世界史を、もう少し考える

高校教員が、世界史や社会学についてあれこれと書きます。(専門は社会学です)(記事の内容は個人によるものであり、所属する団体等とは一切関係はありません。)

カード法の提案と、古代ギリシアの授業案 (第2節) — 身につけるべき能力ってなんだろう?

2. 身につけるべき能力ってなんだろう?

  • 2. 身につけるべき能力ってなんだろう?
    • 2.1 情報を読み解き、把握し、まとめる能力
    • 2.2 情報を整理し、それを論理的に整序する能力
    • 2.3 情報を意味づけ、意義づける能力
    • 2.4 新たな情報に応じて、内容の構成を柔軟に変更していく能力
    • 2.5 データベースを活用しつつ、問いを案出する力
    • 2.6 まとめ — 求められる5つの力

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カード法の提案と、古代ギリシアの授業案 (第1節) — 知識構成型ジグソー法の抱える難点

1. 知識構成型ジグソー法が抱える難点

  • 1. 知識構成型ジグソー法が抱える難点
    • 1.1 問いは教師が立てて良いのか
    • 1.2 そもそも科学等において必要なのは、与えられたピースをもとにパズルを解く力ではない
    • 1.3 対象の限定と、データベースの不在

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カード法の提案と、古代ギリシアの授業案 (目次) — 「高校の授業において求められる能力」と「大学のレポート作成において求められる能力」の間をいかに埋めるかについての一考察

 今回は授業法に関する話をしたいと思います。とくに、近年 (ずっと前から?) 流行りの協調学習だとか、協同学習だとか、対話的で深い学びだとか、そういうものの限界を指摘し対案を提示すること、それを目標とします。読書会の内容がオリエントと古代ギリシアだったので、それにあわせて古代ギリシアを対象にした具体的な授業案も作成しました (時間の関係上、だいぶ粗悪・粗雑ですが)。なお、以下の話は基本的にレベルの高い進学校を想定しています。くだけた書き方で進めていこうと思うので、肩の力を抜いて読み進めてください。

 先にこの記事が何を狙っているのか書いておきましょう。この記事は、(1) 教師が生徒に、「授業のメインテーマとなる問い」と「その答えを構成しうる知識」を与えてしまう授業実践の限界を指摘しながら、(2) 生徒自身が「問い」を立てて何かを論じる実践はどのように可能かを考えていくものです。(3) これは「レポート作成能力、ひいては研究能力を授業のなかでどのように身につけさせるか」という課題にもつながるものであるため、本記事は例えば「大学1年生にレポートの作成方法をどう教えるか」という視点からも読めるかもしれません。(4) いずれにせよ、本記事は「高校の授業で求められる能力」と「大学のレポート作成で求められる能力」との間に存在する差異を、無理なく妥当に乗り越えるための方策について考察するものであり、高校生・大学生の両方に寄与しうるようなものとなっています (少なくともそのつもりで書いています)。

 まぁ勉強会のために一週間で書き上げた原稿なので色々とつたないところがあるのですが、何かの参考くらいになればと思い、公開しておくことにしました。以下、太字部分がリンクになっています。そこから各節へ飛んでください。

1. 知識構成型ジグソー法が抱える難点


 1.1 問いは教師が立てて良いのか


 1.2 そもそも科学等において必要なのは、与えられたピースをもとにパズルを解く力ではない


 1.3 対象の限定と、データベースの不在


2. 身につけるべき能力ってなんだろう?


 2.1 情報を読み解き、把握し、まとめる能力


 2.2 情報を整理し、それを論理的に整序する能力


 2.3 情報を意味づけ、意義づける能力


 2.4 新たな情報に応じて、内容の構成を柔軟に変更していく能力


 2.5 データベースを活用しつつ、問いを案出する力


 2.6 まとめ — 求められる5つの力


3. 古代ギリシアを例にした、授業法の提案

 3.1 導入部 (1時間) — カード作成の利点を理解する


 3.2 民主政治の成立 (1時間)


