世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

『オトナ帝国』というレトロトピア (第四節):野原一家はなぜ勝利するのか

4. 野原一家はなぜ勝利するのか


 以上のように見ていくと、イエスタディ・ワンスモアはとても周到な組織であり、また彼らは近年の政治シーンをある程度まで反映した存在であると見ることができる。もちろん、製作者らが映画製作当時にどこまでこれを意識したかは定かではない。確かなのは、繰り返しになるが、この映画が今日においてより強い現在性を獲得しつつあるということだ。

 イエスタディ・ワンスモアをこのように理解したうえで、本節においては「なぜイエスタディ・ワンスモアは野原一家に敗北したのか」を考察していく。周到な組織であり、強い理念を有するイエスタディ・ワンスモアは、どのようにして春日部に住む「普通の一家族」に敗北するのか。その敗北の理由は、一体どこにあるのか。

 以下では異なる2つの視点から、その理由を探っていくことにしよう。1つ目は「同棲」と「家族」を対置する視点、2つ目はケンの理想を担う装置としてしんのすけという視点である。






4.1 映画における対立軸の移行 ― 「同棲」に勝利する「家族」

 前節で述べたように、この映画ないし昭和ブームには、〈流動性の高い今 / 流動性の低い過去〉という対立を見ることができる。それらは過剰な流動性のゆえに人情が失われてしまったという見方に則って、過去を懐かしむのである。それはある意味ではグローバルな状況の否定でもあった。

 だが、映画が後半に差し掛かるにつれて、『オトナ帝国』は〈流動性の高い今 / 流動性の低い過去〉という図式では回収できない関係性へと、その対立図式を移していく。その移行がはっきりと打ち出されていくのは、野原一家がケン・チャコのアパートへと足を踏み入れたところからだ。このアパートの描写を通じて、ケン・チャコにはやや (高度成長期という) 時代にそぐわない設定が加えられることになる。

みさえ:ご夫婦?
ケン :いや
ヒロシ:ふーん、同棲時代って感じだね


 彼らは、かつて四畳半フォークが描写したような、貧しいアパートに同棲するカップルとして描かれるのである。四畳半フォークの流行が1970年代だったことをふまえると、ケン・チャコが目指す「昭和」からは少し時期が外れているようにも見えるのだが、なぜ彼らにはそうした設定を与えられたのだろうか。

 その理由を考えるために、ここで一度、映画中盤から終盤の展開をふりかえってみよう。映画の中盤、ヒロシは「今」の匂いによって現在へと立ち返る。彼は、自身の子供時代を失い、家族を取り戻すのである。

ヒロシ   : とーちゃんかーちゃん、どこいくんだ
しんのすけ : とーちゃんはじぶんでしょ
ヒロシ  : 離せよ!なんでおらがおまえのとーちゃんなんだよ!
ケン   : お前たちの親は、昔の匂いで子どもに戻っている
しんのすけ: だったら今の匂いだぞ!


 一連の回想シーンは美しいものだが、ここではこのシーンを通じて映画の新たな主題が提示されていることに注目しておきたい。順を追って説明していく。

 そもそも、この映画は大枠で見ると、〈今=希望のない時代〉と〈昔=希望のある時代〉という二項を対立軸としている。これを第一の主題と呼ぶことにしよう。そして、これは意外なことではあるのだが、『オトナ帝国』はこの第一の主題を構成する要素、その一つである〈昔=希望のある時代だった〉というイメージを、否定してはいない。例えば (本記事2節で示したような) 高度成長期における負の側面が作中で提示されるかというと、そんなことはない。「あの頃はもっと汚い時代だった!」と指摘する人物も、だれ一人として登場しない。つまり、『オトナ帝国』という作品において、イエスタディ・ワンスモアが掲げる「輝かしい昭和」イメージは、それ自体としては何一つダメージを受けていないのである。監督自身がインタビューでケンへのシンパシーを繰り返し述べている (浅羽,2008:64-65) ことからも推察できる通り、あくまで昭和30年代的なものは、作中で最後まで理想化され続けている。『オトナ帝国』が否定したのは過去の像ではない。過去へと「戻ること」、その一点であった。

