世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

なぜ、歴史を見る上で抽象的な概念化が必要なのか

 さて、先の記事では政治体を捉えるための抽象的な視点を用意しました。これは歴史に関して何か具体的な事柄を教えてくれるような性質のものではありません。どちらかといえば予備的考察に属するものです。しかし、私は (プロではなくアマチュア的に) 歴史を見ていくうえで、先のように抽象的な概念を練り上げていく作業は必須であると考えています。なぜ、抽象的な概念が必要となるのでしょうか。それを、この記事ではごくごく簡潔かつ暫定的に論じておきましょう *1





 一般に歴史学は、「ある事柄が位置づく固有の文脈」を非常に重視します。例えば、ロックの市民統治二論などは、後に「革命を支える思想」として読まれたわけですが、逆に革命という後に起こった事柄がテクストの読み方を規定してしまった側面もあります。そうした後世の読み方を退けて、ロックがどのような環境のなかで、なぜこのようなテクストを書いたのかを明らかにすること、すなわちそのテクストを作成当時の文脈のなかに差し戻すこと、これなどは歴史家の仕事の大きな一部分です。

 他方で、「固有なものだけを見つめているのが歴史家」というわけではありません。それでは固有の事柄についてただただ詳しくなっていくだけであり、そこから有意義な知見を導き出すのは困難になるでしょう。そのため、歴史家は何らかの概念を用いて事例を記述し、その概念のなかに事例を位置づけていくということも行います。わかりやすい大きな概念としては、「17世紀の危機」や「国民国家」といったものがあるでしょうか。個別の事例について理解を深めたうえで、そうした概念のなかに還元していく。そうすることで、当該概念の理解が深まる。その概念の深まりがまた新たな事例を発見し、事例の理解を深める。その事例の理解には当該の概念が (肯定的にせよ批判的にせよ) 用いられる。そのような形で、行き来を繰り返すのです。



 このときに、どの程度まで抽象的な概念を用意すれば良いのかは難しい問題です。私は、世界史とアマチュア的に関わる (高校世界史のレベルで関わる) のであれば、「比較」を成立させる程度に抽象的な概念を創出することが重要であると考えています。ルーマンという社会学者の言葉をかりれば、「より多くの異質な事態を同一の概念で解釈し、それによってきわめて異質な事態を比較する可能性を保証する」ことが必要であるということです。ともすれば個々の事例の山のなかで固有の文脈に埋もれてしまいそうなくらい、世界史では多くの事柄が扱われます。その山の中から事例を拾い上げて、それを比較し、そこから有意味な知見を拾い出しうる概念。その程度に (固有の文脈から離れた) 抽象的な概念が必要とされるのです。「中範囲の」といっても良いかもしれません *2


 また、歴史家たちの多くは、「近代以降に生み出された概念をそれ以前の社会に適用すること」には慎重になったほうが良いという認識を共有しています。そのためここでの抽象性は、①比較を可能にすると同時に、②時代にあまり制約を受けないレベルであることが望ましいといえるでしょう


 さて、先の記事の「組織」といった概念も、こうような観点から有意義なものだと私は判断しました。① 固有の政治体がどのように「内/外」という区別を用いて作動していたかという視点は、複数の政治体の在り方を比較することを可能にします。また、② その視点は特定の時代に制約されないものであるため、異なった時代や地域の事例を比較することを可能にしてくれます。

 こうした姿勢がどれだけ有意義なのかは比較の事例を増やしていき、そのなかで判断するしかないのですが *3、現時点ではそうした方向性で物事の記述を進めていく予定です。


〈参考文献〉

ルーマン『社会の社会 1』(法政大学出版局,1997=2009)

*1:まだ私のなかでも固まっていない内容なので、今後事例や記事を増やしていく中で、考えを更新していく予定です。

*2:「中範囲の理論」についてはまた別に記事を書きます。また、おそらく保城広至『歴史から理論を創造する方法 社会科学と歴史を統合する』(勁草書房,2015) という本がこういったことを書いていそうなのですが、未読です。

*3:とはいえ、比較という方法がどのような点で有意義であり、どのような点で限界を有するかはそれ自体独立で論じることができます。これも別の記事で書きます。