世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

今日の優生運動をどのように捉え、どのように評価するか ②

 

2. 以上のまとめで見逃されるもの

 しかし、以上のまとめ方では新旧優生運動の重要な側面をいくつか見落としてしまう、というのが私の見立てです。今日の優生運動を評価するという本記事の目的のために、前節のまとめでは捉えられていない新旧優生運動の共通点・差異を指摘していくことにしましょう。
 



2.1 共通点としての個人の期待

 以上のまとめが見逃すことになる側面とは何か。第一に、市民・科学者の期待も、旧優生運動を支える機能を果たしていたという側面が等閑視されてしまっているということを指摘できます。たしかに断種実践に強制性が伴っていたように、国家・政府・州などが強制的に人々に働きかけることもありました。しかし、そうした権力と同時に、市民・科学者の期待がそこに存在していたことを見逃せば、新旧優生運動のもつ重要な類似性を見落とすことになるでしょう。

 科学者・市民の期待が旧優生運動を支える要素となっていたことを表している例として、人々の健康優良コンテストへの熱狂を挙げることができます (喜堂,2013)。① こうしたコンテストの開始・定着には、もちろん政治家・行政からの働きかけなどが関与していたのですが、同時に、その端緒は地元母親会議の代表者たちにありました (喜堂,2013:145-6)。② また、母親たちはすぐにコンテストの「科学」の虜になったのですが、そのコンテストは優生学の広報の場としても有効活用されることとなります (喜堂,2013:149-50)。以上の例からもわかるように、旧優生運動は例えば国家から国民への介入といった単純な力関係のなかで駆動したのではなく、科学知と科学者の期待、科学知を利用した権力、人々の科学への期待といった多様な要素が絡まり合いながら成立してきたものだったのです *1



 

2.2 より巧妙になった国家介入 , 防波堤として機能しないリベラル優生学

 また、介入の主体が国家ではなくなったというまとめ (1-1-(C)) についても検討する必要があります。たとえば1980年代、シンガポール政府は「大卒者による結婚や出産を奨励する数々の政策」を打ち出すと同時に、「低所得女性に対しては、低価格アパート入居の頭金四千ドル」を提供するとしました。「不妊手術を受ける」という条件付きで (サンデル,2009=2010:73-4)。シンガポールは、強制ではなく、奨励金という形で不妊手術を薦めたのです。実際にはこれらの政策はシンガポールの女性に不人気であったらしいのですが、では国家の介入が治療の助成という形で行われる場合はどうでしょうか。

 日本では2004年から生殖補助医療を受けている人への助成が、少子化対策として行われています。2002年の人口推計が直接の引き金となってつくられたこの助成制度は、政府が人口対策のために生殖補助技術を正式に取り入れていることを意味しているといえるでしょう (福本,2008:173,184)。これもまた、補助金によって優生技術の利用を奨める働きかけが行われている一例であるとみることができるかもしれません *2

 以上の例から、強制性といった側面が失われる一方で、優生思想的な国家介入や人口調整のための国家介入が、以前よりも巧妙な形で進められているのが今日の状況であると述べることができるでしょう。

 そして、今日新優生運動を擁護する立場として支持を集めている「リベラル優生学」の立場は、「国家の中立性」「個人の選択」「子どもの権利」を強調するにもかかわらず、国家による強制に対しての防波堤には成り得ないと、サンデルは指摘します。リベラル優生学は「子どもに対して特定の職業や人生計画へのいかなる指示も与えないかぎり」でエンハンスメントを許容します (サンデル,2009=2010:83)。これは逆に考えるなら、① 子どもの福祉を子どもの権利のために促進する義務が親にあるというロジックを前提としたとき、② エンハンスメントの対象となる能力が、汎用的な手段となりうるものである場合に限れば、③「国家が子どもを学校に通わせるよう親に命令することができるのと同様に、(…) 遺伝子技術を利用するよう、[国家が]親に命令すること」を許容してしまうのです (サンデル,2009=2010:83)。



 

2.3 差異としての、責任観の変容

 最後に、新旧優生運動の差異として、責任の所在や責任観が変容している可能性を指摘します。

 旧優生運動において人々に求められたのは、社会の福祉や集団の利益に貢献することでした。集団の利益に反する行為は、その責任を問われることとなったのです。たとえばセオドア・ローズベルトは「人種の自殺」という言葉を用い、女性が子どもを持たないのは「人種に対する犯罪」であると述べています (喜堂,2013:144)。女性は、人種のために、子どもを産む責任をもっているとされたのでした。

