世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

日本の近代と法意識 ― 青木人志『「大岡裁き」の法意識』(2005) から ②

2. 法と近代 ― ルーマンの機能分化論から

 まず、世界史における「近代」とは何でしょうか。それをどのようなものとして捉えればよいのでしょうか。


 社会学ニクラス・ルーマンは、近代化を諸システムの機能分化という観点から捉えました。その内容の一部をごくごく簡単に素描するならば、次のようになります。ヨーロッパ社会は、「神」といった概念を徐々に捨て去るなかで偶発性 (ある状態が必然的ではないこと) と関わるようになっていきました。その変化のなかで、それまで宗教 (ないし家族) がカバーしていた様々な領域が複雑な形で分裂していくことになります。最もわかりやすいのは政治システムです。政治システムは、徐々に王権神授説といったものを用いて権力を説明することができなくなっていきます。遅くとも19世紀以来、政治権力は世論に定位するようになりました *1。世論に定位することになると、政治は「何が[世論にとって]問題になるのか確定できない」という形で偶発性と深く関わるようになり、その結果ハイアラーキーの頂点も偶発的な形でしか専有できなくなります。このような形で政治システムは、「神」という概念を捨て、偶発性と関わるようになったのです。こうした変化が各領域で起きるにつれ、社会は政治システム、法システム、経済システム、教育システム……といった各機能システムへと分化していくことになった、というのがルーマンの見立てです *2





 それぞれのシステムは、それぞれ独自のコードをもって、コミュニケーションを組織していきますルーマンによれば、分化された法システムが用いるコードは〈法 / 不法〉というものです。法システムは、「あれは法である / 法ではない」というコードの下で、自身のコミュニケーションを組織します。後に触れる『「大岡裁き」の法意識』で青木人志が述べるように、欧米において「法」という語 (英語ならRight, ドイツ語ならRecht, フランス語ならDroit) は「権利」という意味を同時に有します (青木,2005:116)*3。そのため、この二分法は「これは権利である (それゆえこれは法の対象である)/ あれは権利ではない (それゆえあれは法のあずかり知る所ではない)」というものでもあるのです *4。こうした二分法が成立していくなかで、法という領域が分化していくのだとルーマンは考えました。

 この二分法が分出した状態を、村上淳一ルーマンを引用しながら次のようにまとめています。「西洋では、[引用者注:トラブルは係争する当事者同士の]生の主張をはなれて法 / 不法の二分法的コードにより (法がみとめる権利であるか否かの問題として) 決着がつけられてきたのである。(…) 社会における対立・紛争がノーマルな事態と考えられ、これを法 / 不法のコードに乗せて処理してゆくことによってはじめて社会秩序が保たれる西洋 (とくにその近代) においては、各自の規範的主張も、法 / 不法のコードに乗る限りでのみ「権利」と考えられるのであり、逆に、その『権利』の主張によって法 / 不法のコードの内容が満たされてゆくことになる」(村上,1997:11)。

 では、このようなコードの成立が (法システムの分野における) 西洋の「近代化」を表しているとして、そのコードが成立していない社会とはどのようなものなのでしょうか。村上はルーマンの次のような文章を引用しています。
 

 二分法的なコード化というこの解決が選ばれ、進化の過程で実現されたのは決して自明のことではなかった。(…) 法規範の提示を控えるべきだと説き、法にこだわるのは良くないとする[もっぱら互酬性に依存する]高度文化も現に存在するのである。そこでは政治的に妥協が好まれ、社会の一体性[社会秩序]は、〈差異〉[の処理]としてではなく[無媒介の]〈調和〉として記述される。そこでは、法システムは、言って聞かせても判らない場合を最終的に解決する技術的装置でしかなく、独自の機能システムとして分離されるに至らない。法システムの重点は、刑法と、官吏支配の組織法および行政法に置かれる。一般の社会成員にとっては、法との接触を避け、法との接触を不運として受けとめるのが得策だということになるであろう。*5

 

 ルーマンをこのように引用したうえで、村上は〈法 / 不法〉コードが明確には分化しなかった社会として、日本の法律史を描き出していきました。いわく、「対立・抗争がアブノーマルな事態とされた日本の伝統社会においては、法 / 不法のコードが独立の枠組みとして成り立つに至らず、『世間と人間についての知識』に基づく漠然たる『理非』によって紛争の解決が図られる」のであり、どちらに「理」があるかは「客観的なルールによって判定されるのではなく、人間と世間の機微に通じた『上位の第三者』の判断に委ねられる」(村上,1997:12)。刑法・訴訟法はともかくとして、とくに民事の領域ではそうした性格が強かった、と。





