世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

カード法の提案と、古代ギリシアの授業案 (第1節) — 知識構成型ジグソー法の抱える難点

1. 知識構成型ジグソー法が抱える難点





 教授法をいろいろと扱っている余裕はないので、身近な例から話を始めることにしましょう。私のいる県では東京大学の指導 (?) の下、知識構成型ジグソー法という方法を利用した授業がかなり推されています。割と有名な教授法なので詳述はしませんが、一応その方法を以下で説明しておきます *1

(1) 教員は問いを用意し、その問いを解くためのパーツ (資料) を大体3つ作成する。


(2) 資料毎に生徒を割り振り、グループを作成する (資料Aを読むグループ、資料Bを読むグループ、資料Cを読むグループ)。そのグループ内で資料に書かれたことの意味を話し合い、理解を深める。


(3) 次に、違う資料を読んだ生徒同士でグループを作成する (資料Aを読んだ者、資料Bを読んだ者、資料Cを読んだ者が一つのグループになる)。各生徒は自分の資料の内容を他の生徒に伝達する。


(4) それらの内容から問いへの答えを話し合い、意見をまとめ、発表する。


 要は、各資料をパズルのように組み合わせて問いを解くからジグソー法というわけです (たぶん)。まぁこの方法、理念としてはよくわかるのですが、やれと言われるとけっこうめんどくさいうえに、いろいろと釈然としない部分を抱え込んでいます。以下ではそのめんどくささと釈然としなさを並べて書いていき、問題提起を行っていくことにしましょう。なお、ここにおけるジグソー法とは、特定の問いを解くタイプのものを想定しています。意見交換だけを行う、いわゆるオープンエンド型のものは想定していません。歴史の授業において、オープンエンドで終わらせるような問いを提示する意味があるのかどうか、よくわからないからです (少なくとも「歴史」という枠に留まるのであれば、そういった実践にあまり意味はないと思うのですが。まぁ趣味の問題かもしれません) *2


1.1 問いは教師が立てて良いのか


 それではジグソー法の難点や限界を論じていくことにします。もったいぶる必要もないので、最初から核心に触れておきましょう。私は、ジグソー法が有する最大の難点は、問いを教師が立ててしまうことだと考えています。よく考えてみればわかるように、そもそも世の中において最も会得するのが難しく、それゆえに最も求められることになる力は、「問題を解く力」ではなく、「解くべき問題を発見する力」ではないでしょうか

 私が大学1年生のときのことを例に挙げてみましょう。学期末が近づくある日、アジア思想史を研究するある先生は言いました。「『道』に関するレポートを5000字程度で作成せよ」。多くの大学1年生はこの問いを前にして困惑しました。もちろん私も大混乱です。「一体何をどう書けばよいのだろうか」。そもそも多くの学生は必修科目だから受講をしただけで、道教思想についてほとんど何も理解していませんでした。しかし、それを脇に置いたとしても多分「一体何を書けばよいのか」という問題は残ったでしょう。「『道教における道とはこういうものだと言われている』、それはわかったとしよう。しかし、じゃあ何を論じろというのか。例えば辞典を開いて『道』という項目に書いてあることをまとめれば、それで『正解』なのか? いや、なんか違う……」。結局課題を提出できなくて単位を落とした人までいたらしく、大学一年生だった我々はそれほどまでにこの課題に翻弄されたのです *3

 では、学生たちはなぜこの課題にそこまでうろたえたのでしょうか。その困惑はおそらく、レポートにおいて何かを論じなければならないにもかかわらず、主題となるべき「問い」が十分な形で与えられていないということに起因したのだと思います。要は、レポートで扱うテーマ、それを導き出す「問い」は自らが考え出さなければならないようになっていたのであり、学生たちはそこにつまずいたのです。それこそが「何を書けばよいのか」という困惑の内実でした。

 そして、この「論じるべき問いを案出する能力」は、(卒業研究などを想起してみれば即座にわかるように) 大学生がレポートや論文を作成する際に強く求められている技能であるといえるでしょう。「問い」が最初から明確な形で与えられているレポートなど稀であり、多くの場合、大学生は各課題に向き合いながら、自身が回答可能なレベルの、十分に妥当な問いを案出することを求められているのです (卒論を上手に書けなかったり、研究ができなかったりする[私のような]人間は、大抵の場合、こうした「妥当な問い」を案出することがとても苦手です)。

