世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

日本の近代と法意識 ― 青木人志『「大岡裁き」の法意識』(2005) から ③

3. 日本人と法意識論 ― 〈これは法=権利である / そうではない〉と問う姿勢は日本に根付いたのか

 村上の論の細かい妥当性はさておき、確かに日本人は訴訟という事態をアブノーマルなものと捉えているように見えます *1。それは訴訟件数を比較してみるだけでも明らかでしょう。地方裁判所の通常民事訴訟の新受件数は、人口比でアメリカの1/8、イギリスの1/4、フランスの1/4、ドイツの1/3、韓国の1/3であるといいます *2アメリカが訴訟大国であることは有名なのですが、それを除いてもやはり日本の訴訟件数は少ないといえるでしょう。民事におけるトラブルの解決を司法に委ねることに対して、日本は非常に消極的であるといって差し支えないと思われます *3



 こうして見ると、〈法/不法〉のコードに従った紛争処理が日本に十分根付いているかは、確かに怪しいといえるでしょう。少なくとも訴訟件数だけで見るならば、不十分であるように見えます。では、なぜ日本の訴訟件数は少ないのでしょうか。その原因を「日本人の法への意識」に求める議論として、法意識論と呼ばれるものがあります *4。この法意識論を扱った平易な文献として、本記事では青木人志『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』(青木,2005) を紹介したいと思います *5

 本書は、日本人の法意識を日本における法受容の過程から論じるものです。こう説明すると堅苦しい印象を覚えるのですが、内容はかなり一般向けです。例えば1章では日本の法受容過程を穂積陳重の写真から論じ、3章では明治期の法廷の様子がどのように変化していったかを法廷図から明らかにしており、いずれの章も図像を用いた論述で読者を惹きつけます。そうした読みやすさを確保するにあたって学問的な厳密性が犠牲になっており、正確性・論理性に欠ける部分も多いという欠点もあるのですが *6、図を用いた説明は直感的に理解しやすく、とくに法廷図の比較などは授業資料としても用いやすいため、おすすめの一冊です。

 では、本書で「日本人の法意識」の内実として指摘されているのは、どのような心性なのでしょうか。ごくごく乱暴にまとめるならば、権利や民事訴訟についての意識が脆弱であり、紛争を権利=法という基準にのせ司法のもとで処理することを回避したがるような心性です
 






参考・紹介文献 資料

青木人志 2005 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』 光文社新書.
太田義器 2014 「近代自然法論 ―普遍的な規範学の追究」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
川島武宣 1967 『日本人の法意識』 岩波書店.
・小林弘 2007 「ホッブズの哲学における権利と法」 『英米文化』37 : 43-59.
・小山哲ほか 2011 『大学で学ぶ西洋史[近現代]』 ミネルヴァ書房.
・阪上孝 1988 「世論の観念について」 『經濟論叢』141(6) : 307-24.
・笹倉秀夫 2002 『法哲学講座』 東京大学出版.
佐藤俊樹 1993 『近代・組織・資本主義:日本と西洋における近代の地平』 ミネルヴァ書房.
佐藤俊樹 2011 『社会学の方法 ―その歴史と構造』 ミネルヴァ書房.
高木八尺編 1957 『人権宣言集』 岩波文庫.
・瀧井一博 2011 『伊藤博文演説集』 講談社学術文庫.
・フット 2006 『裁判と社会 —司法の「常識」再考』 NTT出版. 
・辻康夫 2014 「ロック ―宗教的自由と政治的自由」 『岩波講座 政治哲学1主権と自由』 岩波書店.
・馬場健一 2004 「訴訟回避傾向再考 ―『文化的説明』へのレクイエム」 『法社会学の可能性』 法律文化社.
・中村義孝訳 2017 「ナポレオン民法典」 『立命館法學』.
・福井康太 2002 『法理論のルーマン』 勁草書房.
穂積八束 1891 「民法出デテ忠孝滅ブ」 『法學新法 第5號』.
村上淳一 1997 『〈法〉の歴史』 東京大学出版.
森村進 2015 『法哲学講義』 筑摩書房.
ラッセル 1970 市井三郎訳『西洋哲学史3』 みすず書房.
ルーマン 2003a 馬場靖雄訳 『近代の観察』 法政大学出版.
ルーマン 2003b 馬場靖雄ほか訳 『社会の法』 法政大学出版.
ルーマン 2004 村上淳一訳 『社会の教育システム』 東京大学出版.
ルーマン 2020 馬場靖雄訳 『社会システム (上)』 勁草書房.
 
文部科学省「高等学校指導要領における歴史科目の改訂の方向性」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/062/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/06/20/1371309_10.pdf , 2020/03/30参照).
国会図書館ホームページ「穂積八束博士論文集」(https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000567488-00 , 2020/03/31参照).
国会図書館ホームページ「国体の本義」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1156186 , 2020/03/31参照).
名古屋大学大学院法学研究科「法律情報基盤」(https://law-platform.jp/ ,2020/03/31参照).
自由民主党2012「日本国憲法改正草案に関するQ&A増補版」 憲法改正推進本部 (https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf , 2020/03/31).
・日本弁護士連合会ホームページ「弁護士白書」(https://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/publication/whitepaper.html , 2020/04/02参照).
・日本弁護士連合会ホームページ「民事司法改革と司法基盤整備の推進に関する決議」(https://www.nichibenren.or.jp/document/assembly_resolution/year/2011/2011_2.html, 2020/04/02参照).

*1:本当に、世間話程度のどうでもよい余談なのですが、通販サイトの返金・返品制度などをみていると、中国系サイトはトラブルをノーマルな事態として捉えたうえで、それに素早く対処をするという方針で発展してきたように見えます。「商品が届かない」と一言いえば、すぐに返金や送り直しの手続きが行われるので、その点では利用しやすいです。証拠等を求められることもほとんどありません。ここで貫かれているのは、「ミスを絶対に出さないようにする」という姿勢ではなく、「ミスが起きることを通常の事態として捉え、それに素早く対応する」という姿勢でしょう。かかる労力などを考えても個人的には後者の姿勢を支持したいなと思います。

*2:日弁連「民事司法改革と司法基盤整備の推進に関する決議」より (2011年)。なお、実数や元になったデータなどを見つけることはできませんでした。

*3:現代社会」「政治経済」といった教科でも、民事訴訟に関する法教育はあまり積極的に行われていないようです。なお、法務省が教科「公共」に向けて作成した高校生向け法教育教材には、「民事紛争解決」を扱ったものがいくつかあります。そのうちの一つは後に紹介する「隣人訴訟」と非常に似た内容となっており、興味深いです (法務省「未来を切り拓く法教育」、「民事紛争解決 (1)」)。

*4:なお、法意識論の限界については、一連の記事の末尾で触れたいと思います。

*5:なお、法意識論の代表としては、(川島,1967) が有名でしょう。また、逆に「日本には法が根付いている」という立場からの本には (フット,2006) があるのですが、私は未読です。

*6:社会学的観点から見れば、そもそも「日本人」や「意識」なる語を用いるにあたってはかなり慎重になるべきだと思いますし、その点が気になりだすと読むに耐えるものではないという気持ちにもなったりもするのですが、そうしたことは今は置いておきましょう。本報告においても、「日本人」「意識」という語を、とりあえずは無反省に用いることとします。