 このように、昭和の負の側面といったものが提示されなかったからこそ、野原一家とイエスタディ・ワンスモアの戦いは (歴史戦ではなく) 思想戦足りえたのだが、では、そのような制限があるなかで、野原一家はなぜ勝利を収めることができたのだろうか。

 しんのすけが勝利した理由はわかりやすい。〈今=希望のない時代=物だけがあふれて心がない時代〉だと信じるイエスタディ・ワンスモアや夕日町銀座商店街の人びとに対し、しんのすけは今を生き、未来を信じ、走り抜ける。主張ではなく、その行動をもって、人びとが失ってしまったとケンが嘆く「心」、その存在を証明する (少なくともその存在を信じ込ませる) のである。こうして、「最近走ってないな」とつぶやくケンは、走るしんのすけの前に敗北する (当時の政治状況と絡めた解釈については次項で扱う)。

 他方で、この映画ではもう一つの勝利が描かれている。それは「家族」の勝利だ。ヒロシは映画中盤で「家族」を思い出し、終盤でその「家族」というものを軸にしてケン・チャコに一つの勝利を収める。先に挙げたケン・チャコの同棲という設定は、この勝利のために挿入されているのである。
 

ケン :戻る気はないか?
ヒロシ:ない!俺は家族と一緒に未来を生きる!
ケン :残念だよ、野原ひろしくん。つまらん人生だったな
ヒロシ:俺の人生はつまらなくなんかない!家族がいる幸せを、あんたたちにも分けてやりたいくらいだぜ




 ケンは家族を持ったヒロシを嗤い、そのようにヒロシを見下すことを通じて、逆に敗北への道を歩む。ここにおいていつの間にか、映画の対立軸は、第一の主題に回収されないものへと移っている。〈同棲関係にあるケン・チャコ / 家族を持ったヒロシ〉という対比のもとで、〈同棲という自由な関係に居続けるか / 家族をつくるか〉という主題へと。これを、ここでは第二の主題と呼ぶことにしよう。そして、多くの観客がヒロシの回想シーンに涙したことをふまえるならば、この第二の主題、そこにおける「家族の勝利」という結末は決して軽視してはならないものであるといえよう。


 では、なぜ家族は同棲に対して勝利するのか、もう少し踏み込んで考えてみよう。ケン・チャコの時代設定が夕日町銀座商店街から少しずれていたように、ケン・チャコの存在もまた商店街の人びとからややずれている。居場所を求めて濃厚かつ固有の関係を築こうとする、いわば「何者かでありたい」と願う商店街の人びとと違い、ケン・チャコは同棲という形で自分たちの可能性 (未来) を残している。未来が残されたままの関係性に、彼らは留まろうとするのだ。

 こう書くと「結婚」というものに対して強い期待を抱きすぎだと私は思うのだが、それでもかつて (相当な程度で今でも) 結婚は強固な関係性に人を縛るものだと考えられてきた。「生涯の伴侶」などという言い回しがあるように、結婚することとは二人で生涯を過ごすことなのであり、いわば未来を大きく決定づけることなのだと。ましてや子どもが生まれると、それは例えば「かすがい」などと呼ばれるように、夫婦を結びつけると同時に離れにくくしてしまう。子どもの存在に、二人のあり方が大きく左右されることになる。一軒家を購入することについても同様であり、ヒロシは春日部に自宅を構えることでその地へと束縛され、また容易に仕事を変えたりすることもできなくなった。多額のローンが彼を仕事へと縛り付ける枷となるからだ。ケン・チャコのあり方はこれらすべてに相対するものであり、だからこそ彼らはすでに未来が残されていない (未来を選択する余地が少ない) ヒロシの生活をあざ笑うのである。