  3.2.1 メタ能力:文章読解


  3.2.2 メタ能力:意義と限界を想像し論じる


 3.3 ペルシア戦争と民主政の完成 (1時間) ― メタ能力:全体像の理解と仮説の提示


 3.4 レポートの作成 (1~2時間) ― メタ能力:仮説の修正、そして問いの発見とレポートの作成




***

文献紹介:初沢亜利『東京、コロナ禍。』 ~写真から考える、コロナ禍がもたらしたもの~


 改めて緊急事態宣言が出されそうになっている今だからこそ、おススメしたい写真集があります。コロナ禍の東京の姿を、約4か月という短いスパンで切り取った、初沢亜利『東京、コロナ禍。』(柏書房,2020) です。


東京、コロナ禍。



 私も最近よく写真を撮るのですが、写真というものはとても面白いもので、基本的には景色の一部を切り取っているだけであるにも関わらず、ときにどこか批評的な意味合いを帯びることがあります。例えば、この記事に掲載されている写真を見てください。これらはすべて『東京、コロナ禍。』に収録されているものです。とくに注目してほしいのが、一番下にのっている「使用禁止にされた荒川区の公園の遊具」。私は本屋でこの写真を見たときに、思わず写真集を持ってレジへと直行してしまいました。


 (印刷されたものを見るともう少し細部における技術の上手さを見ることができるのですが、ネット上の記事だと解像度が低くなってしまうこともあり) 記事を見る限りでは普通の写真に見えるかもしれません。少なくとも、緊急事態宣言下でほとんどの人が目にした、都内や近郊ではありふれた光景であるといえるでしょう。しかし、公園の遊具の周りに「立ち入り禁止」というイエローテープが過剰なまでに張り巡らされた状況は、そこだけ切り取って見るとかなり異様なものであるようにも見えます。


 この写真が第一に伝えているのは、コロナ禍において、公園の遊具は突如「危険物」として扱われるようになったということです。ひいては、公園という公共の場、さらにいえば公共空間全体が、何よりも危険なものとして扱われるようになったということを、我々に対して伝えています。コロナ、そして緊急事態宣言というものが、公共空間の意味合いを大きく変化させたこと、その様子をこの写真は切り取っているのです。


 しかし、第二にこの写真が伝えているものがあります。それは右下にそれとなく写り込んでいる、ブランコに乗る少年の姿です。少年は、危険物と意味づけられた遊具に乗り、大きく体を空へと投げ出しています。この写真集にはほかにも、イエローテープが貼られたシーソーに乗って (もはやイエローテープそれ自体を遊具にしてしまうかのように) 楽しそうに遊ぶ子どもたちの様子が収録されているのですが、ブランコの少年やシーソーで遊ぶ子どもたちを見ていると、空間の意味づけのせめぎあいのようなものを感じてしまいます。コロナ禍の前まで、公園で子どもが遊ぶのは自然の光景でした。しかし、緊急事態宣言下、あるいは感染拡大のさなかにある今日においては、公園はなにかしらのせめぎあいの場、特定の緊張感をはらんだ場へと変容してしまったのです。


 優れた写真は、批評的な景色の切り取り方をし、それを鑑賞者に対して提示することで、鑑賞者の目にうつる景色の見え方を変えてしまいます。コロナ禍の街並みに少しずつ慣れてきており、ついつい色々なことを見逃してしまう今だからこそ、そうした写真を見て観察眼を養うこと、それが案外重要なのではないでしょうか。


 この写真集には、ものの見え方を変えてしまう力をもった優れた写真が多く収録されています。同時代の日本をこのように高度な批評性をもって切り取ることのできる著者 (撮影者) の観察眼には感嘆せざるをえません。ぜひ、一度目を通してみてください。




book.asahi.com

「表紙に選んだのは子どもの頃に遊んでいた、家の近所にある公園の遊具。少なくとも40年前からあったのに、改めて見たら、コロナウィルスに見えた。いったんそう見えたら、なんでコロナにしか見えなくなっちゃうんだろう。世の中の偏見の中に自分もいたということを確認しますよね。そういうおかしさがあるんです。」

『平成たぬき合戦ぽんぽこ』に見る戦後史:あるいはこの社会が通り過ぎた景色について

0. 戦後日本社会が通り過ぎてきた光景について考える


 『オトナ帝国』について書いた勢いで、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』(以下、『ぽんぽこ』) と戦後日本社会についても書いてみようと思う。この映画から、日本社会の何を考えていくことができるだろうか。

