世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

文献紹介:木畑洋一『20世紀の世界』(2014) に関するコメント

 先日、『20世紀の歴史』をまとめました。
 もう少し、木畑『20世紀の歴史』について掘り下げておきましょう。

〇 コメント:本書の意義と、本書を読み解く視点

 まず、本書の意義を明らかにしたうえで、次に「国民国家の形成」と「地域統合」という視点から本書の再整理を試みます *1

 繰り返しになりますが、本書は20世紀の歴史を、植民地化されていた地域を視野に入れる形で記述しなおすものでした。西洋中心の歴史観から見ると第二次世界大戦と冷戦の間には何か大きな分岐があるように見えるのですが、植民地域は「脱植民地化の貫徹」という19世紀末から地続きの問題に依然として取り組んでいたのです。こうした視角に立ち、木畑は1870年代から1990年代初頭に至る時代を「長い20世紀」として抽出したのです。ホブズボームの「短い20世紀」論がヨーロッパ中心的であったという限界をふまえつつ、他方で西洋史を無視して20世紀の歴史を描くことなど事実上不可能ななかで、いったいどのようにして総体的な20世紀史を記述しうるか。本書は「帝国主義」をキーワードとしながら、見事にもこの課題に対し一つの答えを提示しています。


 さて、本書では地域的にも時代的にもかなり広い範囲の事柄が扱われています。そのため、読み進めていくうちに読者が膨大な事例のなかで迷子になってしまうこともあるでしょう。そこで、植民地の側から20世紀史を見ていくためにも、以下では「国民国家の形成」と「地域統合」という視点から今一度本書の内容をまとめていきます。

 19世紀末から進行した帝国主義化は、世界を一体化させていく一方で、地域同士のネットワーク形成に大きな偏りを生み出しました。帝国主義諸国は「支配する国」同士の連携を強化していったのですが、そうした中心諸国によって支配された周縁諸地域においては、連携は乏しいままとされたのです (:40-1)。こうしたなかでアジア統合の主軸となるための期待をかけられたのが日本でした。しかし、日本はそれを見事に裏切り帝国主義への仲間入りを果たします。後に掲げた「大東亜共栄圏」が、タテマエのうえでは相互の自主独立の尊重を掲げつつ、実態としては帝国拡大の一手段でしかなかったことも (:153-4)、当然アジア諸国の失望を招くこととなりました *2

 さて、これに続く二つの世界大戦は植民地に何をもたらしたのでしょうか。総力戦への動員がもたらしたのは、帝国支配への懐疑とナショナリズムの勃興でした。第一次世界大戦下では、総力戦下において「民族自決」の考えが浮上します。これは植民地側から出た考えではなかったのですが、各植民地はこの理念に期待をかけました。それに対し、帝国支配側は種々の民族運動に弾圧をもって臨みます。戦後処理も、結局のところ委任統治制度などを利用した植民地支配体制の手直しでしかありませんでした (:98-102)。第二次大戦期ではさらに大規模な動員が行われたのですが (:169-73)、こうした動員がやはり各地で帝国支配の乱れを生み出すこととなります。これが、戦後における地域独立の波へとつながりました。

 そもそも、帝国主義は「国民国家」の輸出という側面を有していました。第一に、植民地分割はその過程で周縁の各領域を確定していきます (国境の形成)。第二に、そうした線引きは恣意的であったため、線引きをしたうえでその領域内に共通の法・制度・言語等を流通させる必要がありました (制度の形成)。このようにして近代諸制度が輸出され、「国民国家」の基礎が形成されたのです *3。そうしたなかで、第三に帝国支配への不満が様々な形で噴出します (国民の形成)。これが各地域の分離独立につながりました。