 以上の結婚観はただの古い見方であって、離婚等含めて広い視野を持つべきだと思うし、同棲という選択肢に対して過剰に負のイメージを与えるのも良くないことであると私は考えている (というか、私自身は同棲の方を推す人間だ)。だが、少なくともこの映画においては、ケン・チャコとヒロシはそのような対立軸上に置かれている。同棲という関係を通じて、未来へと進まずにいる、未来を決められずにいる、何者でもない期間を生きようとするケン・チャコ。彼らの存在をそのように描くことで、ヒロシの回想シーンや、家族がいることを幸せだと言い張るヒロシのセリフが、映画内で意味を持つようになっているのだ。

 まとめておこう。この映画は昭和ブームを批判的に描くことを通じて、昭和ブームが〈流動性の低い過去 / 流動性の高い今〉〈希望を持てた過去 / 希望を持てない今〉という対立に則るものであることを描き出した。しかし、ヒロシの存在を通じて、その対立は第二の主題、〈同棲という関係のなかで未来を残しておきたいケン・チャコ / 家族という関係のなかで幸せを感じるヒロシ〉へと移されていく。このように対立関係を移すことを通じて、この映画はまるで「昭和ブーム」に対し「家族が勝利する」かのようなストーリーを描き出してしまうのである。

 しかし、果たしてこの「家族が勝利する」というストーリーは、どこまで肯定的に捉えて良いものなのだろうか。また、この結末は「昭和ブームと向き合う」という主題に照らして見たときに、どこか落着きの悪さを残してはいないだろうか。



4.2 ケンの理想を体現する装置としてのしんのすけ — 政治と消費のはざまで


 「家族の勝利」を押し出すことの是非については次項で検討することにして、ここでは野原一家が勝利する理由に、もう一つ違う視点からの分析を取り上げてみよう。

 イエスタディ・ワンスモアの二人は、作中で「物ではなく心」という価値観を強く打ち出している。再び夕日町銀座商店街でのセリフを引用しよう。


ケン  : ここには外の世界みたいに、余計なものがないからな。昔、外がこの街と同じ姿だったころ、人々は夢や希望にあふれていた。21世紀はあんなに輝いていたのに。今の日本にあふれているのは、汚い金と燃えないゴミくらいだ。これが本当に、あの21世紀なのか。
チャコ: 外の人たちは、心がカラッポだから。物で埋め合わせしているのよ。だからいらないものばっかり作って、世界はどんどん醜くなっていく。
ケン : もう一度、やり直さなければいけない。日本人がこの街の住民たちのように、まだ心をもって生きていた、あのころまでもどって。
チャコ: 未来が信じられたあのころまで。


 このシーンはイエスタディ・ワンスモアの二人が自身の理想を語る数少ないシーンであり、だからこそ観客に強い印象を与える。また、ここで提示される〈物/心〉という対立も、映画の主題となりえるだけの重みを十分有している。

 だが、映画をよく見てみるとわかるのだが (そしてこれがこの映画の面白いところなのだが)、〈物/心〉という対立、彼らの思想の核となりえるはずの重みをもったこの対立は、作中においてはいとも簡単に霧消してしまう。オトナたちは “なつかしい物” に惹かれて「20世紀博」へとはまり込んでいった。彼らは〈物〉を通じて過去に絡めとられたのである。また、ケン自身、愛車を傷つけられた際に、「奴ら、俺の魂に傷をつけやがった」と憤っている。これはケンにとって愛車という〈物〉が自分の〈魂〉と同等であったことを意味していよう。ともかく興味深いのは、〈物ではなく心〉という理想を提示しているオトナたちが、それにもかかわらず度々〈物〉へと惹かれていってしまうことだ。

