世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出文庫,2008) 第二章 要約

第2章 博覧会と盛り場の明治

Ⅰ 原型としての博覧会—— 上演Ⅰ (p.122-54)

〇 民衆に比較のまなざしを求める博覧会

 「博覧会は江戸の見世物とは本質的に異なる、新しい秩序の空間を成立させる」ものであり、それこそが近代的都市空間の原型をなしていくものであった (:124)。明治国家は1873年のウィーン万国博に参加し、万国博覧会の秩序、すなわち「内と外の境界を越えて無限に広がるタブローのなかにすべてを取り込み、記号化し、整序する」、いわば「新しい〈眼〉の空間」の秩序を学び取り、それをモデルに一連の内国博覧会を開催する (:124-9)。そうした空間は、「そこに集う民衆に分類・比較する視線を要求していく」ものであり、博覧会はそれを主催する人々にとってそうした民衆教化のためのメディアとして理解されていたのである (:129-31)。



〇 盛り場としての上野と博覧会

 江戸時代の大火を経て、上野 (とくに山下と呼ばれた火除地など) はきわめて悪場所性の強い空間へと発展した (:134)。だが幕府の瓦解と上野戦争により焼け野原となったのち、そこは明治国家体制のもとで新たな意味をもった空間、すなわち天皇が「近代」を演出していく空間へと再編されていく (:134-5)。例えば、明治9年 (1876年) には山下の小屋や床店が強制的に取り払われ、翌明治10年には第一回内国勧業博覧会が開催されたのだが、こうした出来事以降上野は「近代化日本を象徴する国家的祭祀空間として特異な役割を果た」す場所となっていった (:136-9)。

 では、内国博覧会において明治国家は先述した「まなざし」をどのように具現化させたのか。これを見ていこう。例えば、見物人への注意書きにおいては博覧会を開帳や見世物から峻別するため出品物の「優劣異同を判別」することが見物人に求められ、また会場自体もそうした比較・選別を容易ならしめる形で構成されていた (:140-2)。出品者・出品物に対しても品質等の観点から一定の評価が下されることとなり、また入場者にもそうした権力を行使する「審査官」になることが要請されたのである (:142-5)。吉見は、こうした場においては、モノとヒトが、共同体・場所性の論理に依存しないような形で組織・意味づけられていたとしている。そして、それを可能にしたものこそが天皇という超越的な審級であったという (:145)。

〇 民衆が経験した博覧会

 しかし、実際に以上のような博覧会の思想を開催者が意図通り貫徹できたかというと、そんなことはなかった。むしろ実際には、博覧会の側に「江戸的な開帳や見世物の精神」が流入していった様子を見ることができる。例えば展示された仏像に銭が投げられたこと、出品者がとにかく大きなものを出品しようとしたこと、大正以降の博覧会でしばしばお化け屋敷などが登場するようになったことがその証拠であろう。大正のころまでに、博覧会は遊園地や興行街に近いものとして理解されるようになっていたのである (:146-50)。


Ⅱ 盛り場におけるまなざしの近代—— 上演Ⅱ・Ⅲへ (p.122-54)

〇 博覧会的な、商品の展示場としての盛り場の登場

 内国博覧会は、そこで売れ残ったものを陳列・販売する勧工場という形に転化することで、実際の街並みに影響を与えていく。これらの多くが銀座煉瓦街沿いに建てられ、そこでは店頭に並べられた商品を見て歩く「新しいまなざしの空間」が展開されることとなった。勧工場は後に百貨店へと代わられるが、それでも「眺めること、すなわち歩きながら商品を見比べ、そのなかに『新しさ』を発見し、またそうすること自体を楽しんでいく、そうした<眺める>という経験」は一貫して引き継がれていた (:155-61)。
 

〇 <異界>への窓としての盛り場と、その消滅

 今一度両国の盛り場へと戻り、なぜそこが盛り場になったのかを検討する。両国を盛り場にした要因は、(1) 回向院での開帳、(2) 背景に存在した売春地帯、そして (3) その空間が「死」と結びついていたことにある。これらがむすびついて「盛り場」という空間をかたちづくっていたのであり (:161-5)、そしてそうした聖俗の両面性を持つ空間 (異界) は、「水」という存在とも結びついていた。