 しかし、新優生学的技術が発達した社会では、これとはまったく異なった責任を人々は負うことになります。それは、〈新優生学的技術を利用する/利用しない〉という「選択」に伴う責任です。以下、サンデルの議論に沿う形で話を進めていきましょう (サンデル,2009=2010:Ch.5)。サンデルが危惧するのは、以下のような形で相互扶助の基盤が切り崩されていくことです。① 生殖医療の発達によって選択の幅が広がった場合 (誰でも生殖医療を受けられるようになった場合)、② 生殖医療を利用しない人が、「生殖医療を利用しないことを選択した人」として捉えられてしまう可能性が生まれます。③ これが〈選択が責任を産む〉というロジックと結びついたときに、なにが起こるでしょうか。④ 生殖医療を利用しなかった親のもとに、なんらかの障害をもった子が生まれてきた場合、その子どもが生まれたのは「生殖医療を利用しないことを選択した親の責任だ」と捉えられてしまいかねません。⑤ ここから、「生殖医療を利用しないことを選択した親は、生まれた子どもの障害などについても自身で責任をとらなければならない」といった非難が生まれてしまい、障害をもった子どもへの理解と扶助、そうした子を持つ親への連帯の意識が弱まってしまう可能性があります *3*4。すごくわかりやすくいえば、「障害をもった子供が生まれたのは、生殖医療を受けなかった親の責任だ。社会がそれを面倒見てやる必要はない」と言い出す人が現れかねないということです。


《参考文献》

・小野直子「近代科学の台頭と人間の分類 ―20世紀転換期アメリカにおける「精神薄弱者問題」―」,『富山大学人文学部紀要第62号』Pp.163-186,2015.
・喜堂嘉之「健康優良コンテスト狂想曲――革新主義期の『科学』とアメリ優生学運動」,樋口映美・喜堂嘉之・日暮美奈子編『〈近代規範〉の社会史 都市・身体・国家』Pp.137-161,彩流社,2013.
・ゴルトン,F.「優生学――その定義,展望,目的」(北中享子・皆吉淳平訳),慶応大学『哲学 第114集』Pp.181-8,2006. (Galton,F., “Eugenics: It’s Definition, scope and aims”., Sociological paper.,Pp.45-50.,1904.)
・サンデル,M.『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』(林芳紀・伊吹友秀訳),ナカニシヤ出版,2010. (Sandel,M., The case against perfection: Ethics in the age of Genetic Engineering., Belknap press., 2009.)
・福本英子「少子化対策と生殖補助医療を考える」,日本社会臨床学会編『シリーズ「社会臨床の視界」3 「新優生学」時代の生老病死』Pp.173-200,現代書館,2008.
フーコー,M.『性の歴史2 快楽の活用』(田村俶訳),新曜社,1986.(Foucault,M., L’usage des plaisirs., Gallimard., 1984.)
フーコー,M.「倫理の系譜学について-進行中の作業の概要」(守中高明訳),蓮實重彦渡辺守章監修『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅹ 倫理/道徳/啓蒙』,筑摩書房,2002. (Foucault,M., “On the Genealogy of Ethnics: An Overview of Work in Progress”., In Michel Foucault: un parcours philosophique., Dreyfus,H.,Rabinow,P., Gallimard.,1984.)
・藤川信夫編『教育学における優生思想の展開』,勉誠出版,2008.

*1:やや横道に逸れる話をしておきましょう。晩年、フーコーは自身の研究を振り返りながら、系譜学には真理(知)・権力・倫理の三つの軸が存在すると述べています (フーコー,1984=2002)。ある知は、人を「認識する主体」にするとともに、「他者に働きかける主体(権力)」、そして「倫理に沿って自己を形成する主体」にする、と。  この軸に沿って健康優良コンテストを評価すれば、次のようになるでしょう。〈政府 / 市民 / 科学者ら〉はそれぞれ〈優生・健康に関する科学的な知〉を利用し〈健康コンテストや健康の啓蒙という形で他者へ働きかけ〉ていました。また、そのなかで市民らは〈健康という倫理的実質に沿う形で自身の生を作りかえてきた〉のだと評価できます (科学知が農村に定着しやすい形に書き換えられていたという指摘 (喜堂,2013:160) も興味深いです)。  このように健康コンテストを捉えたとき、旧優生運動をただ国家による権力行使として捉える図式はやはり単線的であるということが見えてきます。もちろん国家が運動に関わる側面はあったのですが、国家による働きかけの根底には科学者の知があり、また市民にとってその知は一つの道徳、あるいは〈生存の技法〉として機能していたのです。

*2:もちろん、「治療」目的での利用に助成が限られることは留意しておく必要があります。

*3:責任観の変容についての議論は、技術の進歩が〈技術を利用しない人たち〉にも大きな影響を与えてしまうということを示唆しています。技術利用を求める人のみが利用するのであれば問題は生まれないというリベラル優生学的な考え方は、この点でも危険を孕んでいるといえるでしょう。

*4:ここでの話は、わかりやすくいえば、新たな技術が登場し、新たな行為の可能性が登場したことが、出生という出来事への我々の考え方を変容させてしまうかもしれないというものです。そして、そうした考え方の変化から生殖医療を受けることが一般化していった場合、それは私たち個人の在り方 (生まれ方) の可能性が、大きな変容を被ったのだということになるでしょう。このように、ある技術・知識の登場・発展が我々の思考や存在に影響を与えたり、それを規制してしまったりするということは、それ自体とても興味深いことです。