 さて、ケン・チャコの思想がもつこのような矛盾は『オトナ帝国』に触れる論者の多くが指摘しているところだが、この矛盾に積極的な意味を与えた者は多くない。とくに、高度成長期の社会状況と結びつけてこの矛盾を分析しているのは、管見の限り社会学者の日高勝之だけである *1。彼の指摘はとても鋭く重要なものであると思われるため、以下では日高の『オトナ帝国』分析を追っていくことにしよう (日高,2014:第7章)。

 日高は、先述の矛盾を指摘したうえで、「この作品のアンビヴァレンスは、しかしながら、この映画が憧憬の対象としている1970 (昭和45年) 前後の時代状況やその時代を生きたケンらの登場人物とその後の人生の固有の事情を考えるならば、リアリティを見出すことが可能になる」と論じる (日高,前掲:366)。では、ここでふまえるべきとされている時代背景とはどのようなものか。それは、この時代が「政治の季節」の終わり、そして「消費の季節」の始まりに位置していたということである *2。ここに日高は特別の意味を見出すのである。

 そもそも昭和ブームは、基本的に社会における経済的な側面 (経済成長) ばかりを強調してきた。要は政治的な側面を等閑視することで、この時代を未来あふれる理想の時代として描き出したのである。だが、当時の日本は未曾有の経済成長と同時に、反体制的な「政治の季節」をむかえてもいた。最もイメージしやすいのは当時における学生運動の高まりであろう。これらについて詳しく触れるだけの余裕はないが、とくに東大安田講堂の事件とよど号ハイジャック事件が共に大阪万博の時期に起きていたこと (安田講堂封鎖は1969年、よど号ハイジャック事件は万国開幕直後の1970年3月31日) を想起してもらえば、1970年が単に経済の力のみで駆動する時代ではなかったことを理解してもらえるのではないか。また、万博閉幕直後の1970年11月に三島由紀夫割腹事件があったことも印象深い。

 そしてよく言われるように、この時期の若者は、一方で消費の季節を、他方で政治の季節を生き、その双方の間で引き裂かれていた。「万博開催前後の日本は、言うなれば体制と反体制の拮抗とでも言うべき一筋縄ではいかない状況が露呈していたのである。全共闘に代表される学生運動家らも、反体制的な理想を掲げながら高度経済成長の恩恵も受けており、消費の欲望にも抗し切れない生活を生きてもいた」(日高,2014:367) *3。そう確認したうえで日高は、ケンの抱える矛盾は当時の政治運動家が抱えていた矛盾と (製作者がどれほど自覚的に造形したかはさておき) 同型のものであるということを指摘するのである。

 前節でも論じたように、ケンは思想家であり革命家である。彼は「心」を取り戻すため新たな社会建設を目指すのだが、他方、その言動とは反する形で「物」へと強く惹かれてしまう。彼は「反体制的な理想を掲げる一方で欲望に囚われてしまう矛盾を抱えた」存在であった (日高,2014:368)。そしてそれは、ある意味では1959年 (昭和34年) に生まれこの時代を生きた原監督自身の抱える矛盾をそのまま反射していたのかもしれない。一方で革命的なものを描写しケンへの共感を表明しつつ、他方で当時の文化に触れる際にはどうしても〈物〉をフックにして思い出を共有しようとしてしまう。〈物〉の少ない当時には〈心〉があったとしながら、同時にサブカルチャー的な〈物〉 (あるいは、愛車といったどちらかといえばみせびらかしの消費に入る〈物〉) へと惹かれてしまう。こうした矛盾は、監督自身が経験し、彼が知らず知らずのうちに内面化したものなのであろう。このように、ケンという人物に監督を重ね合わせてみるならば、「この映画は、そうした[印象者注:社会変革という理想を掲げる]『自己像』と[引用者注:物の虜になってしまう]『自画像』に引き裂かれた当時の若者の姿の、21世紀初頭の時点からの回顧と懐古が入り混じった自己総括のドラマと解釈することができる」(日高,2014:368)。


