中国史における都の変遷と、グローバル・ヒストリーのなかの中国 ③
3. グローバル・ヒストリーのなかの中国史
以上で、中国史を位置づける枠組みを論じてきた。簡単にまとめておくと、ユーラシア大陸を一つのものとして捉える視座が重要であり、とくに東部ユーラシア (中国) の歴史は、その内部事情だけではなく、遊牧地帯と農業地帯の相互作用のなかで捉えるべきだというのが、妹尾の論であった。本節では、その内容をふまえながら、中国史の再記述・整理を試みていく。まず3.1では、グローバル・ヒストリーの視座から見た、ユーラシア大陸の歴史を概観していく。そして3.2以降では、その大きな歴史との対応関係を確認しながら、中国史の各段階を記述していくことにしたい。
*
3.1 グローバル・ヒストリーのなかのユーラシア大陸 —妹尾による世界史の三段階—
妹尾によれば、ユーラシア大陸の歴史は、4~7世紀、16~18世紀という二つの画期を挟んで、三段階に記述できるという (下の概念図は〔妹尾,2018:67〕より引用)。第一期はおよそ前4000年紀~後3世紀前後であり、この時期は初期国家から古典国家が成立していく時期にあたる。続く第二期は4世紀~15世紀頃にあたり、この時期にユーラシア大陸では農牧複合国家が誕生し、ユーラシア史が形成された。そして、16世紀以降から現在まで続く第三期では、沿海地域が主要な領域となるなかで、近代国家が形成され、地球の一体化が進展してきた。以下、その内容を簡単に追ってみよう。
*
3.1.1 初期国家から古典国家へ
人類の文明は、紀元前4000年紀~3000年紀、北緯30°前後の大河川流域から始まる。とくに大河川流域は、河川と陸路の交差する広域交通網の結節地であったことから交易が発達しやすく、また灌漑による大規模農業を行えたことから人口も集中した。こうして、ナイル川流域、ティグリス・ユーフラテス川流域、インダス川流域、長江・黄河流域に、複数都市の連合が生まれていく。こうした緩い政治統合体を、妹尾は初期国家と呼ぶ (妹尾,2018:81)。
これら初期国家をとりまく環境は、徐々にだが、大きく変化していった。前2000年紀末から前1000年紀前半にかけて北半球で寒冷化と乾燥化が進むと、北方にまで拡大していた農業地帯は縮小し、移動する牧畜を生業とする遊牧地帯が広がっていくこととなる (おおよそ北緯40°~50°のエリアが、遊牧地帯に変容していった)。一方で、乾燥に強い栽培植物の育成が可能であった地域では、農業と牧畜が両立・並存するようになった。こうして、ユーラシア大陸上に、農牧境界地帯が形成されたのである (前掲:83)。
寒冷化・乾燥化 (あるいは農業・牧畜技術の発達など) が進むなかで、「遊牧 / 農業」という生業が分化していくと、徐々にその両者の間での交易が盛んになってくる。その結果、ユーラシア大陸の主な交易の場は、大河川流域の北緯30°前後から、農牧境界地帯にあたる北緯30°~40°へと移動していった。また、前1000年紀になると、農牧境界地帯を挟んで遊牧地帯と農業地帯のそれぞれに複数の国家が誕生する。妹尾は、これを古典国家と呼ぶ *1。遊牧地域の古典国家の例としては、ユーラシア大陸西部のスキタイ、中央部のサカ・サロウマタイ・サルマタイ、東部の匈奴などが挙げられよう。他方、これに対応する農業地域の古典国家としては、西部のギリシア・ローマ、中央部のアケメネス朝ペルシア、東部の秦・漢などを挙げることができる。こうして、「ユーラシア大陸には、緯度に応じて生業の異なる地域、すなわち、北から南にかけて、狩猟採集地域—遊牧地域—農牧境界地帯―乾燥地域の農業地域—湿潤地域の農業地域がそれぞれ存在し、とくに、遊牧地域に拠点をおく国家と、農業地域に拠点をおく国家が、農牧境界地帯をはさんで南北に向かい合うように形成された」(前掲:69)。そして、このように、緯度が同じである東西においては同じ生業が、緯度の異なる南北においては異なる生業が営まれていることが、東西方向への奢侈品交易や、南北方向への日常品交易を活発化していく (下図は〔妹尾,2018:12〕)。
*
3.1.2 農牧複合国家の誕生・ユーラシア史の形成