 では、問いを考えなければならないとき、我々は一体何をするでしょうか。多くの場合は図書館等で文献を読み、先行研究を検討することから始めるでしょう。我々はそうした作業を通じて知識を身につけていくわけですが、ここで一つ重要なことがあります。それは、そこにおいて知識は、問いを解くための道具として用いられているわけではなく、問いを発見するための道具として利用されているのだということです。もちろん、結果的に、知識を使って問いを解いたかのようにレポートの内容を構成することはあるでしょう (「このレポートでは、〇〇という問いに対して、××という側面から論じる」といったように)。しかし、それだけを見て「問いが先に存在し、それを解くために知識が利用されるのだ」と考えてしまうのは、結果部分だけを見たときに覚えてしまう錯覚、ただの勘違いでしかありません。知識と問い、そしてその解決は、相互に手を取り合いながら生まれるものなのです

 ジグソー法において教師は、まず生徒に「問い」を与え、それを解くための「知識」までもを与えてしまいます。そうすることで、「知識」を「問いを解くための道具」であるかのように扱ってしまうのです。一応誰かと会話をしないといけない仕組みになってはいるので「コミュニケーション能力 (といわれるもの)」は身につくかもしれませんが、「深い学び」にあたる部分が十分に身につくとは思えません。与えられた問いに対して与えられた知識で答える出来レース、そうした「ただのパズル遊び」を「深い学び」と呼ぶのならそれでよいのでしょうが *4

 まとめておきます。重要なのは与えられた知識をもとに与えられた問いを解くことではない。手持ちの知識を整理するなかで、手持ちの知識から解答可能なレベルの妥当な問いを導き出すことのほうである *5ジグソー法は、そもそも知識と問いに対して誤った位置を与えてしまっており、これはかなり根本的な問題であるといえるでしょう。



1.2 そもそも科学等において必要なのは、与えられたピースをもとにパズルを解く力ではない


 引き続き、ジグソー法の難点を考えていきましょう。ジグソー法は知識をピースのように分解し、それを組み合わさせることで生徒を問いの答えへ誘導します。このとき、気になることがあります。そこで与えられるピースは、教師によって結構都合のよい形に成形されてしまっているのではないかということです。あたかもその知識がピッタリ問いへの答えになるかのように、教師によって何かしらの変形が加えられてしまう可能性を、この実践は排除できません。もちろん、教師が積極的に嘘をつくことはあまりないと思いますが、(ジグソー法を成立させること自体を目的化した結果、) 都合の悪いデータを見てみないふりをしてしまう人はそれなりにいるでしょう。

 あるいは、そうでなかったとしても、「え、この知識から本当にそんなことがいえますか?」みたいな解答が提示されたり、「え、これ他の知識から補強しないと、そういう答え以外の解答も想定できちゃいますよね?」みたいな無理が含まれている実践は (私の見てきた範囲になりますが) 結構多いです *6。ジグソー法において、授業で提示されていない知識が存在する可能性を考慮してみることや、教師が考えたパズルからはみ出てみる可能性は、かなり強く排除されているといえるでしょう。

 しかし、実際の研究 (ないし実社会において問題を解決すること) に必要なのは、パズルを組み立てる力のみではありません。論理的に情報を組み立てられるのも重要ですが、それに加えて何よりも重要なのは、新たに登場した情報を柔軟に取り入れ、ときに全体の構成すらひっくり返しながらそれを組み込んでいくことではないでしょうか。要は、その都度登場する情報に対応しながら、自身の仮説を適切に修正する能力が求められているのであり、1.1の内容とあわせるならば、新たな情報に即して自身の問いを組み替え、それによってすべてのパーツが適切な位置を与えられるように調整すること、それが求められているのだといえるでしょう *7。教師が「問い」と「その答えとなるパーツ」を与えてブロック遊びをさせる方法では、こうした能力は育たないのではないでしょうか。