 では、そのような矛盾を抱えたケンに対して、なぜしんのすけが勝利するのか。日高は、しんのすけがケンの矛盾を解消し、その理想を体現する存在であったためだと論じている。順を追って確認していこう。

 まず、この映画において子どもは〈物〉にあまり執着しない存在として描かれている。多くの映像作品では〈物をねだる子ども〉に対して〈禁欲を求める大人〉が対置されるのが常なので、『オトナ帝国』で提示される〈物をもとめるオトナ〉〈物にこだわらない子ども〉という対立は、ある種のコード違反を犯している。同じく、〈自由を求めるオトナ〉と〈家族的価値を掲げる子ども〉という対立も、一般的なコードからは離れている (日高,2014:363-364)。

 ここで注目してほしいのは、コード違反を犯した特殊な存在としてしんのすけが描かれることを通じて、ケンが自分の理想をしんのすけに託せるようになっているということである。〈レトロトピアへの革命 / 「20世紀博」という象徴的消費の空間〉、すなわち〈心 / 物〉、〈政治 / 消費〉、あるいは自身の掲げる〈理念 / 行動〉との間で引き裂かれるケンに対して、しんのすけはただ行動を起こす。しんのすけという存在において、ケンが抱える矛盾は全く存在しない。彼は物を求めず、心を体現し、それによって夕日町銀座商店街の人びとすら惹きつけていく。こうしてしんのすけは、意外にもケンの思想を完全に実現し、それを生き切ってしまう。そうした存在を前にして、ケンは破れたのだ。


「『自己像』と『自画像』に引き裂かれた自分史の総括と今後の生き方を探る映画の中のドラマにおいて、ケン=『大人』は敗北を喫しながらも、しんのすけらが家族や人との絆を優先する『脱消費』的な生き方を身をもって示すことによって、皮肉なことにしんのすけらはケンの理想=『自己像』を代わりに実現してくれるのである。


 『子供』がかつての『大人たち』の『自己像』を達成してくれることで、意外なことに一旦は挫折した過去の夢が現代で実現する。監督の原も、『昔の遺伝子』のようなものを『しんのすけなら受け継いでくれる』(『映画秘宝』2002年1月号,p.60-61) と述べているように、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズと同様、一種の世代間継承というナラティブ造形によって問題の解決=想像上の理想の実現が図られるのである」(日高,2014:372)。





4.3 「昭和」と同レベルで「家族」が理想化されているのでは?


 ここまでで見たことを簡単にまとめておこう。第一にこの映画は、〈同棲 / 家族〉という対立を挿入することで、「家族」の重要性を強調していく。この映画におけるヒロシとは、家族というもの、その「良さ」を体現する存在であり、いわば「なんでもない幸せな家族」の象徴であった。第二に、しんのすけもまた脱物質的な価値観として家族の絆を掲げており、ケンの主張と照らし合わせるならば、そこからは「物ではなく心が大切なのだ」というメッセージを受け取ることができるかもしれない。それはまさにケンが掲げた思想そのものであり、しんのすけはその思想を肩代わりする存在だったのである。このようにして、野原一家はイエスタディ・ワンスモアに勝利した。

 だが、この勝利をどこまで良いものとして捉えて良いのか、私には疑問が残る。結局のところ、この映画における「家族」は「昭和」と同じ機能を果たしており、同じ程度まで理想化されているのではないか。これが、今日『オトナ帝国』を見たさいに私が感じたことであった。

 「家族」が「昭和」と同じ機能を果たしているとはどういうことか。4.1にて論じたように、この映画の第一の主題は〈流動性の低い過去 / 流動性の高い今〉というものにあった。この対立はしかしながら、〈家族 / 同棲〉を対置させる第二の主題の下で〈流動性の低い家族という関係 / 流動性の高い同棲という関係〉へと移されてしまう。このとき、〈過去〉と〈家族〉が、同じく「流動性の低い関係」として位置づけられていることに注目してほしい。ここでいう「流動性の低い」とは、3節にて論じたように、「強固な関係性の下で濃密なコミュニケーションを行う温かい関係」といったものを想定している。夕日町銀座商店街の人びとは「昭和」にそれを求めたが、野原一家もまたケン・チャコと対置されるなかでそのような理想を体現する存在とされてしまったのである。