4~7世紀に入ると、遊牧民の移動を契機とする、人間と文化の大移動が起こった (下図は〔妹尾,2018:72〕より引用)。例えば匈奴やゲルマン民族などが農業地域への大規模な移動・侵入を行い、世界史に大きな影響を与えたことはよく知られている。近年の歴史学では、こうした遊牧民の移動は、4~6世紀における地球全体の寒冷化によって引き起こされたと推測されている。気温の低下は牧草の育成に大きな影響を与えるため、寒冷化は遊牧民たちの生活に大きな打撃を与えた。家畜の飼育がとどこおった遊牧民は、徐々に農業地帯への移動・侵入・侵攻を試みるようになり、そうしたなかで農牧の混交が進むこととなる *2。
*
こうした移動期を経て、ユーラシア大陸には、農業地域と遊牧地域を包含する国家 (農牧複合国家) が形成されていく (地球の気温も600年紀~1300年紀にかけて上昇していき[中世温暖期]、そうした環境のなかで、人々が再び定住し安定した国家が育まれていった)。例えば、ユーラシア大陸西部では、ゲルマン民族の移動を経て東ローマ帝国・フランク王国・神聖ローマ帝国などが形成された。中央部では、ササン朝ペルシアのほかにウマイヤ朝などのイスラーム王朝も成立する。東部でも、遊牧民との力関係のなかで、北魏・隋・唐などが登場するに至った (前掲:70-71)。また、とくにユーラシア大陸東部では、農業地域を征服した遊牧系政権によって、農牧境界地帯やその付近に、農牧両地域を統治するための中核都市がつくられていく。そうした都市では、異なる文化を持つ人々を安定して統治する必要があったため、普遍的な法律・宗教・文化が発達した。
また、沿海へと交易地が徐々に移動していったのもこの時期である。妹尾はその一例として、商業ネットワークがソグド系からイスラーム系へと移行したことを挙げている (前掲:125-130)。ソグド人は、農牧複合国家間の交流が盛んになるなかで、ユーラシア大陸中央部から東部にかけて活躍した。彼らは4~8世紀にユーラシア大陸内陸部の商業網をおさえ、地中海から太平洋に至るまでの広域商業組織を作り上げていく。また、ユーラシア大陸の各地域で、商人のみならず政治家・軍人・宗教家・芸術家等としても活躍した記録が残っており、多方面で活発な活動を行っていたと推測される *3。しかし、7世紀以降イスラーム王朝が形成され各地に広がっていくにつれて、商業網の覇権は徐々にイスラーム商人へと移っていった。彼らは内陸商業網だけではなく、9~13世紀にかけて沿海商業網 (いわゆる海の道) を開拓・拡大し、巨大な商業網を形成した。彼らの商業網は、アフリカのサハラ砂漠南縁から、東シナ海の沿岸にまで広がっていたという。
3.1.3 農牧複合国家の解体・再編、沿海地帯の発展
さて、16世紀~18世紀にも、世界史上大きな意味を持つ人・モノ・文化の大移動が起きる。この時期の主役は、西欧諸国であった (前掲:75-76)。16世紀以降、西欧諸国は海路を開拓し、国際商業を掌握していく。また、彼らは技術・文化・宗教のほかにも、動植物・病気・資源などを移動させており、そうした移動が世界の一体化を大きく加速させた。こうして西欧の交易網が東南アジア・東アジアまで伸びていくなか、沿海の諸都市は交易と防衛の要所として、これまで以上に大きな意味を持つようになっていく。
3.2 中国大陸における古典国家の形成 — 秦・漢と匈奴 —
以上で、世界史の三段階を通覧した。中国史の各時代はこの歴史のなかにどう位置付けられるのだろうか。まず、中国大陸における古典国家の形成を見ていくことにしよう (以下、〔妹尾,2018〕をもとにしつつ、世界史上の知識を適宜付け加えて内容を補足している)。
中国大陸に初期国家が成立したのは、主に黄河の中・下流域においてであった。広く形成された邑という集落が、徐々に緩やかな連合体となり、殷 (前16世紀頃~前11世紀頃) へと発展していく *4。その後、前11世紀頃に、渭水盆地を拠点として周が登場し、殷の紂王を破った。周は都を農牧境界地帯上の鎬京におき、氏族制的なシステムを用いて初期国家を統制していく。
