世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

アッシリアはなぜ1400年も "続いた" の?②

2. アッシリアの同一性とはどのような性格のものであったか


 アッシリアについて研究している渡辺和子さんは、アッシリアの一貫性を歴史的一貫性と宗教的一貫性、そして「アッシュル」という名の一貫性に求めています (文献②:288-93)。以下では渡辺さんの他の論文 (文献③) を参考にしながら、これらの一貫性を改めて記述していくことにしましょう。




 まず、驚くべきことに、アッシリアについては「アッシリア王名表」をもとに初代から117代までの連続するアッシリア王名を並べることができます。近隣のバビロニア (南メソポタミア) には一貫したバビロニアという国がなかったということをふまえるならば (文献③:273)、このことはさらに驚きに値するでしょう。

 もちろん、1400年近く王朝の交代がなかったわけではありません。例えば「アムル系のシャムシ・アダド1世 (在位前1813-1781年) はアッシリアの政権を奪い取って第39代アッシリア王と」なりました。しかし、彼は「新王朝を開くのではなく、自分の祖先をアッシリア王名表の初めの方に織り込むことによって、自らの王権を正当化したの」です (文献③:278)。これは、とても興味深いことでしょう。

 以上の王朝交代劇が物語っているのは、つまるところアッシリアの同一性とは、例えば「血統」といったものに支えられたものではなかったということです。その同一性は王位簒奪者が自身を「アッシリア」の歴史の一部に位置づけることなどによっていたのであり、その点で「血統」や「王」などといったものよりもさらに抽象的な事柄に支えられたものであったといえるでしょう。


 こうした歴史的同一性を可能にした要素として、渡辺は神「アシュール」と土地「アシュール」の関係性に触れています。アッシリアにおいて、なぜ神と土地の名前が同一なのかはかねてよりの謎でした。他地域にもアシュールに対応する神はおらず、家族についての系譜も存在しなかったため、アシュールと他の地域の神々との関係も不明です。

 研究者であるランバートはこの理由を、土地アシュールの神格化から説明しました (文献④)。つまり、土地アシュールが神格化された存在こそが神アシュールだと考えたのです。そのように考えれば、アシュールの系譜が存在しなかった理由も容易に説明することができます。また、渡辺によれば、アッシリアの長い歴史のなかで、アシュールへの信仰が支配下周辺諸国に強要された形跡はないといいます。こうしたことも、神アシュールは土地アシュールと結びついた存在だったということを示唆しているといえるでしょう (文献③:281)。


 さて、そうしたなかで、王の立ち位置もまた特殊な性格を帯びることとなりました。独立した最初のアッシリア王として認められる第27代王ツィルルの印章には、「[土地]アッシュルは王、ツィルルは[土地]アッシュルの副王」と記されています (文献③:277)。ここからは、土地アッシュルが王であり、アッシリア王はその副王であるという特殊な理念を読み取ることができるでしょう。やがて「[土地]アッシュルの副王」という部分は「[神]アッシュルの副王」と表記されるようになり、それが歴代アッシリア王の称号となっていきました *1


参考文献

[文献①] 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『[改訂版]詳説 世界史研究』(山川出版社,2008).
[文献②] 大貫良夫『世界の歴史① 人類の起源と古代オリエント』(中公文庫,2009).
[文献③] 渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」(in『岩波講座 世界歴史2オリエント世界-7世紀』,岩波書店,1998).
[文献④]Lambert,W,G. ,“The God Assur,” Iraq 45, 1983.
[文献⑤] 柴田大輔「アッシリアにおける国家と神殿 ―理念と制度」(in「宗教研究」,89:79-105,2015).
[文献⑥] 山田重郎「軍事遠征と記念碑 アッシリア王シャルマネセルⅢ世の場合」(in「オリエント」,42:1-18,1999).
[文献⑦] 青島忠一郎「新アッシリア時代の王碑文における王の自己表象の変遷 ―「前史」の考察を手がかりに」(in「オリエント」,57:16-28,2015).
[文献⑧] 前川和也「古代メソポタミアとシリア・パレスティナ」(in『岩波講座 世界歴史2オリエント世界-7世紀』,岩波書店,1998).
[文献⑨] 渡辺和子「西アジア北アフリカ古代オリエント(2)(1994年の歴史学界:回顧と展望)」(in「史学雑誌」,104:922-5,1995).

*1: なお、ツィルル以前には、「[土地]アッシュル」の部分にはウル第三王朝の王が当てはめられていたと推測されています。要するに、ウル第三王朝が力をもった時代、ウル第三王朝の王が主王であり、アッシリアが副王であるという宣誓が行われていたであろうということです。  また、渡辺はここで「issiakkum」を「王」と訳しているのですが、後の時代において「王」にあたる語は「sarrum」であり、「issiak」は「知事」に値するものを指す言葉とされます。柴田大輔は、アッシュル市の領主は限定された権限しか持たず、少なくとも前14世紀の領邦国家建設までは自称としても他称としても「王sarrum」という称号は用いなかったとしています。こうした柴田の説明に従うならば、ここでツィルルは自身を「知事」としたうえで、ウル第三王朝衰退によって不在となったその主人の位置に都市アッシュルを置いたということになるでしょう。  なお、都市を王とし、領主を知事とする同様の理念は、ウル第三王朝の弱体化に伴って独立したエシュヌンナ市においても確認されており、これをアッシリア独特の理念であるとみることはできないということです。いずれも (文献⑤) より。