 重要なのは、(4.2にて示唆したように) ヒロシとしんのすけは実のところ、イエスタディ・ワンスモアの思想を継承しているだけであるという点だ。彼らは〈流動性の低い過去〉にあこがれる人々に対して、〈流動性の低い関係性である家族のすばらしさ〉を見せつける。そうすることであの組織を崩壊へと導いた。日高が指摘したように、これは勝利ではなく、継承なのである。

 こうしてこの映画は、「固定化されたコミュニティを理想化する」という部分は変えないまま、その対象を「昭和」から「家族」へと移してみせた。もう少し厳しい表現をするならば、この映画で視聴者が泣くのは、たんに美しい昭和コミュニティという神話が、素晴らしい家族コミュニティという神話にとって代わられたからにすぎない。






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参考文献
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大塚英二 1996 『彼女たちの連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』 文藝春秋.
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バウマン 2017 『コミュニティ 安全と自由の戦場』(奥井智之訳) ちくま学芸文庫.
———— 2018 『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』(伊藤茂訳) 青土社.
日高勝之 2014 『昭和ノスタルジアとは何か 記憶とラディカル・デモクラシーのメディア学』 世界思想社.
福田恆存 1961 「消費ブームを論ず」(in 1987 『福田恆存全集 第5巻』 文藝春秋).
布施晶子 1989 「イギリスの家族 サッチャー政権下の動向を中心に」in『現代社会学研究』,2巻.
古谷経衡 2015 『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』 PHP新書.
町田忍  1999 『近くて懐かしい昭和あのころ——貧しくても豊かだった昭和30年代グラフィティ』 東映.
見田宗介 2008 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』 河出書房新社.
矢部健太郎 2004 「ノスタルジーの消費 映画『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』分析」in『ソシオロジカル・ペーパーズ』,13号.
柳美里 2014 『JR上野駅公園口』 河出書房新社.
吉見俊哉 1992 『博覧会の政治学 まなざしの近代』 中公新書.
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国土交通省 2006 『平成18年度 国土交通白書』.
自民党憲法改正推進本部 2012 「日本国憲法改正草案」.
——————————— 2013 「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」.
菅義偉事務所 2020 「菅義偉 自民党総選挙2020 政策パンフレット」.



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*1: なお、消費社会論の文脈からこの矛盾に積極的な意味を与えているものとして、先にも挙げた (矢部,2004) がある。

*2: 戦後史における政治と消費の関係性については、やや図式的だが (吉見,2009) の第一章・第二章などがわかりやすい。なお、本ブログでは『オトナ帝国』の次の記事で『平成たぬき合戦ぽんぽこ』を対象にこの話を扱う予定なので、そちらも参照してほしい。『平成たぬき合戦ぽんぽこ』で描かれているのは、政治が消費に敗北していく様子であり、それはこの時期の日本社会が経験した変化を表象している、という話をする予定である。

*3: 大塚英二は『「彼女たち」の連合赤軍』(文藝春秋,1996) のなかで、1971~1972年の山岳ベース事件を、「男たちの『新左翼』のことばと、時代の変容に忠実に反応しつつあった女たちの消費社会的なことば」との対立から始まったものだと論じている (大塚,1996:27)。要するに山岳ベース事件は、政治の季節と消費の季節のはざまに起きた事件としても捉えられるのである。  なお、大塚は「連合赤軍の人々は山岳ベースで言うなれば消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れていったのである」とまとめているが (大塚,1996:31)、これについても『平成たぬき合戦ぽんぽこ』を論じる際に触れる。