しかし、前9世紀頃になると、遊牧地域から度々遊牧民が中国へと侵入するようになる。前770年、西北より侵入した犬戎に鎬京が攻略されると、周は都を洛邑 (洛陽) に移した。そして、この際、鎬京付近の農牧境界地帯を封じられたのが秦国であった。秦は、いわゆる春秋・戦国時代を経て、前221年に中国を統一することになる。しかし、なぜ最も西方に位置した秦が強大な力を得ることができたのだろうか。妹尾は、やはり秦が農牧境界地域に位置したことにその理由を求めている (前掲:86)。西戎に対する防御を目的として封地を与えられた秦は、日常的に遊牧民と交易・戦闘を繰り広げていたと推測できる。そうしたなかで秦は、中国随一の良馬・軍事力・経済力を手に入れたのであろう。
さて、一方の遊牧民族地帯では、前3世紀頃に匈奴統一国家が成立する。こうして前3世紀以降、遊牧地帯の統一国家 (匈奴) と、農業地帯の統一国家 (秦・漢) が向かい合う状況が成立した。なお、秦は前351年に咸陽に遷都し、前207年の滅亡までそこを都城としたが、ここは農業地域と農牧境界地帯の境目に位置している (鎬京・咸陽・長安はほぼ同地域と考えて良い)。秦の始皇帝は匈奴の侵入を防ぐため、戦国時代に築かれた長城を修復・連結して万里の長城を築き、また中央集権を推し進めた。こうして、中国大陸に、「高度な遊牧・牧畜の技術 (搾乳と去勢の体系など) と軍事技術 (騎馬と騎射の技術)」に基礎をおきながら、「オアシス都市の管理と交易の収益と結びついて軍事国家体制を創造」する遊牧地域の古典国家と、「広域の官僚制度、農業と貨幣にもとづく税の徴収制度、度量衡の統一、都城を核とする交通幹線の整備、文字による行政・法律・情報伝達制度、農業に基礎をおく思想の体系、騎兵と歩兵による軍事制度等をもつ」農業地域の古典国家 (前掲:68) が成立した。遊牧地帯と農業地帯のそれぞれに共同体が成立し、その境界地域に中核都市が成立するという構造が登場したわけである。
急速な中央集権化が不満を招き、秦はわずか15年で滅亡する。項羽を破り中国を統一した劉邦は、咸陽の郊外に長安を建設すると、長安近くの軍事要地を直轄地とし、遠方には封建制を敷く郡国制を展開。しかし、冒頓単于の下で強大になった匈奴には勝てず、白登山の戦い以降屈辱的な関係を強いられるようになった。その後、第6代・景帝の際に起きた反乱 (呉楚七国の乱) への反省として、漢は中央集権体制を強化していくようになり、第7代・武帝の際に確立される。武帝は匈奴に対しても積極策を展開し、苦戦の末に匈奴をゴビ砂漠の北まで追いやると、西方に敦煌郡などをおき防衛を強化した。この時期以降、西域の事情が中国にも伝わるようになっていく。
3.3 古典国家の分裂から農牧複合国家の形成へ ― 漢から唐へ ―
武帝との全面戦争以降、匈奴は徐々に衰退しつつあった。1世紀に内乱が起き、ゴビ砂漠を挟んで南北に分裂。やがて北匈奴は姿を消し、南匈奴は後漢に臣属して半農半牧の生活を送るようになった。匈奴なきあとのモンゴル高原では鮮卑が新たな遊牧王朝を勃興し、2世紀半ば頃に部族集団をまとめ上げる。しかし、鮮卑による統合は20年程度しか続かず、以降モンゴル高原を中心とする草原地帯は混乱期に入る。奇しくも、中国本土もまた、2世紀末には後漢が分解していく局面に入ったのだった (古松,2020:26-7)。
ユーラシア大陸の古典国家の多くは、4~7世紀における遊牧民の大移動を契機に解体していく。三国時代を経て再び洛陽を都に中国統一を果たした晋も、南匈奴による永嘉の乱 (316年) で滅ぼされてしまった (南匈奴は、洛陽を攻略したのち、長安まで攻め入り皇帝を捕虜とした)。その後、司馬睿が建業を健康と改め *5、晋を復興 (東晋)。4世紀以降の華北では非漢人・漢人の政権が乱立する時代が続き (五胡十六国時代)、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏が立てた北魏が華北を統一する。
近年の研究によって、当初の北魏は遊牧王朝としての性格を想定以上に色濃く有していたことがわかってきている (古松,2020:29-30)。北魏が都をおいた平城は農牧境界地帯に当たり、彼らはそこで、遊牧民に対しては部族制を、農耕民には郡県制を敷く二重統治を行った。北魏皇帝は遊牧民の風習を維持し、平城にずっと留まるのではなく、夏になると西方の陰山やオルドスに御幸するという季節移動を繰り返したという。祭祀儀礼もまた、祭壇の周りを馬で回るという祭天儀礼であった *6。