 さて、戦後になると、各植民地は国民国家の形成に励むこととなります。しかし、それは苦難の道のりでした。恣意的境界線を利用した主権形成は度々紛争の原因となり、また政治的には権威主義からの、経済的にはモノカルチャー経済からの脱却を果たすことも困難でありました (:203-8)。他方で、脱植民地化は各地域における国際秩序の在り方を大きく変えることに寄与していくこととります。脱植民地化の過程で連邦やフランコフォニーといった新たな秩序が実現し (:224-8)、かつての植民地が新たな国際的協力の枠組みをつくろうとする試みも進められました (:229-32)。その後、各地では「地域統合」も模索されるようになります。これは、主権を有する国民国家を目指した脱植民地地域が、同時に国民国家の枠を超える協力枠組みの形成にも着手したことを意味していたのです (:234-6)。
 

〇 コメント:ASEANEU – 「長い20世紀」における、二つの地域統合体の差異

 以上のように本書の内容を見ていくと、植民地にとっての20世紀とは、支配-被支配関係に縛られながらもなんとか国民国家の形を作り上げんと模索してきた時代であったといえるかもしれません。そのように考えてみると、次のような疑問が浮かびます。すでに国民国家化されていたヨーロッパにおける地域統合体であるEUと、国民国家化を目指すさなかアジアで作られた地域統合体であるASEANとでは、どのような性格の相違があるのでしょうか。一方のEUは、少なくとも理念のうえでは、主権国家体制の克服という目標を共有していました (金澤ほか,2020:276)*4。これに対し、アジアはそもそも主権国家体制といった枠組みを共有していませんし、当時もその形成途中にありました。そうした地域において、地域統合体はどのような性格を有したのでしょうか。最もわかりやすい理解としては、ASEANは経済統合を目指したのであり、EUのように不戦共同体という理念を共有していたわけではなかったというものでありましょう *5。しかし、こうした一般的な理解に反して、実はASEANも不戦共同体としての側面を持っていました。そのことを以下で指摘し、ASEANがいなかる意味で「長い20世紀」に位置づくのかを考えたいと思います (以下、山影,2000を参照)。

 1960年代の東南アジアと言えばベトナム戦争を思い浮かべることが多いですが、実は60年代前半において深刻だったのは東南アジア島嶼部における紛争でした。イギリスの植民地支配に端を発するマレーシア・インドネシア・フィリピン間の紛争は *6、後にマレーシア連邦からのシンガポール独立問題も加わり混迷を極めていくこととなります。しかし、特にマレーシアとインドネシアの和解交渉を秘密裏に進める中で、指導者同士の関係が構築され、これが地域協力機構設立への流れを生むこととなりました。その結果、シンガポール分離独立の2年後である1967年に、インドネシア・マレーシア・タイ・フィリピン・シンガポールの五か国でASEANが結成されたのです。これらの地域はなぜ協力機構の設立に乗り出したのでしょうか。山影は次のように指摘します。
 

 インドネシアの混乱を間近で目撃しつつ、共産主義の浸透という脅威に晒され、さまざまな分裂要因を国内に抱えた各国指導者は、国家建設・国民統合を進める必要があったし、経済発展も実現していく必要性に迫られていた。そのためには、互いに域内対立で消耗することは是非とも避けなければならなかった。(…) 言い換えれば、国民国家形成途上だから地域主義に消極的になるという見方とは反対に、国民国家化を進めるためにこそ、東南アジア諸国政府は地域主義を進めるようになったのである。(山影,2000:266-7)

 
 むろん、ASEAN加盟国同士の関係は非常に脆弱なものであり、危険をはらみ続けていました。むしろ、相互に不信を有し続けていたからこそ、東南アジアは不戦共同体化を目指したといえるかもしれません。1970年代初めにASEAN諸国は「東南アジア平和自由中立地帯宣言」を出し、1976年の第一回ASEAN首脳会議では「東南アジア友好協力条約」が調印されています。これは「締約国同士の紛争の平和的処理を約束し、個々の紛争解決のための機関設立をうたったもの」でした (山影,2000:269)。後のASEAN拡大にあたっても、関係改善の証や加盟の前提として、新参周辺諸国に「友好協力条約」への加盟を求めています。

