世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

アッシリアはなぜ1400年も "続いた" の?④

4. アッシリアの対外政策 ― アッシリアバビロニアとどのような関係を結んだか


 本筋に戻りましょう。本節では、ここまでで紹介したような同一性を有したアッシリアが、他地域に対してどのように関わったのかを見ていくことにします。それは、記事①で引用したように、強圧的なものだったのでしょうか。





 確かに、アッシリアの支配が強圧的だった側面もあります *1。支配地の拡大に伴い、アッシリア王が各地に碑文を打ち立てたことは有名です (文献⑥⑦)。それらは多分に軍事的な性格をもって自らの功績を表象していました。また、例えばセンナケリブ (在位前704-681年) はバビロニアに攻め込みバビロンを破壊、マルドゥク像を強奪しています。彼は神アッシュルにマルドゥクを越える最高神としての資質を備えさせることを目指し、一連の「宗教改革」を行いました (文献③:286-7)。バビロニアの新年祭をアッシリアに取り入れ、そこで朗詠される想像神話におけるマルドゥクの名をアッシュルに置きかえた彼の改革は、バビロニアの文化をふみにじる性格を有していたと評されても仕方がないと思われます。


 しかし、エサルハドンが王位について以降は、風向きが大きく変化しました。対バビロニア政策が緩和されただけではなく、エサルハドン自らバビロニア王を兼任するなかで、バビロンには多くの優遇措置が与えられたのです。エサルハドンはマルドゥク崇拝も率先して行い、マルドゥク像の返還も計画しています。これは息子アッシュル・バニパルの時代に実現しました。エサルハドン以降は、バランスのとれたバビロニア支配を実現していくために様々な努力がなされたといえるでしょう。渡辺はこれを「異文化理解の努力」であったと評しています (文献③:288)。

 そもそもアッシリアの支配は、単純に強圧的なものではありえませんでした。アッシリアは人類の歴史上初めて、大規模な支配システムの構築、異民族政策の案出などを求められたのであり、その支配過程は一方的かつ単線的なものではありえなかったのです。やや時代をさかのぼって、ティグラト・ピレセル3世 (在位744-727年) のころには既に、アッシリアの公的文書はすべてアッカド語アラム語の二言語で書き留められていました。また、旧約聖書からはセンナケリブらが極力戦争を避けるために、現地へと使者を送り、現地語で説得を行っていたことを見て取ることができます。先述したエサルハドンの契約文書にも「ハムラビ法典」にまでさかのぼるバビロニアの伝統的な呪いのほか、さまざまな文化圏に起源をもつ呪いが集められていたことがわかっています。その子アッシュル・バニパルが「ニネヴェの図書館」をつくりシュメールやバビロニアの伝統を継承しようとしたことも有名ですね。また、王自身が書簡を送る場合も、必ず相手の使用方言と文字を用いていたことが明らかになっています (以上、文献③:288-97)。要するに、アッシリアは支配のために異民族の文化を学んだ (学ぶ必要があった) し、それに配慮せず一方的に文化を押し付けることなどできなかったのです

 以上のような諸政策と、先述したようにアッシリアが神アッシュルへの信仰を他民族に強要しなかったことをふまえると、アッシリアの対外政策の重要な側面が見えてきます。アッシリアは、周辺世界 (特にバビロニア) に対して、自国の文化や宗教を強要していません。異民族に対してそれぞれの言語で対応するその姿からはむしろ、周辺諸国の文化を学び続ける姿勢を見て取ることができるでしょう。


5. なぜアッシリアは滅びたのか。あるいは、滅びるとはどういうことか


 記事② で述べたように、アッシリアの存続は血統などに支えられたものではありませんでした。それは土地の神アッシュルがもたらす同一性に拠っていたのであり、これは言い換えれば、王が殺害されようと、王位が簒奪されようと、アッシリアという国は続くということでした。だからこそアッシリアは、1400年間も「続いた」(自己同一性を保ち続け、特定の出来事を「自身らの歴史」として記録することができた) のです。では、そのアッシリアが「滅びる」とは、どのような事態を指すのでしょうか。

 アッシリアが滅びるとは、要するに土地アシュールを支配した次の勢力が、アッシリアの同一性の要である諸伝統を引き継がないことを意味します。続く勢力が自身らをアッシリアの系譜に位置づけないのであれば、アッシリアの王名表はそこで途絶え、アッシリアという同一性も消滅するのです。

 では、アッシリアは実のところどのようにして滅びたのでしょうか。アッシリアを滅ぼしたのは、「海の国」の首領ナボボラッサルが樹立した新バビロニア王朝 (前625年) でした。アッシリアはメディア王と結んだナボボラッサルにニネヴェを奪われ、初めてバビロニアに屈します。その後、ナボボナッサルはそのままアッシリアの伝統にも終止符を打ちました。彼はアッシリアの諸伝統を引き継がなかったのです。それはなぜでしょうか。先述のようにアッシリアは、長い間バビロニアを支配したにもかかわらず、バビロニア人を優遇しその文化を尊重してきました。要するに、バビロニア地方はアッシリア化されていなかったのです。バビロニアは、アッシリアの政策のおかげで、アッシリアとは異なる長い伝統を保持し続けることができました。だからこそ新バビロニア王朝はあえてアッシリアの伝統を引き継ぐ必要性を感じなかったのです。

 まとめておけば、アッシリアが寛容であったからこそ、新バビロニア王朝は、アッシリアの伝統を継がなかったということになります。アッシリアの政策こそが、その同一性を途絶えさせたのです。


参考文献

[文献①] 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『[改訂版]詳説 世界史研究』(山川出版社,2008).
[文献②] 大貫良夫『世界の歴史① 人類の起源と古代オリエント』(中公文庫,2009).
[文献③] 渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」(in『岩波講座 世界歴史2オリエント世界-7世紀』,岩波書店,1998).
[文献④]Lambert,W,G. ,“The God Assur,” Iraq 45, 1983.
[文献⑤] 柴田大輔「アッシリアにおける国家と神殿 ―理念と制度」(in「宗教研究」,89:79-105,2015).
[文献⑥] 山田重郎「軍事遠征と記念碑 アッシリア王シャルマネセルⅢ世の場合」(in「オリエント」,42:1-18,1999).
[文献⑦] 青島忠一郎「新アッシリア時代の王碑文における王の自己表象の変遷 ―「前史」の考察を手がかりに」(in「オリエント」,57:16-28,2015).
[文献⑧] 前川和也「古代メソポタミアとシリア・パレスティナ」(in『岩波講座 世界歴史2オリエント世界-7世紀』,岩波書店,1998).
[文献⑨] 渡辺和子「西アジア北アフリカ古代オリエント(2)(1994年の歴史学界:回顧と展望)」(in「史学雑誌」,104:922-5,1995).

*1:各王の強圧的な側面については、(文献⑧:23-25) が簡潔でまとまっています。