5世紀末、北魏は孝文帝 (位471~499年) の下で、都を北方の平城から洛陽へと移し漢化政策を進めた。しかし、これが遊牧部族集団の反感を買う。かつて北魏によって、防衛のためゴビ砂漠の南に配された遊牧民族達は、政権の中心地が南に移ることに反発し、524年に「六鎮の乱」を起こす (遊牧民たちは、北方防衛を任されたがゆえに優遇されていたのであり、政権が南下し漢化することは彼らにとってその地位の下落を意味していた)。この反乱はなんとか鎮圧されたが、北魏政権はこの混乱のなかで内乱を起こして東西に分裂する。六鎮の乱がその後のユーラシア東方史に与えた影響は大きかった。この乱を契機にして六鎮から新興の軍事勢力が勃興し、北斉・北周・隋・唐といった王朝を打ち立てていったからである (前掲:34) *7。彼らは騎馬遊牧民の軍事力を柱としながら、華北に都を置き、中国王朝の制度をとり込んでいった。
農業・遊牧両地域を支配する農牧複合国家が成立しえたのは、以上のような混乱を経たからこそであった。最初に大規模な農牧複合国家として成立したのは隋である。北周で外戚として実権を握った楊堅は、北周を滅ぼした後、長安付近に大興城を建設する。彼の子、煬帝が完成させた大運河は、後の時代にかけて中国の中心地が移動していく足掛かりとなっていく (これについては、3.5でまた触れることにする)。
さて、既存の中国史のみに注目すると、「隋の次は唐」と考えるのが標準的な流れであろう。しかし、中央ユーラシア史に注目する我々にとって重要になるのは、遊牧民族である突厥の存在だ (以下、古松,2020:36-39)。6世紀半ばごろに中央ユーラシアを統合した突厥は、東は大興安嶺から西はカスピ海、南はタリム盆地のオアシス都市を支配下とする大帝国を築き上げた。この時期、突厥はササン朝ペルシアと手を組んでエフタルを挟撃し、ソグディアナのオアシス都市も勢力下においている。こうした大帝国の登場を前にして、北斉と北周に分裂していた華北勢力は、こぞって突厥の協力を得ようと試みた。競って貢物を献じた両勢力は、ほぼ東突厥の属国であったという。隋・煬帝の失脚によって華北が再び混乱に陥った際も、華北勢力はやはり突厥を頼った。こうして、華北勢力はそれぞれが突厥の大可汗に服属する小可汗となっていく。
この小可汗として力をつけたのが、後に唐を興すことになる李淵であった。徐々に力をつけた唐は、太宗の時代に東突厥を滅ぼすことに成功する。興味深いのは、唐の太宗もまた、遊牧勢力の一つとして、遊牧民族らに受け入れられたということであろう。東突厥を滅ぼされ太宗に服属した遊牧民集団の族長たちは、太宗に「天可汗」の称号をたてまつった。太宗は、可汗として、草原世界の遊牧民集団に君臨するようになったのである (前掲:39)。こうして唐は、中国大陸の政権としては初めて、モンゴル高原に至る遊牧地域と、ベトナム北部に至る農業地域を、ともに統治する大帝国を築き上げた。
では、このように農業・遊牧両地帯を支配することになった唐は、どのようにして各地域を統治したのだろうか。その特徴の一つが羈縻政策にある。唐は、遊牧集団の部族組織を維持したまま、各族長などの指導者を、都督や刺史に任じた。こうして、遊牧地域に対しては間接統治を敷きつつ、その軍事力を吸収したのである。なお、7世紀に設置された都督府・都護府、8世紀に設置された十節度使の治府のほとんどは、農牧境界地帯か、そこに隣接する地域に置かれた (妹尾,2018:98)。
なお、7世紀後半になると突厥遺民が独立を目指すようになり、8世紀になると復興を果たす (唐による突厥への羈縻支配はここで崩れた)。こうして、8世紀前半のユーラシア大陸東部では、唐・突厥が南北に対峙・共存する状況が生まれる (古松,2020:42-44) *8。
3.4 大中国と小中国のサイクル
しかし、唐・突厥による南北支配も、長くは続かなかった。突厥は744年に滅亡。唐は、755年の安史の乱で大きなダメージを追うことになった。なお、安史の乱の首謀者である安禄山は、突厥から唐へと亡命したソグド人であった *9。彼は農牧境界地帯上の幽州において、羈縻州の指導者らと手を結びつつ、突厥から亡命してきた人々を取り入れて多種族混交の軍事集団を形成する (古松,2020:50)。
