死』 ちくま学芸文庫.
攝津斉彦 2013 「高度成長期の労働移動 移動インフラとしての職業安定所・学校」in『日本労働研究雑誌』,No634.
高野光平 2018 『昭和ノスタルジー解体』 晶文社.
武田晴人 2008 『高度経済成長』 岩波新書.
バウマン 2017 『コミュニティ 安全と自由の戦場』(奥井智之訳) ちくま学芸文庫.
———— 2018 『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』(伊藤茂訳) 青土社.
日高勝之 2014 『昭和ノスタルジアとは何か 記憶とラディカル・デモクラシーのメディア学』 世界思想社.
福田恆存 1961 「消費ブームを論ず」(in 1987 『福田恆存全集 第5巻』 文藝春秋).
布施晶子 1989 「イギリスの家族 サッチャー政権下の動向を中心に」in『現代社会学研究』,2巻.
古谷経衡 2015 『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』 PHP新書.
町田忍  1999 『近くて懐かしい昭和あのころ——貧しくても豊かだった昭和30年代グラフィティ』 東映.
見田宗介 2008 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』 河出書房新社.
矢部健太郎 2004 「ノスタルジーの消費 映画『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』分析」in『ソシオロジカル・ペーパーズ』,13号.
柳美里 2014 『JR上野駅公園口』 河出書房新社.
吉見俊哉 1992 『博覧会の政治学 まなざしの近代』 中公新書.
———— 2009 『ポスト戦後社会』 岩波新書.

国土交通省 2006 『平成18年度 国土交通白書』.
自民党憲法改正推進本部 2012 「日本国憲法改正草案」.
——————————— 2013 「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」.
菅義偉事務所 2020 「菅義偉 自民党総選挙2020 政策パンフレット」.



*****

*1: これまで20世紀博や昭和30年代ブームに対しては、主に消費社会論の文脈から考察が為されてきた (北田暁大『増補 広告都市・東京』[ちくま学芸文庫,2011] や矢部謙太郎「ノスタルジーの消費」[ソシオロジカル・ペーパーズ13号,2004]など)。いわく、それは「昭和30年代を忠実に再現したもの」などではなく、「昭和30年代らしい」記号の羅列なのであり、そこではノスタルジーを感じさせないような要素が徹底的に排除されている。事物がほかの事物と関係を結び、総体として「なつかしさ」を感じさせるようになっているのだと。これはまぁその通りであろう。しかし、これらの説明では、「ノスタルジーを感じさせない要素が排除されている」事態を記述することはできても、そもそもなぜオトナたちが昭和30年代らしきものに引き寄せられてしまうのかは説明できない。本節ではあえてかなり愚直に、当時の社会状況にまでさかのぼってこれを分析していく。  なお、当時の社会状況を追うことのほかにも、「昭和ブームというものがどのようにつくられてきたのか」、いわば「昭和ブームの歴史」を追っていくという方向性もあろう。それについては高野光平『昭和ノスタルジー解体』(晶文社,2018) が1974年から2005年までの昭和愛好を追う形で詳しく論じている。高野によれば、昭和愛好は昭和の最中からすでに始まっており、それ自体長い歴史を持つものであった。そして、各時代の昭和ブームがそれぞれ「子ども文化といえばこれ、街の風景といえばこれ、テレビ番組といえばこれ、というように、昭和文化を表現する方程式のようなもの」を用意したのであり (前掲:281)、そうしたデータベースの存在こそがレトロテーマパーク的空間を可能にしたという。これもまた、“懐かしい” 空間がどのように作られていったのかについての、一つの答えであるといえよう。本記事に関わる範囲の昭和ブームについては、「10章 集合記憶化する昭和」「11章 『懐かしの昭和』の完成」が詳しく、参考になる。

*2: 本節の内容は『オトナ帝国』の分析というよりもむしろ、昭和ブームの分析となっている。『オトナ帝国』のみに興味がある方は適当に読み飛ばしてもらってかまわない。

*3: 市川考一は雑誌・週刊誌の記事から昭和30年代がおおよそどのように語られたかを調べている (市川,2010)。分析と呼ぶにはかなり頼りない論文だが、次のような傾向が確認されたということは紹介しておこう。「貧しかったけど、心は豊かだった」「貧しくても夢と希望にあふれていた」「昭和30年代は日本人の心の原風景だ」「日本人が失ってしまったものがそこにある」。いずれの言説も、昭和30年代を過度に美化する点で似通っている。

*4: 1944年のブレトンウッズ協定以降、1ドル360円の時代が1971年まで続いたことも思い出しておこう。1971年のスミソニアン協定で1ドルは308円に切り下げられ、1973年には変動相場制に移行した。

*5: 当たり前の話だが、オリンピック (1964年) のようなイベントが生む経済効果も一時的なものでしかなく、イベントがひととおり終わった後には景気が不況へと転じた。

*6: 1961年の新聞調査では、国民所得倍増計画が「生活を苦しくさせた」という回答が35%を上回り、「生活を向上させた」という肯定的な評価は8%弱であったという。また、物価の値上がりに対する懸念が強く、物価が上がりすぎたという批判的な声が52%、「もっとひどくなるだろう」との予想が6割近くもあった (1961年10月3日、東京新聞調べ 武田,2008より)。「国民所得倍増計画が未来への希望を生んだ」とは言い難いような状況であったことがわかる。