 ここまでの話をまとめておくと、EU国民国家を越えた地域連携の実現という理念を掲げたのに対して、ASEAN諸国は国民国家化を進めるためにこそ諸地域同士で連携する必要に迫られたということになるでしょう。それは、相互不信のなかでもなんとか域内対立で消耗することを避けんとする、ある種苦肉の策でもあったのです。そのような事情があったとはいえ、確かにASEANは不戦共同体としての道を歩み始めました。以上のようにして見ると、ASEANの形成にも脱植民地化と国民国家化への模索が関わっていたということがわかってきます。こうした視点のもとで、ASEANの結成もまた「長い20世紀」に関係づけられた1シーンとして理解することができるのです。

 

〇 コメント:地域統合という視点のもとで諸連携を抽出したうえで、その性格の差異を記述する

 さて、最後に論点というか、自分にとっての今後の課題を提示しておこうと思います。本書ではEU,ASEANのほかアフリカ統一機構 (OAU) などにも触れられているのですが、これら地域統合体の差異をどのように整理しうるでしょうか。以上のコメントからもわかるように、「長い20世紀」という視点は、通常異なるものとして見られているいくつかの事例 (例えば超国家機構として見られるEUと、経済協力体として見られるASEANなど) を結びつけ、それをある程度統一的な視点のもとで (例えば国民国家地域統合といった概念のもとで) 比較することを可能にしてくれます。そのような比較を深化させていくなかでこそ各事例への理解も深めうると思われるのですが、ではどのような視点の下で各地域統合体を比較することが有意義でしょうか。
 


 



参考文献
 金澤周作監修2020『論点・西洋史学』 ミネルヴァ書房.
 山影進2000「不戦共同体の形成とASEANの経験」(in『岩波講座 世界歴史27ポスト冷戦から21世紀へ』 岩波書店).

*1:再整理ですので、前記事の内容と重複する部分があります。

*2:こうした歴史的経緯もあるため、日本がアジア地域の政治的統合の主軸として活躍する可能性というのは今後も実質的に絶たれているといえるでしょう。

*3:また、帝国主義体制下で活躍した現地エリートが、その活動のなかで自信と知識を身につけナショナリズムを醸成させていったという側面もあるでしょう。

*4:リプゲンスは『欧州統合政策の始まり』(1977) のなかで、主権国家体制を克服し平和を追い求めるという理念が各国に共有されていたことを指摘しました。ただし、それは理念のうえでだけだったという指摘もあります。ミルワードは『国民国家のヨーロッパ的救済』(2000) において、欧州統合とは、むしろ国家の再建・強化を目指した企てであったと論じました (金澤ほか,2020:277)。理念や思想だけではなく実態にも目を向けながら欧州統合の本質を理解しようとするミルワードの指摘も重要です。

*5:両機関にそのような性格上の差異があることは事実です。EUは超国家的機関であるEU委員会を有しますが、ASEANにはそれにあたる組織はありません。基本的な性格のうえでも、ASEANFTA (自由貿易協定) に近いといえるでしょう。ただし、ASEANもアジア版EUを目指し2015年にASEAN共同体になってはいます。一応、安全保障や社会・文化の共同体を目指すことも掲げてはいるのですが…あまり話が進んでいるようにも見えません。私の勉強不足かもしれませんが。

*6:紛争の内容はかなり複雑なのですが、簡単に説明すると次のようになります。① イギリスが東南アジア植民地の大部分を一括してマラヤ連邦とし独立を付与する (現マレーシア)。② それに対してフィリピンがマラヤ連邦に組み込まれたボルネオ島のサバの領有権を主張。③ マラヤ連邦を拡大するマレーシア連邦の構想が出ると、ブルネイでは連邦参加を拒否する武装闘争が起き、④ この武装闘争を継起に、インドネシアスカルノ政権はマレーシア連邦を英国とマラヤによる新植民地主義であると非難、「対決外交」を行うようになった。⑤ 実際に (ブルネイ不参加の形とはなったが) マレーシア連邦が成立すると、インドネシアは「マレーシア粉砕」をスローガンにゲリラ的な攻撃を開始し、フィリピンは国交を断絶した。