 別例としてプログラミングなどを考えてみても良いかもしれません。プログラミングにおいても、論理的にコードを組み立てていくことは重要ですし、それができなければ話になりません。しかし、実のところプログラミングにおいて何より時間を使うのは、エラーへの対処およびプログラムの修正です。「組んだはずのプログラムが上手く動かない」「定義した関数に汎用性がない」といった事態が、動作をかけるたび、修正するたび、環境を変えるたびに発生します。そして、その都度に変化した環境から情報を読み取って、関数の中身やプログラムの構成全体を修正していくことが、プログラマーには求められるのです。

 「論理的な思考力」や「プログラミング」などという言葉を使うとき、我々はどうしても「頭のなかですべてのパーツをあるべき場所に配置し、答えへと一直線で辿りつく」ようなイメージをしてしまいがちです。あたかも、問題はパズルのように解けるのだと考えてしまうのです *8。しかし、研究において何かを論じることも、プログラムを書くことも、基本的には割としょうもない修正作業のくりかえしです。確かに「ひらめき」も重要なのでしょうが、ひらめいたことがそのまま完成形になることは稀であり、大抵の場合は度重なる修正のなかで当初の案からほとんど異なった姿になってしまうでしょう。



1.3 対象の限定と、データベースの不在


 難点の三つ目です。ジグソー法に則った授業を強制されているときにすごく厄介で辟易するのが、「パズルを組み合わせるかのように問いが解ける爽快感!」を重視しているためか、三つ程度に分解可能な知識しか問いにしないという強い制限を設けられてしまうことです。この強い制限のせいで、「それはたしかにいい方法かもしれないけどさ、そんなにいつでもこの方法で教えられる対象があるわけじゃないよね」というあの気持ちが生まれてきます *9。まぁ毎時間そんな対象を発見して授業できるなら凄いですが、それ、教えにくい範囲を飛ばしたり、無理やり知識を捻じ曲げたりしてる可能性も高そうだなぁという印象です。手短にまとめておくと、扱える対象に強い限定がかけられてしまうゆえに、扱える知識の幅が極めて狭められてしまう、というのがジグソー法の限界だといえます。

 そして、この限界は、ただ「授業をつくりにくい」ということを超えた重要な意味を有しています。その重要性を考えるために、ここでは教師がジグソー法で授業をつくるときのことを考えてみましょう。教師がジグソー法の授業をつくるとき、彼・彼女は自身のデータベース (教科書、専門書、インターネットの知識、各種史料などのデータ、自身の経験といったものなどの集積) から、「問い」とそれに答えるための「3つ程度の知識」を発見してきます (その過程は、まさに1.1で描いたようなものであるはずです)。図にすると、以下のようになるでしょう。


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知識構成型ジグソー法の図



 ここで押さえておきたいことが二つあります。(1) これらの「問い」ないし「答えとなる知識」は、それぞれが基盤になるデータベースの存在に支えられています。なにもない真空状態から「問い」は生まれえないのであり、教師が「問い」を案出できるのも、ひとえに彼・彼女が受験勉強などを通じてデータベース的知識を身につけたり、その知識を足場としながら文献やデータを探ったからなのです。しかし、ジグソー法はこうして作られた「問い」と「知識」を、データベースがまだ存在していない生徒に対して押し付けます。そもそもデータベースがなければ「問い」は生まれえず、また特定の知識を抜き出してきて「問い」に答えるということもできないはずなのですが、ジグソー法はデータベース構築という時間のかかる作業をすっ飛ばし、「問い」や「答えとなりうる知識」は何なのかを考える作業すらすっ飛ばして、「問い」が解けたときの気持ちよさだけを教えようとしてしまうのです。

 そして、(2) このとき、抽出された知識は、すでに「問い」にあわせて高度に文脈化されたものとなってしまっています。つまり、知識は (1.2で述べたように) 「問い」にあわせて変形されてしまっており、そうであるがゆえに修正に耐えうる柔軟性を失ってしまっているのです。これらの文脈化された知識断片をもって、それがデータベースになりうると考えるのは無理があるでしょう。

