世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

「国」や「組織」をどのように捉えるべきか ― 自己同一性という指標

 さて、アッシリアに関する記事では、「なぜ1400年も続いたのか」という問いに対して自己同一性の観点から見ていきました。自己同一性とは「自分と他人を区別し、自分が自分であると認識すること」です。先の記事では、アッシリアは土地=神アシュールを軸として確固たる自己同一性 (ほかでもなく、アッシリアであること) を確立し、それゆえに1400年間も (たとえ王朝交代があったとしても) 続いたと説明しました。そして、その同一性を狭い範囲で保ち続けた (バビロニアアッシリア化しなかった) がゆえにアッシリアは滅びたのだと。


 一般に、ある政治体の存続を論じる場合、様々な説明が可能です。例えば防衛力がどの程度あったか、どのような統治体制を敷いていたか、環境がどのように安定していたか。そうしたものからも存続/滅亡を説明できるにも関わらず、なぜ先の記事では自己同一性に注目したのでしょうか。それは、自己同一性という見方が、「国」や「組織」を記述するうえで不可欠なものだからです。




 そもそも組織というものを同定する (他とは区別し、固有のものとして認識する) 際に、絶対に必要な要素はなんでしょうか。「これさえ確認できれば、ほかの組織とその組織を区別することができる」、いうなれば目印のようなものです。それは、特定の場所でしょうか? それとも、特定のメンバー? でも、場所が変わっても組織の同一性は保たれますよね。例えば、バスケ部の活動場所が変わっても、それはそのまま同じバスケ部のはずです。メンバーも同様で、3年生が引退したり1年生が入学をしたとしても、それは同じバスケ部であり続けます。また、これはバスケ部の部員から見ても、そうでない人 (先生やほかの部活の人) から見ても、同様であるはずです。バスケ部であるということは変わりなく同定されます。

 では、改めて組織が組織であることの絶対的要件はなんでしょうか。それは、「内 / 外」の区別が存在していることです。「自分の組織 / ほかの組織」といった区別が存在していて、それに沿って (例えば部活動といった) 活動が行われていたりすること。これが重要なのです。


 さらにいえば、この「内/外」の区別をなにか実在的なもの (例えば国境のように線がひかれたもの) として捉えることにも慎重でなければなりません。国境は頻繁に変わりますし、そもそも国境といった概念が存在しなかった時代も長いです。また、神聖ローマ帝国のように明確な境界を想定できない政治体も多くあります *1。すると、「内 / 外」の区別を何か空間的なものとして捉えることは不適切だということになります。「内 /外」の区別が先にあると考えることも避けることにしましょう。


 では、(「内 / 外」の区別すら前提としないとすれば) 組織というものはどのように捉えれば良いことになるでしょうか。組織自身が、ある営みを、自身の「内」にあるものとして同定する。そのことによって「内」という境界が形成される社会学者のルーマンはそのように考えました *2。わかりやすく言えば、あるメンバーや活動を「内」にあるものとして同定し続けることを通じて、組織というものは存続する (そのようにしてしか存続を確認できない) ということです (佐藤,2011:294-295)。

 歴史について語る場合は、とくにこうした組織観がとても重要になると私は思います。先に述べたように特定の場所・メンバー・境界を要素として組織の歴史を語ることは困難ですし、とくに近代より前の政治体について考えるためには場所 (領域)・メンバー・境界という思考法が邪魔になることもあります。今後も様々な政治体・政治的統合を見ていくことになりますが、その際にはできるだけこの視点に気をつけながら見ていくことにしましょう。


参考文献

佐藤俊樹社会学の方法』(ミネルヴァ書房,2011).

*1:これらについては、そのうちいくつかの政治体を取り上げ、具体的に論じていくつもりです。本ブログのテーマの一つは「世界史上に存在した各政治体をどのように捉えるか」というものであり、アッシリアの同一性について考える記事もこの問いへの答えの一つとなっています。今後も、時間がかかるとは思いますが、なかなかイメージをしにくいいくつかの政治体について、考察を増やしていくことにしましょう。

*2:このようにまとめるとルーマンの意味論を単純化しすぎており、とくに彼がどこに対して、なぜこのような考え方を組み込んだのかといった文脈を無視していることになるわけですが、かなり難解かつここではあまり必要のない話なので、触れません。