アッシリアはなぜ1400年も "続いた" の?⑤
6. まとめと課題 ― 高校世界史におけるアッシリア像を考える
一連の記事の冒頭で掲げた二つの問いは、「アッシリアが1400年続いたとは、一体どのような事態を指すのか」「アッシリアの政策は本当に『強圧的で苛酷』なものであったのか」というものでした。ここまでで、二つの問いへの答えが与えられたことになります。
アッシリアは自身らの同一性を土地=神と結びつけており、その点において強固な同一性を有していました。この国が1400年間続いた理由の一端 (続いたということができる理由の一端) はここにあります。では、なぜアッシリアは滅びたのでしょうか。それはアッシリアが苛酷な政策を行ったからではなく、むしろバビロニアの文化を尊重する政策を行ったためでした。バビロニアの文化を尊重し、保存・継承したからこそ、新バビロニア王朝は成立した当初から強固な文化的基盤を有することができました。それゆえに、彼らはアッシリアの長い歴史に自身を組み込もうとはしなかったのです。ある意味でアッシリアは、寛容なゆえに滅んだのだといえるでしょう。
以上で本稿の目的は達成されたことになりますが、課題はいくつか残されています。何よりも気になるのは、なぜアッシリアは強圧的だというイメージが高校世界史において色濃く残っているのかという点です。もちろん、アッシリアの残したレリーフ等から想像された側面もあるとは思うのですが、それ以上に旧約聖書で描かれるアッシリア像の影響も大きいのだと思います *1。この点について細かな検証を加えたかったのですが、強制移住政策に関するアッシリア側の史料などを解説した適切な文献を発見できなかったため、今回は触れないこととし、今後の課題とします *2。
参考文献
[文献①] 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『[改訂版]詳説 世界史研究』(山川出版社,2008).
[文献②] 大貫良夫『世界の歴史① 人類の起源と古代オリエント』(中公文庫,2009).
[文献③] 渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」(in『岩波講座 世界歴史2オリエント世界-7世紀』,岩波書店,1998).
[文献④]Lambert,W,G. ,“The God Assur,” Iraq 45, 1983.
[文献⑤] 柴田大輔「アッシリアにおける国家と神殿 ―理念と制度」(in「宗教研究」,89:79-105,2015).
[文献⑥] 山田重郎「軍事遠征と記念碑 アッシリア王シャルマネセルⅢ世の場合」(in「オリエント」,42:1-18,1999).
[文献⑦] 青島忠一郎「新アッシリア時代の王碑文における王の自己表象の変遷 ―「前史」の考察を手がかりに」(in「オリエント」,57:16-28,2015).
[文献⑧] 前川和也「古代メソポタミアとシリア・パレスティナ」(in『岩波講座 世界歴史2オリエント世界-7世紀』,岩波書店,1998).
[文献⑨] 渡辺和子「西アジア・北アフリカ:古代オリエント(2)(1994年の歴史学界:回顧と展望)」(in「史学雑誌」,104:922-5,1995).
関連文献・資料
こちらも学会報告の紀要である。アッシリア学者 (セム語研究者) でありながらナチスの突撃隊に属した (反セム主義者であった) フォン・ゾーデンが、戦中自身の研究においてアッシリアをどのように描いたかを扱っている。彼の歴史像においては、ミタンニ王国を形成したアーリア民族系のフリ人が、徐々にセム系住民を押しのけてアッシリア貴族層を構成するようになったとされた。そして、このアーリア系民族精神こそがアッシリアに戦闘の勇敢さを付与し、アッシリアを大帝国たらしめたのだと説明される。なお、アッシリア崩壊の理由は属州における「非政治的な商業精神」に求められた。
無論この学説はナチス崩壊と共に葬り去られたのだが、ある歴史像がイデオロギー的に形成され補強されている様子は、アッシリアがその強圧的性格から滅んだという歴史像について検討を行った本報告にとっても興味深い。
関連文献③にあわせて、ものみの塔のホームページも参照しておこう。こちらではユダヤ教とアッシリアを対比させる意図のもとでアッシリアの像が構成されている。例えば、「例解聖書辞典」をもとに、アッシリアは「ほとんどの点においてバビロニアの宗教とあまり変わらない。アッシリアの宗教はバビロニアに由来する」と説明されている (本報告の内容と照らし合わせれば、これが誤りであることは容易にわかる)。また、その宗教は本質的に軍事主義的であり、ライト『古代都市』をもとに、「祭司」たちが戦争を誘発したのだと説明される。
*1:いろいろと調べている過程で感じたのは、「ユダヤ教徒から見たアッシリア像」の影響がかなり大きいということです (関連③④)。これはアッシリア学 (広義の意味では古代オリエント研究全般を指すのですが、そうした学問) がキリスト教世界のルーツを探す学問として欧米で展開されてきたという事情も大きく関係しているのでしょう。
*2: 今回なによりも痛手だったのは、新型コロナウイルスの関係で図書館の資料を利用できなかったことです。当該分野において常識とされる事柄は学術論文内で触れられないことも多いです (文献⑧などでも非常に簡潔に触れられるだけでした)。そうした事情もあってか、強制移住政策の内実・史料などについての論文は全く見つけることができていません。これらについて知るためには、おそらく図書館で概説書に当たる方が良かったのだと思います。渡辺は翻訳済み概説書としてM・ローフ『古代メソポタミア』、J・ボッテロ、M=J・ステーブ『メソポタミア文明』を挙げているのですが (文献⑨)、コロナによる閉館の影響で今回は残念ながらチェックできませんでした。 また、日本語でアクセスできる研究の少なさも痛感させられました。王碑文などに関する主要でまとまった研究は基本的に翻訳されておらず (これには分野の特性も関わっているのでしょう)、当該分野に関する古典的な研究などを参照することはほとんどできていません。