 しかし、明治国家による規制強化を経て、その風景は次第に変化する (:166-70)。最も大きな意味をもったのは興行ないし営業の場への規制であり、設置場所や規模、営業時間などに対して加えられた微細な取り締まりは、両国から他所へと見世物の移動を招いた (:171-3)。その後、明治20年代以降になると水力から陸上交通へと重点が切り替わっていき、水辺に結びついた江戸の盛り場性は完全に行き場を失うことになってしまう (:173-4)。
 

〇 <外国>への窓としての、新しい盛り場

 以上の規制措置は欧米諸国からの視線を強く意識して行われたものであり、その点でそうした視点を民衆の身体へと媒介する制度であったということができる。そして、そうしたなかで新しい盛り場となっていくのが、煉瓦街の建設された銀座であった。水路中心の江戸にあって場末でしかなかった銀座が、明治元年の築地外国人居留地開設と明治5年の横浜―新橋間鉄道開通を経て (ちょうど居留地と鉄道の中間地点であったため)「西洋」へ開かれた窓として、<外国>のイメージに直結した空間として受容されるようになっていく (:175-80)。ただし、銀座煉瓦街がそのまま (3章で見るような) 大正・昭和のモダンな盛り場へと発展していったわけではない。煉瓦街には空き家が目立ち、そこに興行が入り込むことで、そこにも<異界>の論理が流入した (:181-3)。
 

結1870~90年代の都市空間における「開化」の位相


 以上で見た上野の変容、あるいは両国から銀座への「開化」を、盛り場を成り立たせる時間-空間構造の変容 (集合レベル) と盛り場に集う民衆の身体感覚の変容 (個体レベル) からまとめていく。

 第一に、集合レベルにおいてこの変化は、<異界>への窓としてある盛り場から、<外国>への窓としてある盛り場への変容として捉えられる。赤坂憲雄は <異人 (異界)> を「共同体の内 / 外を往還する運動の軌跡」と規定し、<異人> は外部と往還することで内部のアイデンティティを更新しうる存在であるとした (:185)。このような視点の下で盛り場について考えよう。王権というものは、浄を自らに纏い、不浄を秩序の周辺部に負わせる (都/市)。そのようにして「都」から排除された人々(「外」へと追いやられた人々) が「公界」に集い、盛り場の原型を形成していった。その点では、盛り場を形成した人々もまた <聖なるもの> の一部だったのだ。幕藩体制下においてそのような人々は身分的に限定され地域的にも囲い込まれたのだが、彼らはそれを逆手にとって 「禁忌のもつ異常な形と感覚を芸能美へと転化」 させることで「悪場所」を創造していく (:186-8)。悪場所とは、そのような形で俗なる内部と聖なる外部を往還する場、すなわち <異界> へと開かれる場であった。

 これに対して、<外国> の窓として開かれた盛り場は、そのような内/外という関係に結びつけられた超越性ではなく、先験的な、境界性抜きの自立した超越性によって成り立つ (:188-9)。これはどういうことか。まず、内/外の往還とは単に空間的なものではなく、時間的なものでもある。真木がアフリカ人の時間観に対して言及したように (俗なる時間としてのササ、聖なる時間としてのザマニ)、内/外の並行性はかつて時間に対しても観念されていた。それが、<未来> を輸入するなかで「客観的に計測されうる時間の線形性」へと移行し、形骸化したのである。そして、そうした <未来> へと向かう今として現在を意味づける超越的な審級こそが、(アフリカにとっての、あるいは同じく日本にとっての) <外国> だったのだ (:189-91)。<未来> は現在の先にある非空間的な超越性であり、空間的な <外部> とは異なる。民衆の感受性と想像力の総体はそうした遠点に向かって再編され、それに不可欠な媒介項こそが天皇であった (:191-2)。

 次に個体レベルにおいては、上述の変化は <触れる> 感覚から <眺める> 感覚への変化として捉えることができる。例えば開帳において経験されていたのは、如来や菩薩を <眺める> ことではなく、意識の上で <触れる> ことであり、そこでは触れる者が触れられる者と同一の空間を共有していた (:192-3)。これに対して、内国博覧会において明治国家が導入しようとしたのが、<外国=未来>を審級として物品を <眺める> 視点、<比較> し <俯瞰> する視点である。眺めることは、空間・世界の外に立ち、対象の広がりを越えた外部から展望することを意味するのであり、その感覚の登場こそが新たな盛り場における民衆の身体感覚の変化であったということができる (:193-6)。