唐は、モンゴルの新興遊牧王朝であるウイグルの援軍を得て、なんとか安史の乱を鎮圧する。しかし、その領土は中国本土のサイズにまで縮小してしまった。それだけでなく、安史の乱で投降した遊牧勢力を抑えるために、唐は内地に節度使を置き、彼らを節度使に任命せざるをえなかった。要するに、唐は小さな領域内において、遊牧民族を地方軍閥勢力としてのさばらせることになったのである (前掲:52-55) *10。
安史の乱の経験は、唐に大きな変化を引き起こした。「政治的には、多元的な農牧複合国家から、農業地域を核とする集権国家へ、軍事・行政的には、農牧複合国家をささえる軍事・行政体制 (羈縻州・都督府と州県制度、蕃兵と府兵の併用) から農業地域の軍事・行政体制 (藩鎮・巡院・州県制度と募兵制) へ、財政的には華北に力点をおく直接税 (租庸調制) から江南に力点をおく両税法と間接税 (塩税・茶税・酒税・商税等) の重視へ、経済的には、農牧境界地帯を媒介とする奢侈品貿易・局地市場から沿海地帯を媒介する大衆品貿易・全国的市場へ」(妹尾,2018:100)。
また、妹尾によれば、この乱は「大中国 / 小中国」というサイクルの端緒にもなっている (前掲:55-56)。大中国とは、先に触れた「内中国 / 外中国」の区別をふまえれば、「内中国 / 外中国」の両地域を支配する状態を指す。遊牧地域から農業地域までを支配した安史の乱以前の唐は、「大中国」であった。これに対して、農業地域のみを支配するようになった安史の乱以降の唐は、「小中国」とする。この後、中国は「大中国」と「小中国」のサイクルを繰り返すようになっていく (下図は〔妹尾,2018:52〕より引用)。
*
詳しくは後に見るが、妹尾によれば、中国における首都の立地も、この中国の統治空間の大小と密接に関連している。妹尾の整理によれば、中国史前期において、大中国は長安に、小中国は洛陽に都を置いている。中国史後期になると、前者は北京、後者は南京へと移動する。この立地は、大中国期においては農牧両地域を統治可能な境界地帯に都を置く傾向が高まり、小中国期においては農業地域であり、かつ経済・文化の中心地である地点に都を置く傾向が高まることによる (前掲:55)。
なお、大中国を成立させたのは、安史の乱以前の唐、それから約600年後に大帝国を築いた大モンゴル国、そして清の三つのみである。これらがいずれも非漢人だったことには意味があるのだろう。彼らは農牧境界地帯に滞在し、経済・軍事力を蓄えた後に、内中国への進出を果たした (前掲:57)。
3.5 内陸から沿海へ — 都城の変容から、沿海都市網の発達まで —
では、なぜ都の立地は「長安—洛陽」から「北京―南京」へと移動していくのか。これは、これまで繰り返し触れてきたように、沿海地域への関心の高まりが背景にある。内陸部の重要性は徐々に薄れていき、沿海地域における交易・衝突が国を左右する要素になっていった。
妹尾によれば、沿海地域への関心の高まりは中国に特有のことではなく、東アジアの全体で起きていたという。実際に、7~8世紀に東アジアで建てられた都城 (中国の洛陽城、吐蕃のラサ、日本の近江京・藤原京・平城京、南詔の太和、ウイグルのオルド・バリク、渤海の旧国・その他の五京など) の大半は、内陸交通網の要としてつくられていたが *11、13世紀以降~18世紀にかけての都城はその多くが沿海部に立地し、沿海都市網と内陸の水運・陸運とを連結する要として機能するようになっている (妹尾,2018:110-117) *12。
ユーラシア大陸東部で見た場合、沿海地域への移動には、隋の大運河が大きく関係していた。洛陽を拠点に大運河が形成されたことで、洛陽を中心に、長安・杭州・北京がY字に結ばれるようになったのである。こうした大運河掘削を契機にして、7世紀以降、沿岸部の大運河沿いに都市群が誕生し、海路と内陸を連結する都市網が整備されていく (前掲:146) *13。
その後、16世紀以降になると、中国大陸の沿海地帯において港湾都市の発達が本格化していく。上海や天津、香港などの台頭も、この時期の沿海都市網の形成を背景に生じたものだと考えられよう。相対的に内陸部の重要性は低下し、内陸部の農牧境界地帯が歴史を大きく動かすことは、徐々に少なくなっていった。
*****
参考文献
妹尾達彦 1998 「唐代長安城与関中平野的生態環境変遷」(in 史念海編『漢唐長安与黄土高原』,陝西
師範大学中国歴史地理研究所).