 『ぽんぽこ』を題材にしながら本記事が描き出していくのは、消費社会化に伴って様々な「運動」が終焉を迎えていく日本の姿である (『オトナ帝国』記事4節で軽く触れた内容について、異なる視点から見ていく記事だと思ってもらえば良い)。本論へと進む前に、記事の構成を述べておこう。第一節では、藤子・F・不二雄の短編作品を取り上げながら、1960年代~70年代当時の社会状況を確認していく。第二節では、そうした社会において進められたニュータウン開発がどのような性格を有しており、農村社会にどういった変化をもたらしたのかを見る。第三節では、たぬきらの「妖怪大作戦」がなぜ失敗したのかを分析しながら、日本の消費社会化が何をもたらしたのかを考える。そして、第四節では分裂したたぬきたちの行く末を、戦後日本社会における諸事件と結びつけながら記述し、それぞれの敗北を描き出していく。

 以上のような内容を通じて私は、戦後日本社会が通り過ぎてきた様々な光景を描き出したいと考えている。その光景を確認し、そこから振り返って、私たちが現在どのような地点に立っているのかに思いを至らせること。それがこの記事の狙いである *1

 なお、先の『オトナ帝国』記事とは違って、本記事の内容を高校「現代社会」などの授業で扱えるかはかなり怪しい。しかし、少なくとも経済史がカバーできない側面 (教科書のなかであまり触れられない日本社会の側面) について考えるためのきっかけくらいにはなるかもしれない。また、先の『オトナ帝国』に比べるとかなり短い記事になっている。安心して (?) 読み進めてもらいたい。




  • 0. 戦後日本社会が通り過ぎてきた光景について考える
  • 1. 1970年代の不安:藤子・F・不二雄作品における人口増加への怖れ
  • 2. 舞台となる「ニュータウン」:農村の消失と郊外の誕生
  • 3. 運動の時代から消費の時代へ : 妖怪大作戦は何に負けたのか
  • 4. それぞれの敗北 : 運動のゆくすえを見つめて
  • 5. むすび:消されてしまった景色について

*1: こうした狙いもあり、およそ1960年代~1990年代までの日本社会を通覧する形になるよう記事を構成した。多くの内容に触れているため、やや各節の内容とそのつながりが散漫になっているきらいがある。「『ぽんぽこ』という映画一つから色々なことを考えていくことができる」というエッセイ的な記事なので、あまり気負わずに読んでほしい。

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『オトナ帝国』というレトロトピア (おわりに):『オトナ帝国』の今日における価値と限界

おわりに:『オトナ帝国』の今日における価値と限界


 さて、本記事では冒頭で『オトナ帝国』の今日における価値と限界を確認していくという目標を提示した。これを意識しながら、本記事を通じて明らかになったことをまとめておこう。

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『オトナ帝国』というレトロトピア (第五節):家族というイデオロギー、『オトナ帝国』の限界

5. 家族というイデオロギー、『オトナ帝国』の限界

 かなり長い道のりにはなったが、以上で我々は、イエスタディ・ワンスモアがどのような組織なのか (3節)、彼らはどのような価値観の前に敗北するのか (4節) を確認することができた。そしてその果てに、実はこの映画では、「昭和」と「家族」が同じくらい理想化されているのではないかという問いへとたどりついた。最後に本記事が検討していきたいのは、この点において『オトナ帝国』は完全に「昭和ブーム」というものの範疇に属しているのはないかということだ。

 それを検討するためにも、ここで再びレトロトピアをめぐる今日の政治シーンへと話を戻すことにする。ただし、今度は日本政治におけるエピソードとして、レトロトピアを捉えなおすのである。


  • 5. 家族というイデオロギー、『オトナ帝国』の限界
    • 5.1 「美しい国」とレトロトピア。そして昭和ブームと家族の関係
    • 5.2 新自由主義と家族との結びつき
    • 5.3 余談:『美しい国へ』における『ALWAYS』評はどう読まれたのか
    • 5.4 家族という思想、ヒロシという神話

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