 まとめておくと、ジグソー法は授業で扱える知識の幅を狭めてしまうものであり、そうすることでデータベースを構築する作業を等閑視してしまう方法であるということです。今後生徒が自身で問いを案出できるようになるためには「いかに自分のなかにデータベースを構築するか」が重要であるはずなのに、「知識ではなくコミュニケーション能力を!」と唱える教育は、その作業を抜かしてしまうわけです。こうして、いくつかの問いに対応してつまみ食い的に析出された知識が、高度に文脈化されてしまい、修正に耐えうるような柔軟性を失ったまま、生徒のなかに残されることになります。こうした知識がどれほど役に立つのかはわかりませんが、少なくともデータベースがまだ構築されていない生徒に対して求められるのは、誰かの掌の上で科学ごっこをすることではなく、着実にデータベースを構築していくことのほうではないでしょうか *10






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*1:よくわからない場合は、検索してみてください。丁寧な説明がたくさん出てきます。

*2:以下では、私のいる県の方針を意識して、ジグソー法を対象にその限界を論じていきます。そもそも何が悲しくてわざわざこれを取り上げて論じなきゃいけないのかと頭を抱えるところですが、県と東京大学がこの方法にこだわっている以上無視するわけにはいきません。ただ、基本的には教師が「問い」と「それを解くための知識」を用意したうえで進行していく授業全般に当てはまる話をしています。それなりに広範な実践に関わる内容だと思うので、そのつもりで読んでいただければと思います。

*3:今から考えるとずいぶん些細な課題に思えるのですが、当時まだレポートというものを十分に理解していなかった学生たちは大パニックになりました。この記事はそういうかつての自分を思い出しながら、「大学生になる前に、こういう支援があったら助かったよなぁ」という気持ちも込めて書いています。

*4:解くべき問題を発見することは、大学や研究においてのみならず、一般的な仕事においても重要でしょう。よく、三次産業が盛んになった社会では対応力が重要であるといわれ、「これからの時代は、新しく登場した問題を乗り越えていけるような思考力をきたえることが大事だ!」などと言われたりするのですが、それこそ与えられた問いを誘導にしたがって解いているだけで身につく思考力などたかが知れていますし、「コミュニケーション能力」があれば自動で問いを発見できるようになると考えているならばそれは都合が良すぎます。

*5:もちろん、「手持ちの知識だけで答えられる問いのみを扱え」と言っているわけではありません。「知識」と「問い」を相互作用させながら、「問い」というものを上手く立ち上げるべきだといっているのです。実際に「問い」を立ててみたあとで、手持ちの知識が足りないから追加で調べものをするといったことはいくらでもあります。私はそれを否定しているわけではありません。ここで指摘したいのは「そもそも知識という基盤なくして問いは立ち上がりえないのだから、問いを先に与え断片的知識でそれに答えさせる授業実践は、どこかで順番を間違えているのだ」といったことです。

*6:こうした疑問を授業内で直接教師に提示しないこと (パズルが気持ちよくはまれば何かが達成されたと考え、それ以外のメタ的な要素は排除すること) が授業の暗黙のルールとなっているのですが、しかし納得いかないものはいきません。

*7:もちろん、必ずしも自身が知るすべての知識 (すべてのパーツ) に言及しないといけない、というわけではありません。ただ、少なくとも手持ちのパーツ間で矛盾が生じない仮説を組むことが重要になります。

*8:ドラマで出てくる大学教授は、背景に謎の数式とか英単語を浮かべつつ、あたかもすべてのことを理解しているかのように物事の真理、事件の真相を解き明かしたりしますね……。こうした頓珍漢な人物像も、このような知識観に支えられたものだといえるでしょう

*9:すごく能力のある人は「そんなのやらないための言い訳だ!」と言うかもしれませんが、別に特定の方法を特定の側面から批判することは、即座に「言い訳」であることにはなりません。既存の方法の利点を改めて探ることにつながったり、他の方法の案出にもつながります。「やってみること」それ自体を目的化したり、眼前に存在している課題・問題点を無視して「やってみないとわからない」などと言うのは、それこそ思考力の欠如というやつではないでしょうか。

*10:かつては「高校=データベースを構築する場」「大学=その知識も利用しながら問いを建てる場」という形の分業が、教師の間で信じられていたようにも思えるのですが……これはただの思い込みかもしれません。