———— 1999 「構造と展開 中華の分裂と再生」(in 樺山紘一ほか編『岩波講座 世界歴史9 中華の
分裂と再生』,岩波書店).
———— 2018 『グローバル・ヒストリー』 中央大学出版部.
木下康彦・木村靖二・吉田寅編 2008 『詳説 世界史研究』 山川出版社.
礪波護・武田幸男 2008 『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社.
成田龍一・長谷川貴彦編 2020 『〈世界史〉をいかに語るか グローバル時代の歴史像』 岩波書店.
古松崇志 2020 『シリーズ中国の歴史3 草原の制覇 大モンゴルまで』 岩波新書.
ブリタニカ国際大百科事典
*****
*1:先に、境界都市は「共同体」と「共同体」をつなぐものであると説明した。遊牧地域と農業地域に登場した古典国家は、それぞれがこの「共同体」にあたるものである。このように両エリアにおいて古典国家=共同体が形成されたのち、それをつなぐ中核都市 (境界都市) が登場してくる。
*2:侵攻といった形以外にも、遊牧民族出身者が傭兵として登用されたり、平和的に移住するなかで、徐々に文化が混ざり合っていったと推測できる。
*3:ソグド人らには、長距離交易をつうじて得られる情報や知識のほか、独自の軍事力を持つ者も多かったという。そのため、モンゴル高原の柔然や突厥などの遊牧民族と中国の拓跋国家の双方に重用された (古松,2020:46)。安史の乱を起こした安禄山・史思明がソグド系だったことからも、その影響力の大きさをうかがい知ることができる。
*4:なお、殷の都は農牧境界地帯上の平山から始まり、度々遷都をしたのち、境界地帯近くの安陽 (大邑商。殷墟とも呼ばれる) に落ち着いている (〔妹尾,2018:85〕の地図を参照)。
*5:後に南京となる地域である。
*6:こうした鮮卑由来の遊牧系文化は、北魏の正史である『魏書』を編纂するさいに、意図的に削除された可能性が高いともいわれている (古松,2020:29)。
*7:東魏の実質的建国者、北斉の建国者は、懐朔鎮出身の高氏。また、隋を興す楊氏、唐を興す李氏は、武川鎮である。
*8:玄宗の時代には、中国本土の絹とモンゴル高原の馬を交易する絹馬(けんば)貿易が盛んになった。
*10:幽州・成徳・魏博節度使 (まとめて河朔三鎮と呼ばれる) などは、徴収した税を中央に送らず、官吏や軍人の任命を独自で行うなど、事実上独立割拠していた (古松,2020:55-56)。
*11:なお、妹尾によれば、7~8世紀に東アジアで都城の建設が相次いだのは、唐という巨大な勢力の成立が、唐に対抗する国家と都城の建設を促したからであるという (妹尾,2018:111)。
*12:沿海都城としては、高麗の開京 (11~14世紀)、朝鮮の漢城 (14世紀末~20世紀初)、日本の鎌倉 (12~14世紀) や江戸 (17~19世紀)、琉球王国の首里 (15世紀初~19世紀末)、南宋の臨安 (1138~1276年)、元の大都 (1267~1368年)~明の北京 (1403~1644年)~清の北京 (1644~1911)、明の南京 (1368~1645年)、阮のフエ (19世紀)、阮のハノイ (11,12世紀頃?) など多様な例を挙げることができる (前掲:115)。
*13:なお、唐朝が滅亡した後に長安は二度と都とはならなかったが、洛陽は五代・北宋の都の一つであり続けた (前掲,148)。