参考・紹介文献 資料

青木人志 2005 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』 光文社新書.
太田義器 2014 「近代自然法論 ―普遍的な規範学の追究」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
川島武宣 1967 『日本人の法意識』 岩波書店.
・小林弘 2007 「ホッブズの哲学における権利と法」 『英米文化』37 : 43-59.
・小山哲ほか 2011 『大学で学ぶ西洋史[近現代]』 ミネルヴァ書房.
・阪上孝 1988 「世論の観念について」 『經濟論叢』141(6) : 307-24.
・笹倉秀夫 2002 『法哲学講座』 東京大学出版.
佐藤俊樹 1993 『近代・組織・資本主義:日本と西洋における近代の地平』 ミネルヴァ書房.
佐藤俊樹 2011 『社会学の方法 ―その歴史と構造』 ミネルヴァ書房.
高木八尺編 1957 『人権宣言集』 岩波文庫.
・瀧井一博 2011 『伊藤博文演説集』 講談社学術文庫.
・フット 2006 『裁判と社会 —司法の「常識」再考』 NTT出版. 
・辻康夫 2014 「ロック ―宗教的自由と政治的自由」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
・馬場健一 2004 「訴訟回避傾向再考 ―『文化的説明』へのレクイエム」 『法社会学の可能性』 法律文化社.
・中村義孝訳 2017 「ナポレオン民法典」 『立命館法學』.
・福井康太 2002 『法理論のルーマン』 勁草書房.
穂積八束 1891 「民法出デテ忠孝滅ブ」 『法學新法 第5號』.
村上淳一 1997 『〈法〉の歴史』 東京大学出版.
森村進 2015 『法哲学講義』 筑摩書房.
ラッセル 1970 市井三郎訳『西洋哲学史3』 みすず書房.
ルーマン 2003a 馬場靖雄訳 『近代の観察』 法政大学出版.
ルーマン 2003b 馬場靖雄ほか訳 『社会の法』 法政大学出版.
ルーマン 2004 村上淳一訳 『社会の教育システム』 東京大学出版.
ルーマン 2020 馬場靖雄訳 『社会システム (上)』 勁草書房.
 
文部科学省「高等学校指導要領における歴史科目の改訂の方向性」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/062/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/06/20/1371309_10.pdf , 2020/03/30参照).
国会図書館ホームページ「穂積八束博士論文集」(https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000567488-00 , 2020/03/31参照).
国会図書館ホームページ「国体の本義」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1156186 , 2020/03/31参照).
名古屋大学大学院法学研究科「法律情報基盤」(https://law-platform.jp/ ,2020/03/31参照).
自由民主党2012「日本国憲法改正草案に関するQ&A増補版」 憲法改正推進本部 (https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf , 2020/03/31).
・日本弁護士連合会ホームページ「弁護士白書」(https://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/publication/whitepaper.html , 2020/04/02参照).
・日本弁護士連合会ホームページ「民事司法改革と司法基盤整備の推進に関する決議」(https://www.nichibenren.or.jp/document/assembly_resolution/year/2011/2011_2.html, 2020/04/02参照).

*1:フランス革命の進行を支えたのも「世論」であったことを想起してもよいかもしれません (小山ほか,2011:98-9)。18世紀中葉以降における「世論」の観念の発達については、(阪上,1988) など。世論がいかにして政治のシステムに組み入れられていったのかがまとめられています。

*2:上の記述は一応『近代の観察』「近代社会の固有値としての偶発性」(ルーマン,2003a) を参考にしているのですが、内容は元の文章に比べて大きく単純化・脚色してあります。なお、ルーマンの文章は難解かつ無駄(?) が多いため、読むことは基本的におススメしません。もし気になる場合は、次の文献などが良いかと思います。ルーマンのシステム理論の概要や、法システム論の概要については、福井康太『法理論のルーマン』「第一部 オートポイエイシスの法理論」がかなり読みやすいです (福井,2002)。ルーマンを引用した歴史研究としては、後に挙げる村上淳一『〈法〉の歴史』があります (村上,1997)。ルーマン自身の文章を読むのであれば、訳注が充実していてページ数も少ない『社会の教育システム』(ルーマン,2004.実はこれを訳したのは村上淳一である) をお勧めします。近代化論については、先に挙げた『近代の観察』もエッセイ形式なのでそれなりに読みやすいです (ルーマン,2003a)。社会学史におけるルーマンの位置づけについて、読みやすいものでは佐藤俊樹社会学の方法』(佐藤,2011) があります。これは社会学の教科書としても有用な本……なのですが、結構説明が省略されている部分も多いため、一度社会学を勉強した人向けかもしれません。

*3:ホッブズは、当時の法学者が「法」と「権利」を混同していることを非難しそれを区別するように繰り返し求めていたのですが、これは裏を返せば「法」と「権利」を同一視する見方が当時支配的であったということを意味しています (小林,2007:52)。なお、現在英語圏ではLawとRightが区別されて用いられており、Rightを「法」という意味で使うことは基本的にないのですが、ドイツ語のRechtには明確に「権利」「法律」という二つの意味が与えられています (翻訳サイト「Glosbe」)。

*4:西洋でも、権利と義務がセットのものとして語られることはあります。しかし、次のような差異を理解しておくことが重要でしょう。「西洋の法の伝統ではギリシア・ローマ以来、私人間の関係を規律する私法がむしろ中心であり、“ius”系の言葉[報告者注:広く「法」という意味をもつラテン語]が『権利』も表現したことからも示唆されるように、権利を義務よりも重視する傾向がある。多くの場合法的な権利と義務は表裏一体を為すものだから、片方の存在は他方の存在を含意するのだが、それでも存在理由の問題として、〈ある人が義務を負うからその相手は権利を持つ〉というよりも、〈ある人の権利ゆえにその相手に義務が認められる〉と考えられる」(森村,2015:68)。

*5:Luhmann,“Das Recht der Gesellschaft”,1993. 村上訳を孫引き (村上,1997:10-1)。[]内は村上訳注。  なお、本書の邦訳として馬場靖雄ほか訳『社会の法』(ルーマン,2003b) が出版されています。上下巻でめちゃくちゃ長いです。私は未読だし、今後も多分読まないと思います……。