*7: どれくらいの人口が都市部へと集中していったのかについては (攝津,2013) の図2もわかりやすい。

*8: 事件概要については以下の通り。「1968年(昭和43)の犯行時19歳の少年であった被告人の永山則夫が、米軍基地内で拳銃を窃取し、この拳銃を使用して、東京・京都・函館・名古屋で殺人、強盗殺人および同未遂を犯した」(日本大百科事典「死刑」)。同辞典の項目「永山則夫」にはより詳しい解説がある (コトバンク等から検索してほしい)。なお、永山則夫事件は死刑適用の判断基準が示された判例としても有名。

*9: 柳美里『JR上野駅公園口』で描かれるのも、一つの家郷喪失者の姿である。上野駅恩賜公園のホームレスを扱ったこの小説は、昭和38年集団就職で東京へ来た人物を主人公としている。主人公は、東京オリンピックで使う陸上競技場や野球場などの土木工事に駆り出され、そのようにして働く間に、子どもを失ってしまう。  考えるべき内容をあまりに多く含んでいるため、この小説を本稿のなかで取り上げることはできない。この小説だけで一つの独立した記事が必要になってしまうからだ。例えば、天皇制というものについて、あるいは、二つの東京オリンピック (一つ目のオリンピックは、東京へと彼を引き寄せ、二つ目のオリンピック、それをふまえた再開発や街の浄化は、彼のような人々から生活の場を奪っていく。そうした二つの関係性) について、いつか書けるときが来たら書いてみたい。

*10: 成長のなかで景気循環をくりかえしたので、高度経済成長期の景気の波を成長循環とも呼ぶ。なお、高度経済成長期の日本では、実質経済成長率が5%以下になった場合に景気後退期にはいったと判断していた。それを基準に考えるとマイナス成長の衝撃を理解しやすいかもしれない。  経済循環の話をしたのでついでに触れておくと、東京オリンピック・大阪オリンピックともに、旧イベントから新イベントまでは約50年の期間が空いている (旧東京オリンピック[1964]→ 新東京オリンピック[2020年])。いわゆるコンドラチェフの波に重ななる形で新イベント開催が予定されているわけだが、これはおそらく偶然ではないのだろう。50年スパンで新たな設備投資を行うという社会予測を、実際の社会に適用しようとした結果なのではないだろうか。要は、社会予測を実現させるために現実の社会を動かしてしまおうというわけだ。こういうタイプの (予言の自己成就のような) 動きは、現実においてわりとよくある。

*11: 加えて、1975年には失業者が100万人を突破している。

*12: 「経済成長のころに戻ろう!」と述べる政治家は多いが、「バブルのころに戻ろう!」と述べる政治家は……あまり……いない。大っぴらには。金融緩和でバブルを起こして、「経済が復興した」かのように見せかける政治家ならいるかもしれないが。  また、今後「バブルの文化を楽しもう!」という施設が登場したとしても、それは高度経済成長期を再現する場とは異なる空気を有することになるのではないだろうか。例えば、きらびやかでうすっぺらな文化を楽しむ、いわばキッチュな空間となるのではないか (少なくとも、「バブル期には心があった」と言われはしないだろう)。

*13: もちろん、高度成長期を経験した人びとが高齢になるほど、昭和30年代ブームは衰退していくだろう。では、高度成長期を経験した人がほとんどいなくなったら、昭和30年代ブームは完全に姿を消して再発しなくなるのだろうか。私にはそうは思えない。むしろ、そのときこそ昭和30年代を美化する風潮が力を増す可能性がある。例えば、大戦を経験した人が少なくなり、それを語れる人が少なくなっていくなかで、戦争が安易に美化されてしまう。そういう流れもすでに一部で起きているのだから (日高勝之は昭和ブームを分析する著書のなかで、昭和ブームは戦前と戦後を断絶したものとして捉え、「戦後=良い時代」と無批判に考えるまなざしのもとで成り立つものだと強調しているが[日高,2014]、この見立てにはやや無理がある。戦前・戦中含めて、どの時代も美化されうるし、実際に美化されているのだから)。

*14: 余談だが、アジアンカンフージェネレーションが2010年に公開した「さよならロストジェネレイション」という曲では、「『将来の夢を持て』なんて無責任な物言いも、1986に膨らんだ泡と一緒にはじけたの」と歌われている。リーマンショック後に製作されたこの曲には、経済危機が再び「失われた世代」を作り出すのではないかという危機感 (ないし諦め) が色濃く反映されている。

*15: ちなみに、ディズニーランドやディズニーシーは、一日の来場者数が6万人を超えたあたりから入場制限をかけはじめるという。ランドとシーの合計面積は100ヘクタールほどで、大阪万博会場はこれの約3倍にあたる330ヘクタールである。いくら万博会場が広いとはいえ、12万人対85万人。当然、地獄のような状況になるはずだ……。やはり、多くの人はほとんど何も見ることができなかっただろう。